礼拝説教 2013年1月13日

「信仰のはかり」
 聖書 ルカによる福音書8章26〜39 (旧約 創世記13:10〜11)

26 一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。
27 イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。
28 イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」
29 イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。
30 イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。
31 そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。
32 ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。
33 悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。
34 この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。
35 そこで、人々はその出来事を見ようとしてやって来た。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。
36 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。
37 そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである。そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。
38 悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。
39 「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。




先週の2回の葬儀

 先週は、お二人の方の葬儀を執り行いました。この葬儀を司りながら、このお二人は、年齢も歩んできた人生も異なる2人でしたが、主はこのお二人のことをすべてご存知であるということを思いました。それはすごいことであると思いました。同じように私たちの主は、ここに集まっている私たち1人1人のことをすべてご存知であるということです。1人1人に命を与えられ、どのようにして育ち、どのような環境に置かれ、どのようなことで困っており、どのような問題を抱えているかをすべてご存知です。
 日本キリスト教団の式文では、葬式で読む聖書個所の一つにヨハネの黙示録の7章の所を挙げていますが、そこには天国での大礼拝の光景が描かれています。「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け」て、父なる神さまとイエスさまを礼拝しているという場面です。この「だれにも数え切れないほどの大群衆」が神の御前に集まっているというのは、圧巻の光景ですが、実に神さまとイエスさまは、数え切れないほどの大群衆の1人1人を髪の毛一本まで数え上げておられるほどによくご存じであり、見ておられ、導いてこられたということです。

1人の男

 今日の聖書には1人の男が登場いたします。湖を舟で渡られたイエスさまが出会った1人の男です。これと同じ出来事のことが書かれていると思われる、マタイによる福音書の8章のほうでは、登場するのは2人の男ですが、このルカによる福音書のほうでは、1人に焦点を当てて書いています。
 前回の個所で、イエスさまと弟子たちの乗った舟が、ガリラヤ湖の上で激しい風と荒波にもまれて沈没しそうになった時のことが書かれていました。その時に、イエスさまはいったい何のために弟子たちに対して「湖の向こう岸に渡ろう」とおっしゃったのか、荒波を越えてまで、いったい何をしに湖を渡られたのかが見えてきます。それは、この1人の男に会うためではなかったか、と。しかもこの男は、地域の住民から厄介者扱いされていた男です。鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていた男です。そしてまたこの男もここの住民も、いわゆる異邦人でした。ゲラサ人という異邦人です。これが異邦人であったことは、この町の人々が豚を飼っていたことからも分かります。ユダヤ人は、豚は汚れた動物であるという旧約聖書の規定に従っていたからです。しかもこの男は、悪霊に取りつかれていた男です。
 このようにしてみますと、この男は、ユダヤ人が蔑視していた異邦人であり、さらに悪霊に取りつかれていた男であり、そしてまた人々から厄介者扱いされていた男です。すなわち、イエスさまは、そのような1人の男に会うために、沈没の危険を冒してまで荒海を越えてやって来られたのであるということが分かります。

悪霊に取りつかれていた

 さて、この男は「悪霊に取りつかれている男」と言われています。「悪霊に取りつかれている」というのは、どういう状態を指すのでしょうか。このことについて、これはある種の精神病であるとの解説がよくありますが、聖書はそうは言っておりません。また私も、そのような病気のことだと断定するのは慎重でなければならないと思っております。
 この出来事と同じ時のことが書かれていると思われる、マタイによる福音書8章では、この男のことを「狂暴」だと書いています。また、マルコによる福音書の5章では、彼は「叫んだり、石で打ちたたいていたりした」と書かれています。しかし今日のルカによる福音書の個所では、そのようなことは何も書かれていません。ルカはそのようなことには触れずに、ただこの男が「悪霊に取りつかれていた」ということだけに注意を集中させているように読めます。ルカは医者でした。ここに医者であるルカの見たてが書かれていると言えるでしょう。ルカの診断は、この男が悪霊に取りつかれている、というものでした。
 悪霊というのは、何をするかと言えば、前にも申し上げましたが、人間を苦しめることによって神を信じなくさせようとするものです。したがってこの男は、悪霊によって苦しめられていたのです。この男は、服も着ずに、墓場を住まいとしていたと書かれています。墓場と言って、日本の墓場を想像したら間違います。ユダヤはおもに石灰岩の地質で、自然にできた洞窟がたくさんありました。あるいは、石灰岩は比較的掘りやすいので、崖のようになっている所に横穴を掘って、そこを墓としました。だから洞窟のようになっていると言えば分かりやすいでしょう。そこに住むことができるのです。
 それにしても、墓ですから死んだ人の遺体が安置されているわけです。そのような所に一緒に寝ることになります。誰もそんな所に暮らしたくありません。しかし彼はそこを住まいとしていた。そこにこの男の心境があらわれているように思います。すなわち、彼は自分が死ぬことを願っていたのでしょう。社会の中に暮らすことができない。みな自分を厄介者扱いする。そして自分自身も苦しい。‥‥まさに死ぬことを願っていた。と言って、死にきれない。町の人々も、彼を鎖でつなぎ、足枷をはめ、監視していました。町の人たちも彼が生きていることは迷惑なことでした。と言って殺すわけにもいかない。だからおとなしく死んでくれることを願っていたとも言えるでしょう。
 しかし彼はその鎖を引きちぎって、悪霊によって荒れ野に駆り立てられていたと言います。悪霊も彼を苦しめていました。「お前なんか生きている価値はない」と言わんばかりに苦しめていました。

神の子と

 興味深いのは、この男がイエスさまに会ったとき、「いと高き神の子イエス」と言って叫んだことです。つまり、ズバリ、イエスさまが本当は何者であるのかを言い当てていることです。
 一方弟子たちはどうでしょうか。前回の個所、荒海をイエスさまが叱りつけて静められたとき、弟子たちはイエスさまのことを「いったいこの方はどなたなのだろう」と言いました。そのことと対照的です。弟子たちは、イエスさまがいったい何者か分からずにいる。しかしこの厄介者の男は、イエスさまの正体をズバリ言い当てているのです。
 なぜそのように言い当てることができたのか?‥‥これには二つの考え方があるかと思います。一つは、この言葉を言ったのが悪霊であるという考え方です。悪霊は、霊の存在ですから、もともとイエスさまのことを知っていたからだと考えることができます。もう一つは、この言葉を言ったのは、この男本人であるという考え方です。その場合は、なぜ彼はイエスさまの正体が分かったのか? それは、彼が非常に苦しんでいたからだと考えることができます。人はしばしば、苦しみの中で救い主キリストに出会います。この私がそうでした。元気なときは、神さまなんか忘れてしまっていた。信じなくなった。しかし、死の危機に直面したとき、イエスさまが尊いお方としてよみがえってきました。彼は、非常な苦しみの中で、イエスさまの正体が見えたと考えることができます。
 ただし、イエスさまがいと高き神の子であると見抜いたとしても、彼にとって神は自分の身方には思えませんでした。だから、「かまわないでくれ。頼むから苦しめないでくれ」とイエスさまに願ったのです。彼にとっては、神さまとは、自分を苦しめる存在でしかありませんでした。神さまが愛であるとは信じられなかったのです。神はただこの自分に罰を与えるお方としてしか思えなかったのです。まさに哀れであります。彼の心中を察します。

豚の群れ

 イエスさまは彼に取りついている悪霊に対して、彼から出ていくように命じました。すると、悪霊どもは、向こうの方にいた豚の群れの中にいかせてくれと願いました。そしてイエスさまがそれを許し、悪霊が入った豚の群れは、崖を降って湖になだれ込み、溺れ死んだと書かれています。まことに不思議な出来事です。さらにこのことを聞いた人々が、町からやって来ました。そして悪霊に取りつかれていた男から悪霊が出て正気になっているのを見ました。そしてコトの次第を、見ていた人たちから聞きました。するとゲラサ地方の人々は、イエスさまに出ていってもらいたいと願ったというのです。イエスさまの奇跡を知って、もっといて下さいと言ったのではなく、出て行ってくれと言ったというのです。これはいったいどうしたことでしょうか?
 それはやはり、この男と豚の群れとを天秤にかけたということでしょう。この男から悪霊が追い出されたのは良いが、それと引き替えに豚の群れが死んでしまったのでは損害が大きすぎる。つまり、この男の救われることの価値と、豚の群れの価値を天秤にかけた。その結果、彼らにとっては、豚の群れのほうが大切だという結論に達したのです。そして今後、イエスさまがいろいろな奇跡を行って人が救われることによって豚の群れが死ぬような損害が発生するのでは困ると思ったのです。だから、イエスさまに出ていってもらいたいと。
 そのように、町の人々にとっては、豚の群れのほうが値打ちがあった。しかし、イエスさまにとっては、豚の群れよりも、この1人の哀れな男が救われることのほうが尊いことでありました。イエスさまはこのあと再び湖を渡って戻って行かれました。すなわち、イエスさまは、この悪霊に取りつかれていた1人の男を救うために、嵐を越え、荒海を越えてやって来られたのです。そして、誰からも生きていることを望まれない、この1人の男の値打ちは、豚の群れよりも尊いと宣言されているのです。
 この1人の男を救うために、はるばるやって来られたイエスさまは、私たちの所にも来て下さいます。私も、神を捨て信仰を捨てたあと、サラリーマンの時代に病気で死の淵まで追いやられました。まさに私が死なんとするときに、私は神さまを思い出しました。そして助けを求めて叫びました。まさに、助けていただく資格が何も無い、生きている価値もないような男でありましたが、イエスさまは助けて下さいました。そのことを思い出します。
 この1人の哀れな男を救うために、荒波を越えてきて下さったイエスさまは、あなたは御子イエスさまの命にも代えるほどの尊い存在であるとおっしゃって下さいます。


(2013年1月13日)



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