礼拝説教 2013年1月27日

「覆水盆に返る」
 聖書 ルカによる福音書8章49〜56 (旧約 申命記30:1〜4)

49 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」
50 イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」
51 イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。
52 人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」
53 人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。
54 イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。
55 すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、娘に食べ物を与えるように指図をされた。
56 娘の両親は非常に驚いた。イエスは、この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった。




覆水盆に返らず

 「覆水盆に返らず」ということわざがあります。‥‥今から3000年以上も昔の中国は周の国のお話し。太公望の名で知られる呂尚(りょしょう)が仕事もせずに読書ばかりしていたので、妻から離縁された。やがて呂尚が王によって見出され、大出世して「太公望」と呼ばれるようになると、妻が復縁を求めて来た。すると呂尚は、盆(中国の「盆」とは、ボール状の器)に入っていた水をこぼし、「この水を元に戻せたならば、復縁に応じよう」と言った。結局水をすくうことはできなかった。‥‥
 このことから、広辞苑によると「覆水盆に返らず」とは、「(1)いったん離別した夫婦の仲は元通りにならないことにいう。 (2)転じて、一度してしまったことは、取り返しがつかないことにいう。」‥‥ということだそうです。
 本日の聖書個所は、まさにそのことを思い起こさせます。
 イエスさまのもとに、会堂長のヤイロという人がひれ伏して、死にかかっている自分の娘を助けるために家に来てほしいと嘆願いたしました。ヤイロにとっては、ただイエスさまだけが最後の望みでした。イエスさまはヤイロの嘆願を受け入れて、ヤイロに同行しました。そしてまわりには群衆が着いていきました。ヤイロの娘は危篤状態にあり、もはや一刻の猶予もならない緊急事態です。ヤイロの家に急行しなければなりません。
 ところがそこにもう一つの事件が起きました。それは、12年間も長血という婦人病で苦しんでいた女性が、群衆に紛れてイエスさまの衣の房にそっと触ったということです。その女性は直ちに癒されました。ところがイエスさまはそこで立ち止まって、誰が自分に触れたかを探し始められました。そのようなことをしている間に時間は刻一刻と過ぎていきます。ヤイロはどのような心境でいたことだろうかと思います。そしてついに女が名乗り出て、自分がイエスさまの服に触れた理由を述べ、たちまち癒されたことを言いました。そしてイエスさまがその女に、救いの宣言をなさった。‥‥
 そのような出来事が、間に挟まりました。そして今日の聖書個所の冒頭49節を見ると、まだイエスさまが長血を患っていた女性とお話をしている時に、会堂長ヤイロの家から使いの人が来て、ヤイロに「お嬢さんは亡くなりました。この上先生を煩わすことはありません」と言ったのです。遅かったのです。間に合わなかったのです。もうイエスさまに来ていただく必要がないと、使いの人は言ったのです。 「あの長血を患った女性がイエスさまの衣に触れさえしなければ‥‥あの女さえいなければ、こんなことにはならなかったのに‥‥」そんな思いが周りにいた者の脳裏をよぎらなかったでしょうか。まさに覆水盆に返らずです。
 私たちにも同じようなことがあるのではないでしょうか。「あの時、こうしていれば、こんなことにはならなかったのに。」「あの時、あんなことを言わなければ、こんな絶望的なことにならなかったのに」‥‥覆水盆に返らず。後悔先立たず‥‥わたしたちもそのような経験をしてきたのではないでしょうか。
 ヤイロの娘は死にました。もうイエスさまを患わすことはない。遅かったのです。終わったのです。ひとりの人が死んだ。その厳然たる冷酷な事実がそこにあるだけです。

恐れるな‥‥??

 ところが、イエスさまはここで「残念だった」と言ってUターンされなかった。驚くべきことをおっしゃったのです。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」!‥‥イエスさまは、悲しみのどん底に突き落とされたヤイロに向かって「恐れることはない」とおっしゃったのです!「恐れることはない」‥‥この言葉は原語では、「恐れるな」という命令文です。イエスさまは、ヤイロに向かって「恐れるな!」とおっしゃった。
 恐れるな‥‥この言葉を黙想していて、私はある大きな疑問が浮かんできました。というのは、ふつう、このような場合「恐れるな」と言うだろうかという疑問です。恐れる必要はないから恐れるなとおっしゃった。イエスさまを信じるならば恐れる必要はないのだ、ということも確かに奇跡です。しかし私が言いたいのは、このような場合は、「悲しむな」と言うのではないだろうか、という疑問です。ヤイロにとっては、たいせつなかわいい一人娘です。その娘が死んでしまったのですから、悲しいのではないでしょうか。恐れるというよりも、まず、悲しいはずです。そう思いませんか。それが普通です。ヤイロは耐え難い悲しみの中にあるはずです。だからふつうは、このような時は「悲しむな」と言うはずです。
 それなのにイエスさまは、なぜかここで「恐れるな」とおっしゃった。腑に落ちません。なぜイエスさまは、「恐れるな」とおっしゃったのか?‥‥それは、ヤイロの心の中に恐れがあったからに違いありません。なぜ、ヤイロの心の中に恐れがあったのか、その理由は何も書かれていないので分かりません。しかしイエスさまは、ヤイロの心の中をご存じだったのです。だから、そのヤイロの心の中に恐れがあることを見抜いて「恐れるな」とおっしゃった。
 いったい何をヤイロは恐れていたのでしょうか? これは何も書かれていないので、想像するしかありません。そもそもヤイロの娘は、なぜ死んでしまったのか? 聖書には病気だとも事故だとも書かれていませんので、分かりません。しかしもしかしたら、娘が死に至った原因に父親であるヤイロが関係があったのかもしれません。例えば、ヤイロの過失によって娘が大けがをしたとか。あるいは、病気であったとしたら、その病気を放置していたとか‥‥。なんなのかは分かりませんが、父親であるヤイロには、娘が死んでしまったことに対する罪責感のようなものがあったのではないだろうか。
 実際、親という者は、子供のことについて罪責感を持ちやすいものです。‥‥たとえば、「子どものころ、もっと勉強をさせておけば良かった」とか、「習い事をもっとさせれば良かった」とか、「もっとちゃんとしつけておけば、こんな悪い子にならなかった」とかです。あるいは、病気であれば「もっと良いお医者さんに見せておけば良かった」とか。多くのことで親は後悔いたします。まさに、その意味でも覆水盆に返らずと思うものです。
 ヤイロの場合は、娘が死んだことについて、何か罪責感があったのではないでしょうか。ひどく自分を責めたのではないでしょうか。それは、自分の至らなさによって娘を死なせてしまったという罪責感です。取り返しのつかないことになってしまったという、自分の罪のゆえの恐れです。イエスさまは、イエスさまだけは、そのことを見抜いておられた。主は、人の心の中をご存じだからです。だからイエスさまは、「恐れるな」と強くおっしゃったのではないか。そしてそのヤイロの恐れの理由が何も書かれていないということは、イエスさまがこのことについていっさい口外されなかったということです。ヤイロの心の中の、深い深い罪責感は、ヤイロとイエスさまだけが知っている。
 それゆえ、「恐れるな」というイエスさまのお言葉は、ヤイロの罪の意識に対する赦しの宣言です。そして癒しの宣言であるということができます。そしてそのヤイロの罪を引き受けたイエスさまの愛の言葉です。

ただ信じなさい

 「恐れることはない。ただ信じなさい」とおっしゃった。「ただ信じなさい。だから恐れるな」と。この「ただ」という言葉は、ギリシャ語では「モノン」という言葉です。モノクロのモノです。それは「ただ一つのこと」という意味です。すなわち、「恐れるな。ただ一つのことが必要だ。」それが「信じなさい」ということであるとおっしゃったのです。
 何を信じるのでしょうか? 何かむずかしい教理を信じなさい、ということなのでしょうか? 何か思想を信じなさいと言うことでしょうか?‥‥違います。ここでは、イエス様という方を信じなさいということです。イエスさまというお方を信じるのです。ただそれだけが必要だと言っておられるのです。しかも、それは死んだヤイロの娘に「信じなさい」と言っておられるのではありません。今生きているヤイロに向かって言っておられるのです。絶望と、罪責感によってどん底に突き落とされ、その罪責感のゆえに恐れおののいているヤイロに向かって言っておられるのです。

覆水盆に返る以上の奇跡

 そしてイエスさまはヤイロの家に入って行かれる。そして「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ」と言われました。イエスさまにとっては、「死」は「眠り」であると見なされるのです。そして、寝床に横たわっているヤイロの娘に向かって、「娘よ、起きなさい」とお命じになりました。「起きなさい」は、「目を覚ましなさい」という言葉でもあります。
 すると娘は、その霊が戻ってすぐに起き上がったと書かれています。「霊が戻って」と。聖書は、命の実態が霊であることを書いています。このようにしてイエスさまによって、ヤイロの娘は生き返りました。それは見て参りましたように、ヤイロの罪の意識が癒されたことでもあります。
 しかしこれは単に覆水が盆に返ったということではありません。単にもとに戻ったということではありません。ヤイロは、イエスさまの奇跡を見ることができたのです。イエスさまがどういう方で、どのようなことをなさる方であるかを体験できたのです。それは、愛する娘が死ぬという、耐え難い絶望的な恐ろしい出来事に直面はしましたが、しかしそれを塗り替えてあまりあるイエスさまのめざましい奇跡を体験することができたのです。その点で言えば、これは覆水が盆に返った以上のすばらしい出来事となったと言うことができます。
 それゆえ私たちは、絶望を恐れる必要がありません。困難を恐れる必要がありません。確かに私たちは絶望的な困難に直面したくありません。そんな恐ろしい目に遭いたくありません。しかしもし、困難な場面がやって来たとしても、主イエスさまは「恐れることはない。ただ信じなさい」とおっしゃるでしょう。「ただ信じなさい」、すなわち「ただ一つのことだけが必要だ。それがわたしを信じると言うことだ」とおっしゃるでしょう。そしてその困難、危機の中で、イエスさまが私たちと共に生きておられることを証しして下さるでしょう。主の御業を見ることができるのです。

復活の予言

 そして、今日の出来事は、復活という将来のすばらしい出来事を指し示しています。ヤイロの娘はこの時は生き返りましたが、やがてまた年を取って死んだことでしょう。しかしイエスさまは、この時、この出来事を通して、やがて将来私たちに起こる復活という永遠の命を与える出来事を予告しておられると言えます。
 すなわち、私たちもやがて眠りについた時、この主イエスの言葉を聞くことができると、信じるように招かれているのです。永遠の神の国に復活することを。「我が子よ、起きなさい」というイエスさまの言葉が、かけられることを。


(2013年1月27日)



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