礼拝説教 2012年12月2日

「仕える喜び」
 聖書 ルカによる福音書8章1〜3 (旧約 出エジプト記35:29)

1 すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。
2 悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、
3 ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。




アドベント

 今年もアドベントを迎えることができましたことを、主に感謝します。当教会堂も、クリスマスを迎える飾り付けがなされました。昨日、何人もの兄弟姉妹が奉仕に来られました。そうしてツリーやリース、クランツが飾られました。クリスマスの時だけではありません。教会は兄弟姉妹のさまざまな奉仕によって成り立っています。役員会やCS教師、奏楽、サンデー食堂、また各委員会の働きがありますし、礼拝当番や、清掃奉仕があります。また、目に見えないところで、周辺のゴミを拾ったり、教会の施設や備品の壊れているところを修理したり、というような奉仕がなされています。
 奉仕というと、何かボランティア活動か何かのように思われがちですが、教会における奉仕というものは、神さまにささげるものです。そのような働きが神さまにささげられ、それを神さまが、御用のためにお用いになることができるのであります。また、体の都合でそのような奉仕ができないという方も、今日の礼拝のために祈られていることでしょう。この祈りも尊い奉仕です。それが神さまにささげられるものだからです。

舞台裏

 今日の聖書個所に入りますが、今日の聖書個所は、とても大切なことが書かれていると思います。もちろん聖書はどこも大切には違いありませんが、今日の聖書個所は、一見読み過ごしてしまいそうであるにもかかわらず、やはり大切なことが書かれているという意味で、大切なことが書かれていると言えます。今日の聖書個所に書き記されていることは、言ってみれば、舞台裏のことが書かれていると言えます。イエスさまの福音宣教の働きが表舞台だとすれば、その舞台裏です。
 1節を読むと、イエスさまが「すぐその後」神の国の福音を宣べ伝える旅を続けられたと書かれています。前回の、ファリサイ派のシモンという人の家での食事の席の出来事のあとすぐに、ということです。つまり、イエスさまは休みなくあちらこちらの町や村に、神の国の喜ばしい知らせを宣べ伝えて回られました。そして12弟子もイエスさまと共に歩んだことが書かれています。
 私たちはそういうイエスさまの働きに目を見はり、感動し、また、教えられます。しかし今日の聖書個所は、イエスさまと弟子の集団が、どのようにして生活を支えられていたかということを記しているものです。
 私も富山にいた頃は、富山市内の超教派のキリスト教会が協力して行っている「富山市民クリスマス」というものがありました。市や県の会館をお借りして、礼拝と、子ども聖歌隊、そして市民クリスマス聖歌隊を組織して「メサイア」を歌っていました。その実行委員長も何回か務めましたが、そのような簡単な行事でも、観客席から見えない舞台裏では、音響や照明の人が常に気を配り、また、次のプログラムの出演者を並ばせたり、イスを用意したりと走り回っているわけです。ましてやこれが、大がかりな演劇などになれば、大道具、小道具など、さぞかし舞台裏はてんてこ舞いであろうかと思われます。
 しかしそのような舞台裏の光景は、観客席からは見えません。表舞台では、礼拝や聖歌隊のプログラムが粛々と進行しています。しかし舞台裏で働く人々がいなければ、表舞台も成り立ちません。今日の聖書個所のことについて書いているのは、4つの福音書のうち、ルカによる福音書だけです。ルカという人が、表舞台だけではなく、舞台裏にも関心を払う人であったことが分かります。

婦人の弟子たち

 ここに書かれているのは、イエスさまに従っていた婦人の弟子たちの働きについてです。まずこの婦人たちはどういう人たちであったかということが書かれています。
 すると2節に「悪霊を追い出して病気を癒していただいた何人かの婦人たち」という言葉があります。「悪霊」とはどういうことか。悪霊はサタンに属するものです。ですから、神を信じなくさせようとするのが悪霊です。特に悪霊というものは、人を苦しめることによって神を信じなくさせようといたします。ですから、悪霊が病気を利用することもあるわけです。
 そしてこの婦人たちは、イエスさまによって悪霊を追い出していただいた、あるいは病気を癒していただいた。そのようにして苦しみから解放していただいた人たちであることが分かります。
 とくにマグダラのマリアは、「七つの悪霊を追い出していただいた」と書かれています。七つの悪霊とは、聞いただけでたいへんだと思います。それだけ、自分にはどうすることもできない力によって苦しめられていたということです。どれほど苦しかったことでしょうか。しかしそれをイエスさまによって追い出していただいた。悪霊から解放されたのです。
 ちなみに、このマグダラのマリアという女性は、イエスさまが十字架にかけられた時、使徒たちは逃げてしまったのに、最後までそのそばにとどまり、墓に葬られる時まで手伝い、そして復活の日曜日の朝早く墓に駆けつけ、そして復活のイエスさまにお目にかかった婦人のひとりです。そこに、イエスさまによって苦しみから解放されたことへの感謝が見て取ることができます。
 そのように、この婦人たちは、誰に強制されてでもなく、自発的に感謝と喜びをもってイエスさまとその一行に仕えていたのです。イヤイヤながらではないということは、3節に書かれていますヘロデの家令クザの妻ヨハナを見ても分かるように思います。ヘロデというのは、ガリラヤの領主であるヘロデ王のことで、その家令というのは執事のことであり、財産の管理人です。そのようにヘロデ王によってもっとも信任されていた家来の1人であるクザという人の妻がヨハナであるということが分かります。その妻が、夫をおいて置いてイエスさまに従っていたというのですから、これはイヤイヤながらではないということが分かります。
 そのようにして、多くの婦人たちが自発的にイエスさまに従っていたのです。ですからこれは、婦人の弟子たちであると言えます。

自分の持ち物を

 その御婦人たちは、どうしていたかというと3節に「自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」と書かれています。「自分の持ち物を出し合って」というと、なにか金銭や物など、経済的に支援したように読めます。もちろん、そのようなお金や物も提供したことでしょう。しかしもう少し詳しく言いますと、ここの原文を読むと、「自分の持っているものによって仕えていた」という言葉になります。その場合、「自分の持っているもの」の「もの」というのは、もちろん品物も含みますが、そればかりではありません。つまり、自分の能力とか、特技とか、力とか、そういうものも含んでいます。すなわち、自分の持っている力によって奉仕したという意味も含みます。
 そのように、経済的にも支える人がおり、また、炊事をしたり洗濯をしたり、さまざまな形での奉仕がなされて、イエスさまとその一行の働きが支えられていた、ということになります。

人と共に働かれる

 このことは、イエスさまの働きは、イエスさまを信じる人々の助けを必要としたということになります。しかし、考えてみると、神の子であるイエスさまが、どうして人間の助けを必要としたのかと不思議に思われるかも知れません。イエスさまが神の子ならば、人間の助けなど必要ないはずではないでしょうか。ただ神さまがすべて必要なものを与えて下さればそれで足りるのではないでしょうか。
 しかし、イエスさまの最初の荒れ野の40日間の断食と、その時の悪魔の誘惑を思い出していただきたいと思います。イエスさまが空腹を覚えられた時、悪魔は、「あなたが神の子なら、その石をパンに変えてみなさい」と言いました。しかしイエスさまはそれを退けました。人の子として来られたイエスさまは、人の子として歩まれたのです。確かに神は何でもおできになる。しかしその神さまは、神を信じ、イエスさまを信じる人と共に働かれる道をお選びになったのです。そのようにして、人間も神の栄光の働きにあずかることができるようになさっているのです。
 この婦人たちは、言わば舞台裏で奉仕をしていました。それはルカだけが書いていることからも分かるように、日の当たらない奉仕かも知れません。しかし彼女たちもまた、イエスさまの栄光の働きに参加しているのであり、神の栄光に共にあずかっているのです。
 新約学者のバークレーは、今日の箇所に関連して、ある靴屋の話しを例に挙げています。…その人は、むかし、牧師になりたいと思っていたのですが、それはかなわず、老人となりました。その人に若い神学生の友人がいました。その若者が、伝道者として最初の任地に行った時、その人は一つの願いを申し入れたそうです。それは自分の命が続く限り、その若い伝道者の靴を作らせてほしいと。こうしてその靴屋の老人は、自分の作った靴を履いた説教者が、自分が一度も立つことがなかった教会の説教壇に立つ姿を想像したのだそうです。
 自分には、主のために奉仕できる何の力も無いと言われる方もおられるかも知れません。私が思い出すのは、私の最初の任地である輪島教会でのことです。
 その小さな教会に、ひとりのお婆ちゃんがいました。教会員みんなから「おばあちゃん」と呼ばれていました。おばあちゃんは市街地から遠い集落に住んでおられました。それで、私が教会学校が始まる前に車で迎えに行き、そして日曜日のすべての集会が終わってから、また車で送りに行きました。ですから、日曜日は一番長く教会にいる方でした。その間、礼拝以外の時は、いつも礼拝堂の座席に座って聖書を読んでいるのです。いつ見ても聖書を読んでいる。
 ある人がお婆ちゃんに聞きました。「ばあちゃん、なんでいつも聖書を読んどる?」すると彼女は答えました。「だって、読んでもすぐ忘れてしまうのよ。だから聖書から目を離せないのよ」‥‥。わたしはその言葉を聞いたとき、本当に感動しました。「歳をとって、聖書を読んでもすぐ忘れてしまう。だから読まない」と言うこともできるでしょう。しかし彼女は、「すぐ忘れてしまうから、いつも聖書の御言葉から目を離せない」と言ったのです。
 私は非常な感銘を受けました。彼女は、家では息子さん夫婦と折り合いが悪く、孤独でした。その彼女が、最も大切なことが何か、神の御言葉であるということを、静かに証ししている姿でした。彼女はただいつも聖書を読んでいただけです。しかしそれが、回りの人に、聖書が以下に大切であるかということを無言の内に証しをしていました。これも神さまへの尊い奉仕です。
 神さまは、そのような私たち一人ひとりの神にささげる小さな奉仕を喜んでお受け取りになり、用いて下さり、共に主の栄光にあずからせて下さることを信じることができます。

主が奉仕してくださったことへの感謝

 最後に覚えておきたいことは、奉仕というと、私たち人間が神さまに奉仕することであると思ってしまいますが、それよりも前にもっと大切なことがあります。それは、まず神さまが私たちに奉仕して下さったということです。
 それが、御子イエスさまを私たちに下さった、ということです。このクリスマスのアドベントのローソクは、そのことを証ししています。神さまが、そのひとり子イエスさまを、私たちに下さった。そのたいへんな奉仕が、まず最初にあった。私たちはその神さまの愛に感謝して、喜んで神さまにお仕えするものです。


(2012年12月2日)



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