礼拝説教 2013年2月10日

「イエスは何者か」
 聖書 ルカによる福音書9章7〜9 (旧約 マラキ書3:23〜24)

7 ところで、領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った。というのは、イエスについて、「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言う人もいれば、
8 「エリヤが現れたのだ」と言う人もいて、更に、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人もいたからである。
9 しかし、ヘロデは言った。「ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。」そして、イエスに会ってみたいと思った。




いったい何者か

 「いったい何者だろう」と、ヘロデは言いました。すなわち、「イエスとは、いったい何者か?」と言ったのです。
 イエスとはいったい何者か?‥‥しかしこの問いは、決して他人事ではありません。またこの問いは、単なるナゾナゾや、歴史の試験問題ではありません。そこに私たちのすべてがかかっている問いです。私たちの命運がかかっていると言えるし、私たちの未来のすべてがそこにかかっていると言ってもよいでしょう。それぐらい重大な問いであることを、聖書は語りかけているのです。

ヘロデの当惑

 今日の聖書個所の最初7節で、領主ヘロデが「これらの出来事をすべて聞いて戸惑った」と書かれています。「これらの出来事をすべて」というのは、今までのイエスさまがなさったり、おっしゃったりしたことです。すでにイエスさまのことは、ガリラヤ地方に広く知れ渡っていました。それがガリラヤの領主であったヘロデ王の耳にも入ったということです。
 ヘロデという名前は、聖書によく出てきますが、ここで出てくるヘロデは、イエスさまがお生まれになった時のヘロデ王とは違います。イエスさまがお生まれになった時のヘロデ王は「ヘロデ大王」と呼ばれ、きょう出てくるヘロデは、ヘロデ・アンティパスという人で、ヘロデ大王の第4の妻の子です。
 そのヘロデ王はイエスさまの噂を聞いて、戸惑ったと書かれています。ここで「戸惑った」と日本語に訳してある言葉は、もう少し強い意味があるようです。私が愛用しているギリシャ語辞典では、「途方にくれる,思案にくれる,どう判断してよいのか分からずにいる,すっかり当惑している.」という意味であると書いてありました。口語訳聖書では、「あわて惑っていた」と訳しています。イエスさまの噂を聞いて、いったいなぜそんなに当惑したのでしょうか? 王様ともあろう者が、ちょっと大げさすぎるようにも思えます。
 それは、イエスさまについて「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言う人がいたということにあります。ここで言うヨハネとは、イエスさまに洗礼を授けた洗礼者ヨハネのことです。それでヘロデ王はあわて惑ったのです。なぜなら、9節でヘロデ自身が言っているように、洗礼者ヨハネの首はヘロデ王がはねたからです。
 洗礼者ヨハネの首をはねることになったいきさつについて、ルカによる福音書には書かれていません。しかし3章19節に、ヘロデが自分の妻ヘロディアとのことについてヨハネに責められたので牢に閉じ込めた、ということは書かれています。‥‥ヘロデの妻ヘロディアは、もともと異母兄であるフィリポの妻でした。しかしヘロデは、ヘロディアと通じ、その妻を自分のものにしたのです。このことについて、洗礼者ヨハネは、それは律法違反であると指摘した。それでヘロデが怒ってヨハネを投獄したのです。そしてヨハネを殺そうと思った。でも殺さなかった。その理由は、マルコによる福音書6章によれば、「なぜならヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである」‥‥と述べています。
 つまり、ヘロデは王である自分を批判したヨハネを殺そうとして捕らえたものの、ヨハネが確かに聖なる人、神の人であることを知って、苦しみながらも喜んでヨハネの話しを聞いていた。だから殺さないでいた。ところが、ある日、ヘロデの誕生日を祝う宴席で、ヘロディアの娘が入ってきて舞を舞い、客を喜ばせた。それでヘロデ王は、娘に「欲しい物があれば言いなさい。国の半分でもやろう」と言いました。すると娘は、母のヘロディアと相談して、「洗礼者ヨハネの首を」と言いました。ヘロデは心を痛めましたが、誓ったことではあるし、客人の手前今さら取り消すわけにもいかず、家来によってヨハネの首をはねさせたのでした。
 本日の聖書個所で、ヘロデが「ヨハネなら、私が首をはねた」と言っているのはそのことです。そして、ヘロデが、戸惑った、あわて惑い、途方に暮れたのは、自分が首をはねたヨハネが生き返ったのなら、それは不吉な出来事です。再び自分を裁くかもしれません。それで非常に当惑したのであると思います。

罪責感

 そしてそのヘロデの心の底には、罪責感があります。正しい人、聖なる人と分かっている人を、自分のメンツのために殺してしまった。そういう罪責感、罪の意識です。自分が犯した罪、過ちというものは、時々思い出したように、自分の心の中によみがえってきて、自分の心を刺します。そして不安にさせます。そして罪というものは消えることがありません。
 私がイエスさまを信じるようになった時のことでした。わたしはイエスさまを信じて、幼児洗礼は昔受けていましたので、信仰告白式をしました。しかしまだ「罪」というものがよく分かっていませんでした。イエスさまが私の罪のために十字架にかかって、代わりに罰を受けてくださったという。しかしその自分の罪というものがよく分からない。それで、私は祈りました。「主よ、私に罪を分からせてください」と。そうして何日経った頃でしょうか、突然私は、自分が今まで犯してきた過ち、神の前の罪というものがあざやかに示されていったのです。あの時、あの人に対してあんなひどいことを言った、あの時、あの人に対してこんなことをしたがそれは罪である‥‥というようにです。自分が忘れていたこと、あるいは罪であるとは思っていなかったことが、罪であるということが分かったのです。それは私の祈りを聞いて、神さまが教えて下さったことでした。
 そうして、私はどうしようもない罪人であったことが分かりました。罪を示されて、心が苦しくなりました。今さら、犯してしまった過ちはどうすることもできません。罪は消えていなかったのです。といってどうすることもできない。そうして私は、イエスさまの十字架の尊さが、あらためて分かってきたのです。まさに、罪というものは、イエスさましか解決することができないことが分かりました。その罪を赦し、神の前に帳消しにするためにイエスさまが十字架にかかって下さった、その意味というものがだんだん分かるようになっていったのです。
 ヘロデが、ヨハネが生き返ったのではないかと聞いて非常に当惑した。そこに、罪責感がヘロデの心を刺しているのを見ることができます。

私にとって何者か

 イエスとはいったい何者か。‥‥人々の中でもいろいろな憶測が流れていたことが分かります。洗礼者ヨハネが生き返ったのだ、という見方の他に、「エリヤが現れたのだ」という人もいたと書かれています。
 エリヤというのは、列王記に出てくる有名な預言者です。イエスさまの時代よりも、八百年以上昔の預言者です。イスラエルの人々が信仰を失っていく中、エリヤは神さまによって用いられ、人々の心を再び主なる神に向けさせるように働きました。そしてなぜエリヤかと言えば、一つには、エリヤは死んだのではなかったからです。列王記下の2章を見ると、エリヤの最後は、天から火の車と火の馬が迎えに来て天に上っていったと書かれているからです。
 そしてもう一つは、今日読んだマラキ書の3章23〜24節です。これは前にも礼拝で取り上げましたが、旧約聖書の文字通り最後の言葉です。そこに、終わりの日が来る前に、預言者エリヤを遣わすと、主なる神がおっしゃっています。それでユダヤ人は、メシア=キリストが来る前に、エリヤが来ると信じていました。イエスさまとは、その神さまが約束したエリヤの再来であると思った人々もいました。
 また、旧約聖書の昔の預言者の一人が生き返ったのだ、という人もいたと書かれています。そのように、神の国の福音を宣べ伝え、また多くの病をいやされるイエスさまとはいったい何者か、ということについて、人々がいろいろと憶測をしていたことが分かります。
 しかし問題は、イエスさまが私たちとどういう関係があるのか、ということです。二千年前にこの地上を歩まれたイエスさまが、たとえどんなに立派な人であったとしても、それが単に立派な人というのであれば、あまり私たちと関係ないことになります。あるいは、イエスさまがどんなに良いことをおっしゃったとしても、それは多くの名言を言った人ということに過ぎません。イエスとは何者か、という問いは、そのまま、イエスさまとは私にどんな関係のある方か、ということになります。

イエスに従う

 星野富弘さんのことを思い出しました。星野さんについては、皆さんよくご存じであると思います。口で花の絵と詩を書かれる詩人です。彼は若き日に中学の体育の先生でした。そして器械体操の模範演技を生徒たちに見せている時に、着地に失敗して頭から転落しました。病院で懸命の治療がなされ、一命はとりとめましたが、首から下が全く動かない、完全な寝たきりの生活となりました。若くして人の助けなくしては生きていくことができない体になってしまった。そのことの絶望はどんなに深かったことかと思います。
 しかし、そういう病院での生活の中で、クリスチャンの人との出会いがあり、そして聖書を読むように勧められます。最初は、自分の弱さをさらけ出すようで、同室の人の目も気になっていましたが、やがて聖書を読むようになりました。
 それまでキリスト教とも聖書とも関係の無い人生を歩んでこられた星野さんでしたが、実は高校生の時に聖書の言葉と出会ったことがあったそうです。それは、家の豚小屋の堆肥を背負って畑への道を上っていった時、突然目の前に白い新しい十字架が現れたそうです。それは作られたばかりの墓地で、十字架の表に「労する者、重荷を負う者、我に来たれ」と書かれていたそうです。それはマタイによる福音書11:28の文語の聖書の言葉でした。それが、星野さんと聖書の最初の出会いであったそうです。そのとき星野さんは、たしかに堆肥という重荷を背負って労働していた。しかし「我に来たれ」とはどういう意味だろうと、しばらくそこに立ち止まって考えていたことがあったそうです。
 そして今、病院のベッドに寝たきりとなっている。そして聖書を読んでいて、その言葉を見つけた時、自分がまだ健康だった時に、神さまがすでにこの言葉を与えて下さったのだと思ったそうです。その神さまの御心を知ったような気がしたそうです。
(マタイ11:28〜30/新改訳)「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
 星野さんの書かれた『愛、深き淵より。』の本には、このように書かれています。‥‥「この神の言葉にしたがってみたいと思った。クリスチャンと言える資格は何も持っていない私だけれど、『来い』というこの人の近くに行きたいと思った。」そうして星野さんはクリスチャンとなりました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」とおっしゃったイエスさまの言葉に従いたいと思った。「来なさい」と言われる主の言葉に。「この掟、これこれこういう律法、細かな戒めを守れ」という言葉に従いたいと思ったというのではなく、なんの資格も無いけれど、「来なさい」とおっしゃって招いて下さるイエスさまに従いたいと思った。
 キリスト者となるというのはそういうことだと思います。イエスさまが死んでしまって、もういらっしゃらないのなら、従うことができません。しかしイエスさまが、今も生きておられる方であるから、「来なさい」とおっしゃり、そのイエスさまの言葉に従うことができるのです。イエスさまがこの私を休ませてくださる方である。イエスさまの招きに応じて、イエスさまのもとに行く時、イエスさまが何者であるかが分かってくるのだと言えます。


(2013年2月10日)



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