礼拝説教 2013年1月20日

「信仰による救い」
 聖書 ルカによる福音書8章40〜48 (旧約 詩編116:8〜11)

40 イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである。
41 そこへ、ヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。
42 十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。イエスがそこに行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た。
43 ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。
44 この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。
45 イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。
46 しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。
47 女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。
48 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」




会堂長ヤイロ

 イエスさまが嵐のガリラヤ湖を渡ってゲラサ人の地に行かれ、そこで悪霊に取りつかれたひとりの男を豚の群れと引き替えにして救われました。そして、イエスさまがまた舟で戻られる。すると群衆がすでに待っていて、イエスさまが帰ってくるのを喜んで迎えたと書かれています。人々がいかにイエスさまを待っていたかということが分かります。
 するとそのイエスさまのもとに、ひとりの人が進み出ました。それが会堂長のヤイロでした。会堂長というのは、ユダヤには町や村ごとに会堂があり、安息日ごとに町や村の人々が集まって御言葉の礼拝が行われていましたが、その会堂を管理する人です。そしてただ管理するのではなく、その安息日ごとの礼拝の司会、聖書朗読個所の指定、また説教者の指名などもおこなったそうです。会堂というのは、今日で言えば教会堂と学校の建物を兼ねたような、町や村の中心的な建物でした。ですから、会堂長というのは人々から尊敬されており、その地域の名士でした。そして宗教家であるファリサイ派とも信仰が深かったと言われています。会堂長自身がファリサイ派であることもあったようです。
 ヤイロはその会堂長のひとりでした。そして彼の一人娘が死にかけていました。このような場合、当時の医療というものは、ほとんどお手上げでした。12歳になっていたといいます。その一人娘が死にそうになっていた。病気であるのか、事故であるのかは書かれていません。いずれにしても危篤状態です。父親として、これがどんなにつらく、悲しい、苦しいことであったか。なすすべがないのです。
 唯一の望みはイエスさまでした。そこにイエスさまが戻ってこられたとの知らせ。それでヤイロはイエスさまの前に進み出て、ひれ伏して、自分の家に来てくださるように嘆願したしました。これはある意味、当然なことなのかも知れません。父親として、できることは何でもして娘を助けてやりたいという思いです。しかし先ほども少し述べましたように、会堂長というのはファリサイ派の一員か、またはファリサイ派と信仰が深かった人です。そのファリサイ派の人々と、イエスさまとは対立が深まっていました。だから、ヤイロがイエスさまの前にひれ伏して嘆願するということには、そのような立場をかなぐり捨てなければならないということでもあったことでしょう。
 さらに、会堂長は地域の名士であると申し上げました。みなから尊敬されていた。宗教的にも指導的な立場の人です。それに対してイエスさまとは、もともと無名の人であり、学問を修めたわけでもない。さすらいの民間人です。そのような背景を考えると、多くの人々がいる前で、ひれ伏してイエスさまにお願いするということには、プライドもあったことでしょうし、見栄や体裁も気になったかもしれません。しかし今や彼は、イエスさまの前にひれ伏して、「自分の家に来て娘を助けて下さい」と嘆願したのです。ここに、自分の愛する者を助けるために、すべてをかなぐり捨ててイエスさまの前にひれ伏した人の姿があります。
 キリスト教には関心がある、あるいはイエスさまには興味がある。しかし、世間体があって教会に来ない。あるいは、見栄や体裁のために、またはプライドが邪魔をして、教会に来ないという人もいます。しかし考えてみれば、世間体や見栄や体裁が邪魔をするというのは、もったいない話しです。それは何の救いももたらしません。しかしこのヤイロという1人の父親の姿に、私たちは、イエスさまに助けを求めて、まとわりつくいっさいのものをかなぐり捨ててしまった、1人の人間の姿を見ることができます。そしてイエスさまは、彼の願いを聞かれてヤイロの家に向かいます。

途中に長血を煩ったひとりの女性が

 ところがその途中に、一つの出来事が起きます。死につつあるヤイロの娘の家には、一刻も早く到着することが望まれる。寄り道をしている余裕はありません。ヤイロの家に急ぐイエスさまの回りに群衆が押し寄せてきました。その中にひとりの女性が紛れ込んでいました。その女性は「12年このかた出血が止まらない」という病気に悩まされていた女性でした。口語訳聖書は「長血」と訳しています。それは婦人病でした。そのことは旧約聖書のレビ記15章25節に書かれているのですが、それは「汚(けが)れている」とみなされました。12年間もそれが止まらないのですから、ずっと「汚れた女」と呼ばれていたのです。
 汚れていると見なされた者は、聖所で礼拝することもできず、また人々の交わりから遠ざけられました。また、汚れた者に触れた者も汚れるので、人々も遠ざかっていったことでしょう。まるで社会から締め出されたかのような扱いを受けてきたことが想像されます。彼女はいろいろな医者にかかりました。医者に全財産を使い果たした、と書かれています。当時は医者といっても医学が発展していない時代ですから、民間療法に近いような、なかには怪しげな魔術と変わらないような治療もなされていたようです。しかし病気で苦しんでいる人にとっては、藁にもすがる思いですから、そのような医者であっても言われるままにお金をつぎ込まざるを得ない。しかし全く治らない。全財産を使い果たしてしまった。
 これはもう絶望的な事態です。病気で苦しめられ、その病気のために社会から締め出され、さらにだまされて全財産を使い果たしてしまった‥‥。彼女はいったいどうやって生きていったらよいのか。もはや生きる道はないのか?
 そこにイエスさまが来られた。彼女は、唯一の希望を見出したのです。そして群衆に紛れて、後ろからイエスの衣の房に触れたと書かれています。そっと、後ろからイエスさまの衣の裾に触れたのです。‥‥そこに彼女の心境がよくあらわれていると思います。今まで「汚れた女」と呼ばれてきた。のけ者にされてきた。イエスさまに癒していただきたい。しかし自分の病気を口にする勇気がない。周りの人たちに、好奇の目で見られるのも耐えられない。‥‥そんな気持ちでしょうか。
 しかしそっと後ろからイエスさまの衣の裾に触れた。するとたちまち出血が止まって彼女は癒されました。ところがそのままでは済みませんでした。イエスさまはそのことに気づかれ、立ち止まって「私に触れたのは誰か」とおっしゃったのです。群衆が取りまいているので、誰がさわったかということは分からない。しかしイエスさまは、そのまま行こうとされません。いったいなぜなのか。
 するとこの女性が隠しきれないと知って、「震えながら進み出てひれ伏し」と書かれています。「震えながら」‥‥今までさまざまな場面で、さまざまな人から、「汚れた女」と言って忌み嫌われ、「近寄るな」と言われてきたことでしょう。医者からも騙され続けて、人間不信の極みにあったことでしょう。今回も、イエスさまから叱られると思ったのでしょうか。「震えながら」と書かれていることに、そのようなことを思わされます。
 しかしイエスさまは、彼女に対しておっしゃいました。「娘よ。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」
 なぜこれだけのことを言うために、イエスさまはご自分に触れた人を捜されたのでしょうか?‥‥それは、まさに「あなたの信仰があなたを救った」と宣言なさるためではなかったでしょうか。この女性がイエスさまの衣に触れて、病気が治っただけでは、まだ「救われた」ということにならない。しかしイエスさまと一対一で顔を合わせて、救いを宣言された時、それは本当の意味で救われたということになるのです。

イエスから力が出ていく

 さて、この出来事の中で、女が後ろからイエスさまの衣に触れた時に彼女の病は癒されましたが、その時イエスさまは、「誰かが私に触れた。私から力が出ていったのを感じたのだ」とおっしゃっています。イエスさまから「力が出ていった」。イエスさまから力が出ていって、この女性の病を癒したのです。
 このことを見るに、イエスさまはご自分の力を割いて人々の病を癒されたり、奇跡をなさっているということが分かります。私たちは、イエスさまが病気を癒されたりなさる時に、なにかそれは魔法のように思っていないでしょうか。1・2・3で、パッと簡単に癒される。‥‥奇跡とはそういうものではないかと思わないでしょうか。しかし実に、イエスさまがそのような奇跡をなさる時に、イエスさまから力が出ていくのです。イエスさまの力を奪っているのです。イエスさまが身を割くようにして、人々に仕えておられるのです。このことに感動いたします。イエスさまはご自分の身を削るようにして、人々に仕えて下さる。奇跡とは魔法ではありません。イエスさま御自身の命をかけた行為、愛なのです。その愛をもって、イエスさまは私たちに仕えて下さるのです。

信仰とは

 イエスさまはこの女性に向かって、「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃいました。さて、その「信仰」とはどういうものだったでしょうか?
 「信仰」というと、何かむずかしいことである、たくさん勉強をしなければ信仰が強くならない、というように考える方がいます。難しい本を読んで、修行をして、努力をしなければ、神さまのわざを体験するような信仰にならない、と考える方もいます。しかしここでイエスさまがおっしゃった、この女性の「信仰」は何か、と見ると、この女性はただイエスさまの衣に触れただけです。イエスさまの衣の房にでも触れれば、自分の病気は癒されると信じただけです。言い換えれば、この女性は、藁にもすがる思いでイエスさまにおすがりしただけです。それをイエスさまは、「信仰」と呼んで下さっています。
 信仰とは、ただイエスさまにおすがりし、頼ることであると教えられます。

イエスにすがる

 一人の御婦人がいました。この御婦人は、息子さんの病気のことで非常に苦労をなさっていました。その病気が治るならばと、いくつかの宗教にも行ってみたそうです。うちの宗教に来れば治る、というようなことを言われる。それでそちらに行ってみる。しかし治らない。お金もだいぶ使われたようでした。それでたいへん困られていました。もはやどうにもならない。しかし彼女のお嫁さん、つまり息子さんの奥さんがが教会へ通うようになり、ついに洗礼を受けてクリスチャンとなられました。
 そのころ、その御婦人の願いは、息子さんが病院の診察を受けて入院してくれることでした。しかし息子さんは親の言うことに従わないだろうと彼女は思っていました。それで、私が息子さんを車に乗せて病院に連れて行くことになりました。息子さんはすなおに車に乗り、病院に連れて行くことができました。そして医者の診察を受けて、そのまま入院することに承諾したのです。御婦人の願いがかなえられたのです。  それからしばらくして、彼女も教会の礼拝に来るようになりました。私は、あの時、私が息子さんを病院に連れて行ったので、それに感謝して義理で礼拝に来ているのかと思っていました。しかしそれから4カ月ほどした時、洗礼を受けたいとおっしゃったのです。私はびっくりしました。聞けば、彼女は、最初4カ月前に教会に来始めた時に、すでにイエスさまを信じて洗礼を受けることを決心していたというのです。彼女は、人間の義理で教会に通うようになったのではありませんでした。彼女は息子さんが病院に行って診察を受け、入院に承諾したということに主の御手が働くのを見たのでした。
 信仰とは、イエスさまにおすがりすることです。そして主は、私たちにふさわしい助けを与えて下さることを信じるものです。


(2013年1月20日)



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