礼拝説教 2013年2月3日

「主のわざを見るために」
 聖書 ルカによる福音書9章1〜6 (旧約 出エジプト記16:3〜5)

:1 イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。
2 そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、
3 次のように言われた。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。
4 どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。
5 だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい。」
6 十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。




12使徒を派遣

 本日の聖書個所は、イエスさまが12人、すなわち使徒たちを「神の国の福音を宣べ伝え、病人を癒すために」派遣されたことが書かれています。神の国の福音を宣べ伝え、病人を癒すということは、これまでイエスさまがなさっていたことですから、イエスさまがなさってきた福音宣教を、使徒たちにさせるために派遣されたということになります。
 なぜイエスさまは、そのように使徒たちを伝道のために派遣されたのでしょうか? その理由には、おもに二つあげられます。 一つは、イエスさまだけではイスラエルの中を回りきれなかったということができます。イエスさまが福音を宣教して巡回されたのは、おもにイスラエルの民の中でした。それはイスラエルの民が、旧約聖書で約束されていた救い主メシアが来るのを待っていたからです。しかしイスラエル中の町や村に宣べ伝えるには、イエスさまお一人では難しい。それでイエスさまが、12人の弟子たちに代わりに福音を宣べ伝えさせたと考えられます。
 もう一つは、やがてイエスさまが天に帰られた後、教会が誕生して世界に向かって福音を宣べ伝えていくことになるわけですが、そのときに備えて弟子たちを訓練したということもできます。どのようにして伝道していったらよいかを教えられたのです。
 神学校に入りますと、夏期伝道実習というものがあります。東京神学大学では、学部4年生と大学院の1年生の時の夏休みに、およそ1ヶ月間の夏期伝道に派遣されます。私も学部4年生の時に、四国の高知県の教会に夏期伝道に行きました。一つの教会ではなく、高知県東部の、当時は7つの小規模の教会が作っている香長伝道圏というところに派遣されました。伝道圏というのは、地方の小さな教会が集まって協力して伝道しているものです。その7つの教会を、一個所に2日〜1週間ほど順に滞在しながら奉仕いたしました。
 この時の経験は、非常に大きな経験となりました。とくに、農村部のキリスト者の非常に少ない地域で、小さな教会の牧師たちが、どのように働き、どのように語り、またどのように生活をしているかを身近で見ることができたからです。そして実際にそのようなところで奉仕をさせていただいて、説教を語るということがどういうことかも教えられました。そのようにして、夏期伝道は私の伝道者としての非常に大きな経験となりました。伝道者として歩む備えとなったのです。この時の使徒たちも同じであったと思います。

権能を授けるのは主

 さて、イエスさまは、その12弟子たちに、「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力と権能をお授けになった」と書かれています。そして、6節には、実際にこの弟子たちが至るところで福音を告げ知らせ、病気を癒したと報告されています。病気を癒すという奇跡は、イエスさまだけがなさるのかと思っていたら、弟子たちもそうしたと報告されています。
 しかし弟子たちは、自分の力で病気を癒したのではありません。冒頭に書かれているように、イエスさまがその権能を弟子たちにお授けになったというのです。だから主権はイエスさまにあるわけです。弟子たちが、町々村々にそのようにして神の国の福音を宣べ伝えていくと、病人の病気が癒されるわけですから、弟子たちには誘惑が生じたのではないかと思います。弟子たちが、病気を癒してほしいという願いを聞いて、その人の病気を癒す。すると癒された人は、「あなたはなんとすばらしい人なのでしょう!」と言って、賞賛したことでしょう。賞賛されたら、人間、気持ちよく思うものです。悪い気はしません。
 しかしそこが落とし穴です。そのままにしておいてはならない。なぜなら、その病気を癒した力は弟子たちのものではなく、イエスさまが与えたものだからです。だから、弟子たちは、人々から賞賛されても、「いいえ、これは私が癒したのではありません。わたしを遣わされた主イエスが与えられた力であり、イエスさまがお癒しになったのです」と言わなければなりません。同様に私たちも、私たちにさまざまな力を与えてくださる主を証しするものでありたいと思います。

何も持たずに

 さて、その弟子たちを派遣する時に、イエスさまは3節のように言われました。「旅には何も持っていってはならない。杖も袋もパンも金も持っていてはならない。下着も二枚は持ってはならない。」
 これは本当に驚きではないでしょうか。何も持たずに行って、どこに泊まればよいのでしょうか? 食べ物を買うお金も持たずに行って、どうやって食べれば良いのでしょうか? たちまち路頭に迷ってしまうのではないでしょうか?‥‥イエスさまはなぜこんなことをおっしゃったのでしょうか? イエスさまは、なにか苦行、荒行をさせるためにこんなことをおっしゃったのでしょうか? 「若いうちの苦労は買ってでもしろ」と言いますが、苦労させて、食べる物も無く、飢え死にしそうになることもまた経験だ、というようなことで、このようにおっしゃったのでしょうか? あるいは、仮に飢え死にしても構わない、ということなのでしょうか?
 どういう意味でイエスさまがこのことをおっしゃったのか。それは結果を見れば分かります。その答えは、このルカによる福音書のずっと後の方の、22章35節に書かれています。それは最後の晩餐の後のイエスさまと弟子たちとの会話の中のことです。イエスさまが使徒たちに、「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わした時、何か不足するものがあったか」とお問いになりました。つまり今日の聖書の個所でイエスさまが使徒たちを宣教のために派遣した時、何か不足して困るものはなかったか、と思い起こさせたのです。するとそれに対して使徒たちは、「いいえ、なにもありませんでした」と答えたのです。
 すなわち、使徒たちは、杖も袋もパンもお金も下着の買えも持たずに、すなわち何も持たずに無一物で神の国の福音を宣べ伝える旅に出かけたのに、なにも困ることがなかったという結果になったのです。これは具体的にはどういうことで、困らなかったのでしょうか。例えば、使徒言行録の16章にその例があります。それはパウロが、初めてヨーロッパにキリストの福音を宣べ伝えるために到着した時のことです。このたびには、このルカによる福音書を書いているルカも同行していました。それは今のギリシャのフィリピの町でのことでした。
 安息日に、フィリピの町の川岸に行くと、何人かの御婦人たちが神さまに祈るために集まっていました。そこでパウロが、その御婦人たちに、イエスさまのことを話しました。するとその中の、リディアという紫布を扱う商人である女性について、「主が彼女の心を開かれたので」パウロの話しを注意深く聞き、イエスさまを信じるに至り、家族共々洗礼を受け、さらに「私が主を信じるものだとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言ってパウロたちを家に招き、無理に承知させた、と書かれています(使徒16:14〜15)。
 主がリディアの心を開いてイエスさまを信じるように導き、そしてそのリディアが、パウロたち一行を無理やり招待して家に泊まらせたというのです。パウロがお金を出して泊めてくれと行ったのではありません。リディアが、無理やりパウロたち一行を招待したのです。そしてもちろん、その背後には主の働きがあったのです。そのように、今日の聖書でイエスさまによって遣わされた使徒たちも、何も持たないで行ったからこそ、主がいろいろな人を使って助けてくれるのを体験できたのです。
 今日の旧約聖書は、出エジプト記の16章のマナの物語の一節を読んでいただきました。主の奇跡によってエジプトを脱出したイスラエルの民は、荒れ野の中を旅しているうちに、何も食べ物が無いので、エジプトを出てくるのではなかったと言って、モーセと主を非難しました。すると主が、毎朝地面の上にマナという不思議な食べ物を備えてくださったのです。そのように、何も無いからこそ、神さまの不思議な奇跡を見ることができたのです。
 使徒たちが派遣された時、旅行カバンにいっぱいの荷物を持ち、食糧もたくさん詰め込み、お金もたくさん財布に入れていったとしたらどうでしょうか?‥‥確かにそれは安心かも知れません。しかし、それでは主の不思議な助け、奇跡を体験することはできません。持っていかなかったからこそ、主が不思議な助けをして下さることを体験できたのです。主が生きて働いておられるのを見ることができたのです。
 私が、伝道者として最初に遣わされたところが、輪島教会であったということはさいわいなことでした。なぜならそれは、遣わされた当初、現住陪餐会員16名、礼拝出席10名という小さな教会だったからです。現住陪餐会員16名と言っても、実質的に別帳会員という人も含まれていました。それに対して逗子教会は現在、現住陪餐会員が158名です。輪島教会はその10分の1でした。これでいったいどうやって、やっていけるか、皆さん不思議に思いませんか。しかし私たちは生きていくことができました。教会も借金を背負うということはありませんでした。あるとき教会の会計役員さんが、しみじみと言いました。「教会の会計は不思議な会計や。足りんと思っていても、年度末にはちゃんと足りている」と。すなわち、神さまの不思議な助けがあるということです。
 もちろん、会計だけではありません。1年に1人か2人しか新来会者がいないのに、洗礼を受ける人が起こされるのです。これも不思議なことでした。人間的に頼るものがないから、主なる神さまに頼るしかない。だから主の奇跡を見ることができたのです。この世の物をたくさん持っていると、主に頼らなくなります。無いからこそ主に頼ります。
 だから、「無い」ということは感謝してよいことなのです。人間的に見ると不安で仕方がありません。しかし、主が生きておられるから、感謝することができます。たとえば、このように感謝して祈ることができます。‥‥「主よ、今私が必要なものを持っていないということを感謝いたします。なぜなら、あなたに頼るしかないからです。主よ、あなたにしか頼るものが無いということを感謝します。」 そうして、主がなさることにおゆだねすることができます。

埃を払う

 5節のところで、イエスさまは、誰も伝道者である使徒たちを受け入れない町があったら、「足についた埃を払い落としなさい」とおっしゃいました。これはどういうことでしょうか? これは、その町が福音を信じなかったのは、あなたがたの責任ではない、ということであると思います。そのようにして、イエスさまは、使徒たちを遣わすのが紛れもなく主イエスさまであり、イエスさまの責任であることを明確にして下さっているのです。
 今、日本のキリスト教界は、暗いムードがまん延しています。いろいろなことをしてきたはずなのに、伝道が停滞していると言われます。教会から若者が減少し、高齢化が進んでいると言われます。それで日本の教会の将来に展望がなかなか見いだせないというのです。しかし私は逆に、今こそ希望があると思っています。なぜなら、主のわざは、いつも、「無い」というところから始まっているからです。人間の知恵も無い、力も無い。これこそチャンスです。主に頼るしかない。これが希望です。神さまの大いなる働きは、ここから始まると言えます。


(2013年2月3日)



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