礼拝説教 2012年12月16日

「どう聞くべきか」
 聖書 ルカによる福音書8章16〜18 (旧約 サムエル記上28:6)

16 「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。
17 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。
18 だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」




バラバラの格言に見えるが

 本日の聖書個所は、何かよく分からないという印象を持ちませんでしたか? 16〜18節を通して読むと一貫性がなく、何を言っているのか謎めいていて、よく分からないという思いになります。ルカによる福音書には、時々こういうことがあります。それぞれの言葉につながりがないように見えることがあります。
 具体的に言うと、16節でイエスさまがおっしゃっていることと、17節でおっしゃっていることはどういうつながりがあるのか。また、さらに17節と18節はいったいどういうつながりがあるのか。はなはだ疑問に思えるのではないでしょうか。もっと言えば、この各節は、それぞれ別のことを言っているのではないか。言い換えれば、ここには3つの格言と言いますか、ことわざのようなことが語られているのではないかと思えます。
 例えば16節の、「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」という言葉は、なにかのことわざのように聞こえますし、17節の「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない」という言葉は、何かの格言のように聞こえます。例えば、「秘密にしておいても、必ずいつかは世間に知られてしまうものだよ」というようなことを言っている格言のように聞こえます。さらに18節の「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」という言葉も、何かの教訓を言っているように聞こえます。
 だからこの個所は、別々の3つのお話しが一つに集められただけだと考える人もいます。

御言葉を聞くということ

 しかし果たしてそうでしょうか。ここに共通するものはないのか。そのヒントは、18節にあります。「だから、どう聞くべきかに注意しなさい」。すなわち、「聞く」ということについてイエスさまがおっしゃっていることが分かります。
 さらに、この個所は前回の個所から続いています。前回は、「種蒔きのたとえ」をイエスさまがおっしゃっているという箇所でした。そこで言われておりました種とは、神の言葉のことであるとイエスさまがおっしゃっていました。そしてそのみことばという種が、良い土地に落ちた時に、百倍の実を結ぶという予想外の大収穫となるに至った。その良い土地とは、素直な良い心で神の言葉、イエスさまの言葉を聞くということであると言われていました。今日の聖書の箇所は、その続きであると考えるべきです。そうして、18節の「だから、どう聞くべきかに注意しなさい」というイエスさまの言葉につながるのです。
 さてそうしてあらためて今日のお話を見てみましょう。そうすると、16節の「ともし火」のたとえはどうでしょう。ここでイエスさまは、「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」とおっしゃっています。これは誰が聞いてもその通りだと思うでしょう。ともし火というのは、ローソクが普及する前に用いられたものです。ともしび皿に油が入れられ、そこに芯が浸されて火が灯される。当時の唯一の灯りです。その明かりを、器で覆い隠したり、ベッドの下に置く人はいません。そんなことをしたら、いったい何のために貴重な明かりを灯したのか、意味がなくなるからです。だからそんなことをする人はいません。ありえないのです。
 イエスさまがおっしゃりたいことは、主の御言葉を聞くということも同じことであるということです。イエスさまがこの世に来られて神の言葉が語られる。それはまさに、灯火を灯して部屋に入ってきたようなものです。その灯火を、だれも器で覆ったり、ベッドの下に置いたりはしません。そんなことはあり得ないのです。しかし、では神の御言葉はどう扱っているのか。世の中の暗闇を照らす灯火として、そして私たち一人ひとりの心の中を照らすともし火としてイエスさまの言葉が語られているのに、それにフタをしたり、ベッドの下に置いて役に立たないようにしてしまってはいないだろうか。
 次の17節の言葉はどうでしょうか。「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない」。これも、御言葉のことであると考えると分かってきます。
 種が地面の中にある時は隠れています。種が地面から芽を出さないからと言って、ダメになってしまったのではありません。地中で根を張っているんです。見えないところで。そして時が来て、地面の上に芽を出し、成長していく。‥‥それと同様に、御言葉も、すぐに芽を出さないからと言ってどうして捨ててしまうのでしょうか。イエスさまの御言葉を聞いて、すぐに芽を出さないからと言って、あきらめてしまってはならない。前の箇所の15節で、「忍耐して実を結ぶ人たち」とあるように、忍耐が必要です。聖書で言う「忍耐」とは、いわゆる我慢のことではありません。前向きに、希望を持って待つことです。
 そして18節の「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」も御言葉について語っておられます。みことばをすなおに聞いて受け入れ、それを心の中に持つ人は、さらに神の言葉が与えられる。しかし逆に御言葉を大切に持っていない人は、持っていると思うものまで取り上げられる。
 今日はルカ福音書の他に、もう一箇所旧約聖書は、サムエル記上28:6を読んでいただきました。むかし、イスラエルの最初の王となったサウルは、神さまの言葉を軽んじ続けました。そして読んでいただいた箇所は、隣の国のペリシテと戦争になった時のことです。サウル王は、強力なペリシテ人におびえ、神の言葉を求めました。しかしもはや神さまは、サウル王に何もお語りになりませんでした。「持っていない人は、持っていると思うものまでも取り上げられる」という例です。

ローズンゲンの言葉に生きた人

 しかし逆に、「持っている人はさらに与えられる」。 ここにいらっしゃる皆さんの中にも、毎日「ローズンゲン」の御言葉を読んでおられる方がいると思います。今年の元旦礼拝もそうでしたが、私は元旦礼拝の聖書個所は、ローズンゲンの選んだ今年の聖句を用いています。「ローズンゲン」は、今は世界中のキリスト者によって愛用されている小さな本で、毎年新しく出版されます。そして、その日の聖書の言葉がくじ引きによって決められて記されています。
 そしてそこに記されている、今日の御言葉によって世界の中のどれだけ多くのクリスチャンが、生きる糧としてきたかということです。宮田光雄さんの書かれた『御言葉はわたしの道の光−ローズンゲン物語−』の本から、一つの例を紹介いたします。
 それは、第二次世界大戦で負けて捕虜となった、あるドイツ軍兵士の日記に書かれていたことです。戦争に負けた時、満州や朝鮮にいた日本の兵士や民間人が約100万人も捕虜として当時はソ連のシベリアに抑留され、たいへんな寒さと飢えと重労働で、30万人以上が死亡したと言われています。これは日本兵だけではなく、ドイツ軍の兵士も同様でした。日本兵とか、ドイツ兵というと、いつも悪者扱いですが、その兵士たちひとりひとりは、好きで戦争に行ったわけではなく、国の命令で無理やり戦争に行かされた庶民であることを忘れてはならないと思います。
 その、捕虜となり、ソ連に捕らえられ、シベリアに送られた、あるドイツ軍兵士の日記からです。少々長くなりますが、読むことをおゆるしください。
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 「ヘルンフート兄弟団が発行した『ローズンゲン』は、あの日々、たいへん力があった。五月九日、軍紀立て直しが崩れ、撤退といっていたものがモルダウ河への潰走となった日。その日の聖句は、主の呼び声と人の答えで始まっていた。 『主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、「ここにいます」、と答えた』(サムエル上三・四)。 この返事こそ、これから先のいろいろな体験にあたって大切なことだろう。『私はあなたのものです。主よ、私をどうなさいますか』というあのアヴィラのテレサの祈りは、戦争中ずっと私を離れぬ言葉だったが、いまとなってみると、その言葉は、いよいよ私にピッタりくるのだった。
 五月一〇日。それは、さらにはっきりしてきた。 『またわたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行なう〔そのような人をつくる〕ようにしよう』(エゼキエル三六・二七)。 『そのような人』といわれる。神は私たちがそのような人でもなく、それにはまだ欠けるところが多いことも知っておられるだろう。しかし、こうして来たるべきすべてのことの意味を聞きとれる約束があたえられたのだ。来たるべきすべてのことは、私にとって(運命の総体をどう解釈しようとしても、神による歴史支配の不可知性につき当たって解釈はできなかった。しかし、この私にとっては、はっきりと聞こえてきたのだ。私はひとりでまず自分のこととして聞き、それから神に代わって周りの人びとに一人びとり伝えていくことができる)『そのような人』の一人になる力添えとなるべきであった。私を『そのような人』の一人になさろうという神の御心からこそ、神が私にこれから課し、また許したもうことがすべて生まれてくるのだ。いままでは神の定められた道を歩くことがうまくはいっていなかった。これからは神が私を助けてくださろうというのだ。だからこれからの自分としては、どんな出来事が起こっても、神に助けていただくことが大切なのだ。『そのような人』というこの一語が、それから数年のあいだ絶えず耳に聞こえていた。どんなにつまらないように見えることがあっても、永遠の意味を告げてやまぬ響きだった。
 五月一一日の聖句は、さらに確信を強めた。 『主はわたしが願ったことをかなえてくださいました』(サムエル上一・二七)。 グスターフが朝早く、『けさの聖句はなんだい』と聞くので、この句を読んで聞かせると、彼は顔をしかめた。寒さに身がこわばり、骨がミシミシいう感じで、飢えた、捕らわれの身だ。私たちの願いはどれもみな拒否されているように見えた。しかし、いままでの私の生活の中にあった僅かばかりの信仰は、祈ったり聖餐を受けたり信従を誓ったりしてきたが、そういったことすべてが、実はただ一つのことだけを願うのとは違うのではないか。『そのような人』の群れに私をお加えください、と願うこととは違っていたのではないか。こうしていま−捕虜生活第一夜の目がさめた朝の《いま》の、不思議な《いま》−、この願いが聞きとどけられた。
 五月一二日。罵る声、陰惨な言葉が周りから聞こえ、瀕死の重傷者たちの喘鳴や、この世の果てとしか思えぬ嘆き声がしてくる中で、それとは別の声が私の耳に聞こえてきた。 『地の果てから、歌声が聞こえる。「主に従う人に誉れあれ」と』(イザヤ二四・一六)。 いま私たちがその中にあり、この敷石の上で逃げることもできずに飢死していくという裁きこそ、長いこと侮どられ、人間の騎慢によって疑問視されてきた神の義の一つのしるしである。しかし、それは、ただ一つのしるしにすぎず、神の義そのものではない。神の義は、裁きの最中にあっても賛美の声をあげて歌うことができる正義であり、それにふれ、またそれについて裁きを受けつつ喜びうる正義なのである。私をつき放してしまうのではなく、救ってくださる義である。
 五月一三日の聖句は、そこで不義なる私のことも言っているにちがいなかった。 『その人は、流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす』(詩一・三)。
 その後、ロシアへ輸送されることになり、歩哨がロシア人特有の悠々とした調子でいったところによると、私たちは、もうけっして故国に帰ることはない。一生のあいだロシアの復興のため働かされるのだ、という。それも嘘とは思えなかった。−こうして、まったく実りのない年月が前途に待ちうけているように思われるときになって、この聖句が私の頭上の暗い夜空に暁の星のように昇ってきた。暗澹たるとき、私は『実り』について語っている聖書の言葉を全部思い出してみた。そしてその言葉を救いの梯子の段として、暗い谷間から明るみへと登っていった。シベリアであろうとどこであろうと、真の『実り』を結ぶことは誰ひとり妨げることはできないのだ。
 『人がわたしにつながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かな実を結ぶ』(ヨハネ一五・五)。−直接法で『結ぶ』と断言しているのだ。−どんな他の力もこれを妨げることができず、かならずそうなる、ということなのだ。たとえシベリアであっても、この生命が実を結ばず、意味のないものとなることはない。シベリアにも人間がいる。人間とともに任務がある。任務があれば結実があり、実を結べば意味がある。心はたとえ故国と愛するものたちを想って悲しむとも、絶望するいわれはない。たとえそれらを失っても、人生そのものの意味がなくなることはありえない。すべてのことは、神の正しい『水豊かな川』に根を張っているかどうかによる。そしてその川は必ず私とともにあり、シベリアでも流れているだろう。その川が神だ。いまこんなにも強く私たちに語りかける神の言葉そのものの中にある。けっしてとまったり渇れたりしない、生きた水である。この水が私たちに食をあたえ、飲ませてくれるのだから、飢えも餓死も恐れるに足らない。
 こう考えると、その日々にも内的な心の落着きが生まれ、それが私を支え、畜生道におちないようにしてくれた。それは、自分のことだけ考えずに乏しいものも分け合い、これから先どれくらい持つかなど思わないですむ力をあたえてくれた。飢死であっても、永遠の生にいたる道にほかならない。それからもいく度も飢死に直面しながら、この内的な落着きの不思議な力を感じたものだった。それは神に直接祈るときだった。一切れの。ハンを乞うのでもなく、ひたすらに御心ならばよろこんでこの身を捧げますという祈りだった。はじめは神の怒りと思われたことも、恵みにあふれるものだった。
 五月一四日のローズングに総括的な約束が語られているので、それがわかった。 『ひととき、激しく怒って、顔をあなたから隠したが、とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむ』(イザヤ五四・八)」。
(宮田光雄著、『御言葉はわたしの道の光−ローズンゲン物語−』、新教出版社、1998年、72〜79頁)
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 ここに、神の御言葉に生きた人の姿があります。人間の目から見ると、すべての希望が断たれてしまったかのように見える。飢えと寒さと絶望の暗闇です。しかしにもかかわらず、私はここに、神の言葉が百倍の実を結ぼうとしていることが分かります。そして時間と空間を超えて、今私たちのところに、神の御言葉の尊さを証ししている。まさに、「持っている人はさらに与えられる」のを見ることができます。


(2012年12月16日)



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