礼拝説教 2012年12月30日

「イエスの家族」
 聖書 ルカによる福音書8章19〜21 (旧約 サムエル記上28:6)

19 さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。
20 そこでイエスに、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせがあった。
21 するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。




21節

 さて、本日の聖書では、イエスさまのところに母と兄弟たちが来たところから始まっています。この母というのはもちろん母マリアであり、また兄弟たちというのは、イエスさまが最初にお生まれになったのですから、イエスさまの弟や妹たちということになるでしょう。つまりイエスさまの家族がイエスさまに会いに来たのだけれども、イエスさまの回りには群衆が集まっていたので、近づくことができなかったのでした。それで、イエスさまのご家族が来ていることに気がついた人がいたのでしょう。「母上とご兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」とイエスさまに告げました。
 するとイエスさまがおっしゃったのが21節の言葉です。「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と。これはちょっと聞くと、何かイエスさまちょっと冷たいなあ、と思われる言葉ではないでしょうか。もうマリアさまや弟たちは実の兄弟ではないと言っているようにも聞こえます。

開かれている家族

 ここで考えてみたいのは、家族とは何かということです。家族というのは、社会のもっとも小さな単位であると言えます。親子であり、配偶者であるという、もっとも身近な関係の単位であると言えるでしょう。そしてまた家族というのは、他人のつけいる余地がないような、閉鎖社会であるとも言えます。家族の中の争いに、他人が口を挟むことはよほどのことがない限り、マナー違反です。また、子どものころ、「あんなお金持ちの家に生まれたかったな」と思ったことのある人は多くいるのではないかと思いますが、いくらあの家の家族になりたいと思っても、無理です。そういう閉鎖的なところ、他人がどうすることもできないようなところがあります。
 しかしイエスさまはどうでしょう。イエスさまの回りには群衆が集まっていましたから、おそらくイエスさまのお語りになる神の國の話しを聞いていたのでしょう。そこにイエスさまのお母様や兄弟たちがやって来た。家族というのは特別ですから、イエスさまはお話しを中断して、家族のところに行っても良かったわけです。ところがイエスさまは、そうなさらなかった。そして「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と言われたのです。
 これは、イエスさまの家族という特別な関係が、血のつながりという他人の入る余地がないものではないことを示しています。イエスさまと血のつながりがあるかといえばない。しかしだからイエスさまとごく身近な、特別の関係である家族になることができないかというとそうではない。イエスさまの家族となれるということです。そしてそれは、「神の言葉を聞いて行う人」であると言われます。それは閉じられていない。だれに対しても開かれています。

イエスの家族の条件

 しかしここで戸惑うのは、「神の言葉を聞いて行う人」という言葉ではないでしょうか。誰でもイエスさまの家族になることができる。それはとてもすばらしいことに違いありません。しかし同時に、「神の言葉を聞いて行う人」が家族であると言われると、それはとても難しいことのように聞こえます。神さまの命令を全部聞かなければ、イエスさまの家族には慣れないのだぞと、言われているように聞こえます。
 そこで考えてみたいのですが、当時、神さまの戒め、命令をちゃんと守っていると思われていたのは、ファリサイ派の人々です。それこそ彼らは、旧約聖書の律法に書かれた神の戒めを徹底的に守ってきたと自負していた人々でした。しかしイエスさまは、そのファリサイ派の人々を誉めるどころか、厳しく批判いたしました。ですから、ここでイエスさまが言われている「神の言葉を聞いて行う人」というのが、ファリサイ派の人々のような意味で、神の戒めを守る人のことではないことが分かります。
 ではいったい、「神の言葉を聞いて行う人」とはどういう人のことなのか? そこで、この個所と同じ出来事について書いているマタイ福音書と、マルコ福音書のほうを見てみることにいたします。
 まずマタイによる福音書の12章46〜50節のところですが、ここでイエスさまは、「わたしの母とは誰か。わたしの兄弟とは誰か」とまずおっしゃり、それから弟子たちのほうを指して、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」とおっしゃっています。すなわち、弟子たちのほうを指して「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」とおっしゃっています。弟子たちというのは、12使徒だけではありません。その他にも、以前学んだように婦人の弟子たちがいました。またそれ以外にも、イエスさまの後に従っている多くの弟子たちがいました。その人たちのことを指して、「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」とおっしゃったのです。
 次に、マルコによる福音書の3章31〜35節です。こちらではイエスさまは、「わたしの母、わたしの父とは誰か」とまずおっしゃり、それからまわりに座っている人々を見まわして、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」とおっしゃっています。
 そうすると、「神の言葉を聞いて行う人」というのは、イエスさまに従っている弟子たちのことであり、またイエスさまの回りに座ってイエスさまのお話を聞いている人々のことであると言えます。私たちは最初、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」というイエスさまのお言葉を聞いた時、「ああ、わたしはダメだ。ぜんぜん神の言葉を行っていない。だからイエスさまの家族ではない」と思ったのではないでしょうか。そしてそのようなことを言い出したら、誰も当てはまらなくなってしまいます。
 しかしそのように丁寧に見てみると、実は「神の言葉を聞いて行う人」というのは、なにか聖人君主のような人ということではなく、ただイエスさまの回りに集まってそのお話を聞いている人、イエスさまのあとについて行っている人、ということになります。それが神の御言葉を聴いて、それを行う人です。すなわち言い換えれば、今この礼拝に私たちが集まっている、そして主の御言葉に耳を傾けている。この私たちを指して、イエスさまは、「わたしの母、わたしの兄弟」とおっしゃって下さるのです。

赦された者としての兄弟姉妹

 それは、神を父とした家族です。しかしそれは信仰による家族です。信仰が無くなれば家族ではなくなってしまいます。
 教会では、お互いのことを「兄弟姉妹」と言います。私たちの教会ではふだんは「○○さん」と呼んでいますが、週報などの文書に書く時は、男性ならば「○○兄」、女性ならば「○○姉」と書いています。他の教会の中には、そのような呼び方は現実的ではないからと、週報などでも「○○さん」と書く教会もあるようですが、わたくしはイエスさまが今日の聖書の言葉をおっしゃったことを忘れないためにも、兄とか姉と良いことであると思っております。
 しかしその時注意しなければならないことは、私たちが兄弟姉妹なのだから単に仲良く家族のようにお付き合いしよう、ということではないということです。もちろん仲良いのに越したことはないのですが、この兄弟姉妹というのは、イエスさまが私たちのことをそう呼んで下さることによって、はじめて成り立つ兄弟姉妹なのだ、ということです。決して私たちはそのままでは兄弟姉妹なのではない。「神の言葉を聞いて行う」ことによって、はじめて兄弟姉妹なのだということです。イエスさまのところに集まって、イエスさまのお言葉に耳を傾けて礼拝することによって、はじめて成り立つ兄弟姉妹です。
 イエスさまが十字架にかかって下さって、私たちの罪を赦してくださって、そして神が私たちの父となられた。私たちは父なる神の子供とされた。そのことによって、はじめて私たちはお互いに兄弟姉妹なのです。私たちはイエスさまによって罪を赦された者であり、その赦された者同士として、兄弟姉妹であるということを忘れてはなりません。イエスさまの十字架があっての兄弟姉妹なのです。そのことを忘れて、単に仲良くしましょうということだけであるとしたら、それは教会でもなんでもありません。この世のサークルかサロンと同じになってしまいます。私たちは、イエスさまの十字架によって罪赦された者どうしとして、兄弟姉妹なのです。

イエスの恵み

 イエスさまがきょうの言葉の中で、「わたしの母」と言っておられます。これはすごいことであると思います。おそらくイエスさまは、年長の婦人を指して「わたしの母」と言っておられるのであると思いますが、「わたしの母」ですよ。イエスさまから「わたしの母」と呼ばれるお気持ちはいかがですか。もったいないことです。この言葉一つをとっても、イエスさまがどんなお方が分かるというものです。イエスさまは私たちに仕えて下さる方であるということです。
 「わたしの兄弟」という言葉にしてもそうです。イエスさまが「わたしの兄弟」と呼んで下さる。「兄さん」と呼び、「弟よ」と呼んで下さる。そんな資格はわたしにはありません。にもかかわらず、そのように呼んで下さる。わたしの罪のために、命を投げ打って十字架にかかって下さった方が、私たちをそのように呼んで下さる。神の御子がそのように呼んで下さる。これ以上ありがたいことがあるでしょうか。そして本当の兄弟姉妹として、歩んで下さるのです。


(2012年12月30日)



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