礼拝説教 2012年12月9日

「予想外の結実」
 聖書 ルカによる福音書8章4〜15 (旧約 詩編126:5)

4 大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。
:5 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。
6 ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。
7 ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。
8 また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。
9 弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。
10 イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」
11 「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。
12 道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。
13 石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。
14 そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。
15 良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」




たとえで話す

 今日の聖書は、「御言葉」という言葉について述べられている箇所です。イエスさまのもとにも、本当の言葉を求めて多くの人が集まってきました。そこでイエスさまが、あるたとえ話をお話になったのが今日の聖書です。それは一般に「種蒔きのたとえ」と言われます。
 イエスさまは、よくたとえ話をなさいました。なぜそのようにたとえをお話になるのか、弟子たちも気になったことでしょう。その答えを10節でイエスさまがおっしゃっています。‥‥「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」‥‥「見ても見えず、聞いても理解できない」ようになるために、たとえをお話になるとは、ちょっといかがなものかと思ってしまいます。しかしこれは実は、旧約聖書のイザヤ書6章9〜10節の言葉なんですね。その預言の成就であると、おっしゃっているわけです。
 しかしでは誰も理解できないか、というとそうではない。弟子たちに向かって「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが」とありますように、弟子たちには理解することが許されている。弟子たちとは、イエスさまに付き従っている人たちです。そして今日のたとえ話では、イエスさま御自身が、ご自分の話したたとえ話について、意味を説明しておられます。
 なぜイエスさまは、このたとえ話の意味を教えて下さったのでしょうか?‥‥それは、弟子たちが9節で、このたとえはどんな意味かとイエスさまに尋ねたからです。すなわち、弟子たちが尋ねたから教えてくれた。当たり前のことのようですが、そこが大事なところです。尋ねれば教えて下さるんです。「求めなさい。そうすれば与えられる」(マタイ7:7)の言葉通りです。
 すなわち、イエスさまのたとえ話などのお言葉、神の国の秘密は、誰も理解できないことではない。イエスさまに従って行く、そしてイエスさまに尋ね求めるならば、その答えは必ず与えられるのであり、神の国の秘密は教えていただけるのです。何と単純なことでしょうか。うれしくなります。

種蒔きのたとえ

 さて、今日の「種蒔きのたとえ」と呼ばれるたとえ話ですが、これは農民が畑に麦の種を蒔くことにたとえておられます。イエスさまのお国には、麦畑はたくさんありました。日本で言えば水田のようなものです。ですから、聞いている人々には、このたとえ話の光景は、すぐに思い浮かべることができたでしょう。そのように、イエスさまは、人々にとって身近な題材を用いて、たとえ話を語られます。
 そしてこのたとえ話の中身も、ありふれているように聞こえます。道端に落ちた種が、人々に踏みつけられてしまったり、空の鳥に食べられてしまったりして、芽を出すこともなかったということもよく分かります。また、石地に落ちた種が、根を生やせないので枯れてしまったということも、イバラという灌木の中に落ちた種が、芽を出してもイバラに塞がれてしまって結局、実を結ぶことができなかった、ということもよく分かります。そして、良い地、つまり本来の畑のよく耕された所に落ちた種は成長して実を結んだ、ということも実によく分かります。
 それだけなら、なんということはない話しなのですが、実はこのたとえ話には、「おや、おかしいぞ?」というところがあるのです。いや、このたとえ話に限りません。これは私の神学生時代の師匠であった清水恵三先生がおっしゃっていたことですが、イエスさまのたとえ話には、「おや、おかしいぞ?」という点が必ずと言っていいほどあるというのです。
 きょうのたとえ話で言えば、たとえ話の最後の所です。8節の、良い土地に落ちた種が、「百倍」の実を結んだという点です。これがなぜ変なのかは、現代人の私たちには分かりません。というのは、このイエスさまの時代は、一粒の種が芽を出し成長して、何粒の麦の実を結ぶかと言えば、10粒から20粒、豊作であってもせいぜい30粒程度だったというのです。しかしこのたとえ話では、「百倍」の実を結んだとおっしゃっている。予想外の収穫です。あり得ないわけです。だから、当時のイエスさまのこのお話を聞いていた人たちは、「おや、おかしいぞ?」と思ったことでしょう。「そんなことはあり得ない」と思ったことでしょう。一笑に付したかも知れません。
 なぜ、そんなおかしなことをイエスさまはおっしゃったのか。‥‥それはそこに「神の国の秘密」があるからです。人間の世界のことと、神の国のことは、当然違いがあります。その違いが、イエスさまのたとえ話の、おかしな点として現れてくるのです。

種の違い

 そのような目で、もう一度このたとえ話のイエスさまの解説を見てみましょう。そうすると、11節で、種というのは神の言葉のことであるとおっしゃっています。すなわち、神の言葉が語られて、それを受け取った人間の違いによって、どうなるかが違ってくるということです。
 そして、道端に落ちた種は、踏みつけられたり鳥に食べられてしまいましたが、それは、神の言葉を聞いても、その人の心から悪魔が御言葉を奪い去ってしまう人のことであるとおっしゃっています。
 悪魔というのは、人間が神さまを信じないようにさせます。なるほどと思います。人が神の言葉を聞いても、悪魔がそれを人の心から奪っていく。ですから、人が神の言葉を聞いても芽を出さないのは、そのように悪魔が妨害しているということになります。人間だけの責任ではありません。ですから私たちは、悪魔が御言葉を奪ってしまわないようにしなければなりません。でも人間の力ではどうすることもできません。ですから、神さまに祈って、御言葉を聞くことができるようにしていただく必要があります。また、他の人のためにも、御言葉がその人の心の中にしっかりと根付くように祈る必要があります。
 次に石地に落ちた種とは、神の言葉を聞いても、喜んで受け入れるのですが、試練に遭うと信仰をやめてしまう人のことだと言われています。つらいことがあると、「神などいるものか。神など信じられない」と言って、やめてしまう。
 その次の、茨の中に落ちた種は、御言葉を聞いても、人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、結局は実を結ぶことができない。
 私は、このたとえ話を読むと、これは自分のことであったと思わざるを得ません。私は子どものころから教会学校に通っていました。しかしその後教会を離れ、信仰も捨ててしまいました。今ここで述べられた、道端に落ちた種のようであり、石地に落ちた種のようでありました。「神なんか信じられない」と言いました。この世の快楽のほうが楽しくなって、教会へ行くことなどバカバカしいと思いました。‥‥

良い地に落ちた種

 これら三つの所に落ちた種は、まさに私自身のことを言っているようでした。そんな私が、百倍もの実を結ぶことができるのか? 絶対に無理だと思います。私は、道端であり、石地であり、イバラの生い茂った地です。実を結ぶことなどできない。ダメに決まっていると思える。自分は良い地ではないと。
 しかしでは、百倍の実を結ぶ「良い土地」とはどういう土地であるとイエスさまは言っているでしょうか?‥‥すると「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たち」と書かれています。「立派な」などと言われると、「ああ、だめだ」と思ってしまいますが、この「立派な」と日本語に訳されている言葉は、「よい」とか「きれいな」という意味の言葉です。つまり純粋な心でと訳してもよいでしょう。その人が立派であるかどうかではないのです。今までどんなダメな人であっても、純粋に御言葉を聞けば良いのです。
 そして、「よく守り」という言葉は、保つとか、持つとか、引き留めておくという意味です。律法を守るという意味ではありません。御言葉を聞いて、自分の中に持ち続けるということです。それが良い土地です。そして実を結ぶのは、種の力です。種は御言葉です。土地が頑張って実を結ぶのではありません。種自身の中に、成長する力があるのです。その種が成長していく。そして、百倍という、あり得ないほどの実を結ぶと約束して下さっています。
 キリスト教ラジオ放送局のFEBCが発行している機関紙の今月号が先週届いたので見ておりましたら、視聴者から届けられた手紙の紹介の欄が目に留まりました。それは匿名の方の手紙で、次のようなことが書かれていました。
 「少し前、将来の心配が襲って来て悩んで希望を失っていました。病気の私には恵みがない。でも聖書の箇所で『明日のことを思いわずらうな。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養って下さっているのです‥‥(略)』というみことばが与えられました。私は心身体調が悪くても、住む家があり、毎日三食ごはんが食べられて、着る物があり、ゆっくり休養を取ることを医者と家族に許されている。こんなに恵まれていることってあるだろうか‥‥と、ふと思えたのです。今まで神さまはたくさんのお恵みを与えて下さったのに、それを当たり前のように思っていたのだと思いました。私は神さまによって生かされている‥‥。なんだかうれしくなりました。‥‥(略)‥‥何もできない弱い私は、ただただ神さまに感謝するしか、お返しするものがないのです。神さま、感謝します。私は弱くていい。弱ければ弱いほど、神さまのことが近く感じるから。そう思えただけでも、病気になったことは無駄ではなかったのだと思いたいです。」
 この方は、みことばの種が豊かに実を結んでいると言えないでしょうか。百倍の実を結ぶということは、有名になって何か社会のために役に立つようになることだとは限りません。この方のように、その人の心の中で、予想外の実を結ぶということも含まれます。それはその人の力によって実を結ぶのではありません。みことばの種自体の中に、成長して、予想外の収穫をもたらす力があるのです。
 ですから、だれでも、主の御言葉を素直に受け入れて、持ち続けるならば、予想外の、百倍の実を結ぶことを、イエスさまは約束して下さっています。


(2012年12月9日)



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