礼拝説教 2013年2月17日

「賛美の食事」
 聖書 ルカによる福音書9章10〜17 (旧約 列王記上17:15〜16)

10 使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。
11 群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。
12 日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」
13 しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」
14 というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。
15 弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。
16 すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。
17 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。




イエスを求める人々

 イエスさまの代わりに神の国の福音を宣べ伝えるために派遣された使徒たちが戻ってきました。そして使徒たちはイエスさまに自分たちの働きを報告しました。するとイエスさまは、使徒たちを連れて「自分たちだけで」ベトサイダという町のほうに退かれました。
 イエスさまは、群衆を離れ、ご自分の弟子たちだけで退かれようとされた。なんのためでしょうか?‥‥少し休むためだったでしょうか。イエスさまはいつも群衆に取り囲まれていました。それで弟子たちに休息を与えようとしてかもしれません。あるいは、他に何か弟子たちとだけで過ごす目的があったのかもしれません。いずれにしても、イエスさまは、弟子たちとだけで過ごすためにベトサイダの町に退かれました。ところが人々はそれを放っておきませんでした。群衆はそれを知って、イエスさまの後を追ったのです。
 私たちはそれを読んで、みんな少しイエスさまたちをそっとしておいてやったらよいのに、と思わないでしょうか。それにしても、なぜ群衆はそのようにイエスさまを追いかけ回すのか。それは、イエスさまの後を追った群衆に対して、イエスさまが何をなさったかを見れば分かります。
 11節には、イエスさまがその人々に神の国について語り、治療の必要な人々を癒されたと書かれています。すなわち、この人々は、イエスさまから神の国のことを聞きたかった。あるいは、病を癒していただきたかったのです。それほど切実だったわけです。イエスさまを必要としていたのです。そう考えると、群衆も、必死であったことが分かります。そしてイエスさまは、その人々を追い返すようなことはなさいませんでした。求めに応じて、神の国のことをお話になり、病を癒されました。
 私たちはどうでしょうか。そこまでイエスさまを必要としているでしょうか。何としてもイエスさまにすがらなくては、という思いがあるでしょうか。イエスさまは、「求めなさい、そうすれば与えられる」とおっしゃいました。「門をたたきなさい、そうすれば開かれる」とおっしゃいました。退かれようとするイエスさまの後を追ってまでも、イエスさまを求めるものでありたいと思います。

あなたがたが食べ物を

 さて、そうこうするうちに日も傾いてきました。それで使徒たちはイエスさまに言いました。12節「群衆を解散させてください。そうすれば、まわりの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。私たちはこんな人里離れた所にいるのです。」‥‥もっともなことです。私たちも同じように思います。しかしここから、一般に「五千人の給食」と呼ばれる奇跡が起こるのです。そして、この奇跡は、新約聖書の4つの福音書すべてに書き記されている奇跡です。そのような奇跡はあまりありません。するとこの奇跡は、弟子たちにとって非常に印象的で意味のある奇跡であったと言うことができるでしょう。
 使徒たちは、もう夕方になるので群衆を解散させてくださいと言う。それはすごくまともな意見です。ところがそれに対してイエスさまは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とおっしゃる。
 これには弟子たちは、どれほど驚いたことでしょうか。というのも、そこにいた人々は、男が5千人ほどもいたからです。「男が5千人」と書かれているのは、女がいなかったからではありません。旧約聖書を読むと分かりますが、当時のイスラエルでは女性と子供は数えないことになっていたからです。そしてここには男しかいなかったということは考えられません。そもそもイエスさまの弟子たちの中にも、婦人の弟子たちがかなりいたことが前にも書かれていました。そうすると、仮に女性が男と同数であったとしても計1万人です。その他に子どももいたに違いありません。子どもだけ家に置いてきたとも考えにくいのです。そしてこの時代は、昔の日本がそうであったように、子どもの多い時代でした。そうすると、子どもが数千人はいたと考えるべきでしょう。そうすると、普通に考えて、合計1万数千人はこの場所にいたであろうと思われます。
 イエスさまはそれだけ多くの人々を前にして、弟子たちに向かって「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とおっしゃったのです。
 さて、では弟子たちは、どれだけの食料を持っていたのでしょうか。実に、「パン五つと魚二匹」でした。この魚がどんな魚だったのか、気になるところですが、いずれにしろパンが五つと魚が二匹では、1万数千人の人々に対してはなんの足しにもなりません。誰が考えても焼け石に水です。ですから弟子たちは、「このすべての人々のために、私たちが食べ物を買いに行かない限り」と付け加えました。これはもちろん、「そんなことできるわけありませんよ」という意味が込められていると思います。
 まさに無理な話です。パンが五つと魚が二匹しかないのに、いったいどうやってこの大群衆を食べさせることができるのか。できません。それが答えです。

人間にはできないが

 しかしここで弟子たちは、完全に忘れていることがあります。それは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とおっしゃった方が、イエスさまであるということです。この場所に来る前、12弟子、すなわち使徒たちは、イエスさまから悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力と権能を授けられ、福音伝道の旅に出かけたのではなかったでしょうか。本来は使徒たちには病気を癒したり、悪霊を追い出す力はありません。しかしそれをイエスさまがお授けになった。また、何も持たないで出かけたけれども、旅先で食べ物を食べさせてくれる人を主が備えていてくださり、宿を提供する人を主が備えてくださった。そういう奇跡を見てきたばかりではなかったでしょうか。神さまの奇跡、イエスさまの奇跡を見てきたのです。
 ところが今、1万数千人の群衆を前にして、たった五つのパンと二匹の魚で彼らに食べさせることは無理だと絶望してしまっている。もちろん、弟子たちには食べさせることはできません。しかし、イエスさまにならできる、ということをもう忘れてしまっているのです。
 しかしこれは他人事ではありません。私たちも、同じように思うのではないでしょうか。神さまの奇跡や助けを、私たちも何度も体験してきたはずです。ところが、新しい問題が起こってくると、もうそのことは忘れてしまって、困った、困ったと言うのです。「もうダメだ」と嘆くのです。弟子たちも同じでした。イエスさま、神さまの奇跡を体験してきたはずなのに、目の前の大群衆を見て、この人々を食べさせることなんかできないよ、と確信してしまっているのです。確かに人間には無理です。しかしすぐとなりにイエスさまがおられる。この事も忘れてしまっている。

イエスさまにささげる

 するとイエスさまは「人々を50人ずつ組にして座らせなさい」と弟子たちにお命じになりました。解散させるのではなく、座らせた。組にして座らせた。もう食卓を囲む用意をさせたのです。いったいこれから何をなさるというのか? 手元には、パンが五つと魚が二匹しかないのです。
 するとイエスさまは、その五つのパンと二匹の魚を手に取り、「天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」と書かれています。五つしかないパンを1万数千人分に裂いたら、パンのかけらは数ミリの大きさしかなくなってしまうではないか、と思います。ところが「すべての人が満腹して食べた」。すなわち、イエスさまの手の中で、そのパンが増えたということです。魚も同様です。すなわちこれは、イエスさまの奇跡であると聖書は言っているのです。
 5つのパンと2匹の魚が、弟子たちの手元にある限りは、ただの5つのパンと2匹の魚でした。それがすべての持ち物でした。しかしそれがイエスさまの手に渡った時、奇跡が起き、それは非常に多くの人々を養うものとなったのです。
 この出来事が、4つの福音書全てに書き記されているのは、そのような奇跡を見たからでしょう。やがてイエスさまが天に帰られ、聖霊によって教会が誕生して、全世界に福音を宣べ伝えていくと言う時、自分たちがどんなにわずかなものしか持っていないか、そして自分たちがどんなに小さな存在であるかということを見て、心配になったことでしょう。しかしそのわずかなものを、主イエスのためにささげ、また自分自身をささげていった時、そこに神さまの奇跡が起こるのを体験していったのです。多くの人々が、神の恵みによって養われるのを見ることができたのです。

賛美の祈り

 さて、今日の聖書個所で、もう一つ注目したいことがあります。それは、たった5つのパンと2匹の魚をイエスさまが受け取った時、イエスさまはどうなさったか、ということです。聖書をもう一度見ると、イエスさまはそれらを手にとって、天を仰いで「それらのために賛美の祈りを唱え」たと書かれています。
 ここで「賛美の祈り」と訳されていますが、この言葉は「感謝」とも訳せる言葉です。聖書では賛美も感謝もほとんど同じ意味となっています。神さまに感謝し、賛美するということです。すなわちイエスさまは、1万数千人の群衆に対して、たった5つのパンと2匹の魚しかないのにもかかわらず、そのことについて感謝を神さまにささげたのです。「なんだ、これしかないのか」と不平を言われたのではありません。感謝を神にささげられたのです。そうして、この大群衆が満腹するまで食べることができたという奇跡となったのです。
 これは、私たち自身についても教えています。神さまに感謝すること、神さまを賛美することの尊さをです。それがどんなにすばらしいことか。そして神さまの働き、奇跡を見ることができるか、ということです。
 インターネットで、ある牧師の説教を聴いておりましたら、その先生は、毎朝祈る時に、「ハレルヤ、主よ、感謝します」と7回言うことにしていると語っておられました。私はそれを聴いて、「なるほどなあ」と思い、まねしてみることにしました。良いと思ったことは、すぐにまねしてみたくなるのです。私は、朝起きたら礼拝堂に行って聖書を読んで祈るのですが、そのときにこの先生がおっしゃったように「ハレルヤ、主よ、感謝します」と7回言ってみました。するとなるほど、神さまが身近に感じられました。
 しかししばらくして、私はそれにさらに言葉を付け加えてみることにしました。つまり、「主よ、感謝します」と祈っても、何を感謝するのかをはっきりさせた方がよいと思ったのです。それで、「主よ、○○を感謝します」と7回言うことにしました。ところが、最初はなかなか思いつかないのですね。恥ずかしながら。「何を感謝しようか。解決をお願いしたい問題はたくさんあるけれど、何か感謝することがあるか?‥‥」と考えてとまってしまう始末でした。
 しかししばらくして、自分が当たり前だと思っていることを感謝すればいいのだということが分かりました。それで、「主よ、きょうも朝、目覚めることができたことを感謝します」という言葉から始めることにしました。考えてみれば、きょうは死んでいたかも知れないのですから。あとは続けて、思いつくままに感謝を祈るようにしました。‥‥「主よ、きょうもこのように動けるということを感謝します。」「主よ、家族が生かされていることを感謝します」、「主よ、きょうもごはんを食べることができることを感謝します」‥‥という具合です。
 もちろん、困った問題も起きてきます。朝から憂うつになるようなこともあります。では困った問題については、感謝できるのでしょうか?‥‥それはこのように感謝して祈ればよいことが分かりました。「主よ、この困った問題が起きたことを感謝します。なぜなら、あなたにおすがりすることができるからです。感謝します。どうぞ助けて下さい」という具合です。また、行きたくないところに行かなくてはならない日もあります。そのような時は、「主よ、今日、行きたくないところに行かなくてはなりません。しかし主よ、感謝します。聖霊なる神さまが一緒に行ってくださるから感謝します」と祈ることができます。
 そのようにして、7つの感謝を具体的にささげます。別に7つでなくても、もっとたくさんでも良いに決まっているのですが、たくさん感謝することで毎日続かなくなると困るので、7つと自分で決めています。どうぞ、やってみようという方は、朝起きたら聖書を読み、そして主の祈りを唱え、そして7つの感謝の祈りから始めてください。一日が違ってきます。朝ふとんから起きた時は、気分は重いし、重荷によろめきそうな時でも、一つ一つ感謝の祈りをささげていると、霧が晴れていくようになるという経験をしています。そして、主が共に歩んでくださることが信じられるようになります。
 どうか、この一週間も、皆さんと共に主が歩んでくださいますように。


(2013年2月17日)



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