礼拝説教 2012年11月25日

「ゆるされた者」
 聖書 ルカによる福音書7章36〜50 (旧約 詩編37:1〜2)

36 さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。
37 この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、
38 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。
39 イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。
40 そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。
41 イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。
42 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」
43 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。
44 そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。
45 あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。
46 あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。
47 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
48 そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。
49 同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。
50 イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。




イエスへの喜びと感謝をあらわす女

 本日の聖書では、イエスさまに対する感謝を心から表している女性がいます。彼女が流した涙は、うれし涙であり、喜びと感謝の涙でした。押さえようとしても押さえきれない涙が流れ落ちました。それがイエスさまの足に落ちました。それで彼女は、それを自分の髪の毛でぬぐいました。そしてイエスさまの足に口づけし、高価な香油を塗ったのです。

私たちには関係ないことか?

 さて、今日の出来事を読んで、「この女の人は良かったね」と思う反面、「でも、私には直接関係のないことだ」と思われる方もおられることでしょう。つまり、この喜びと感謝は、この女の人にとってのことであって、自分には関係ないことだと思わないでしょうか。
 例えば、今日の出来事の登場人物のひとりであるファリサイ派のシモンには、何の喜びもありませんでした。それどころか、むしろこの女の人とイエスさまについて、不審に思ったのではないかと思います。この家の主人であるシモンは、イエスさまを試そうとしています。39節を見ると、シモンが心の中で思ったことが書かれています。「この人がもし預言者なら、自分に触れている女が誰で、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と。もしイエスさまが本当に預言者ならば、自分に触れているのが罪人であると分かるはずだとシモンは考えました。つまり、イエスさまが、本当に神の預言者であるかどうかをテストしようとしているのです。
 シモンがそのように考えたのには理由があります。それは、当時の宗教家、シモンの属するファリサイ派とか律法学者といった人々は、罪人とは関わらなかったからです。もちろん触れることなどしません。ましてや、預言者であれば、その人が罪人がどうか、預言者に宿っている神の霊によってすぐに分かるはずだと考えたのです。だから、イエスが本当に預言者ならば、この女が触れようとしたら、ただちにやめさせるか、足を引っ込めるはずであると考えたのです。
 そこで、この女の人についてもう少し考えてみましょう。イエスさまがファリサイ派のシモンから食事に招待されて、家に入って食卓を囲んでいました。するとそこに、この女性が入ってきました。彼女のことを37節で「罪深い女」と記しています。(しかし、念のために言っておくと、この「罪深い女」と日本語に訳している言葉は、原文は「罪人であった女」となっています。つまり、この女の人が他の人より特にひどい罪人だということではないのです。ですから、この訳にはちょっと注意が必要です。)
 この女性が罪人であったというのは、どういうことでしょうか。シモンが知っているのですから、その町ではちょっと知られた女性だったかも知れません。娼婦であったという説もあります。いずれにしろ、自他共に認める罪人であったと言えるでしょう。ですから、ファリサイ派や律法学者など、宗教家たちから遠ざけられ、世間の人々からも白い目で見られていたような人であったのではないかと思います。
 その彼女は、イエスさまがファリサイ派のシモンの家に入られたと聞いて、入ってきたのです。シモンにとっては招かれざる客です。しかし彼女は、何としてもイエスさまに会いたかった。なぜか。それは、やり場のない自分の罪を、イエスさまは解決してくださると信じたからです。イエスさまは、神の赦しを宣言してくださる。そのように信じていた。それで、イエスさまがこの町に来られたと聞いて、いても立ってもいられずにこの家に入ってきたのです。そしてイエスさまを前にして、その喜びと感謝が押さえきれずに涙となって流れ落ち、このような行動に表れたと言えるでしょう。それは、どうにも解決することのできない罪というものが、イエスさまによって赦されたという喜びです。

なぜ喜びがないのか

 それに対して、シモンのほうは、イエスさまが来られたというのに全然喜びがありません。この違いはいったいどうしてでしょうか。
 ここでイエスさまが、たとえをお話になりました。‥‥それは、五百デナリオン借金をしている人と、五十デナリオンの借金をしている人のたとえでした。2人とも返すお金がありませんでした。そこで、金貸しは2人の借金を帳消しにしてやりました。この二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか‥‥と。ちなみに「デナリオン」というのは、1日の労働者の賃金に相当する額です。
 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えました。これは誰が考えてもその通りでしょう。多く帳消しにしてもらった方が、より大きく、免除してもらったことに感謝するでしょう。喜ぶことでしょう。この「借金」を神さまに対する負債、すなわち「罪」に置き換えてみればよいのです。神さまに対する罪を、イエスさまによって、多くの罪を赦してもらった人のほうが、より深く感謝し、愛するということです。
 この女の人は、自分の多くの罪をイエスさまによって赦されることを信じ、感謝と喜びにあふれました。それに対して、ファリサイ派のシモンはそうではない。自分は、わずかしか借金をしていないと思っている。罪が、そんなにないと思っている。あるいは、自分は全然罪などないと思っている。だから、イエスさまが来られても、喜ぶわけでもないし、感謝もない。そもそもイエスさまを必要としていない。ありがたいとも思わない。自分はこのままで良いと思っているのです。

罪がないと思っている人

 これはこのシモンのことだけではありません。この世の多くの人は、聖書の言う「罪」というものが、そんなに大きな問題だとは分かっていません。ましてや、自分が罪人であるなどとは思っていません。しかし、聖書は、まさに人間の罪こそが、不幸の原因であると述べているのです。何よりも、罪によって、神さまと私たちの間が断絶してしまっているからです。イザヤ書59:2にこのように書かれています。=「むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」
 罪があるから、神との間が断絶し、神の祝福も平安も来なくなってしまっているのです。喜びも感謝もなく、不平不満ばかり言っていることになるのです。そして命を失っているのです。
 そして、聖書は、人間はみな罪人であると言っています。私が最初に、私たちの使っている聖書が「罪深い女」と訳しているのを注意して、原語は単に「罪人」となっているということを申し上げたのも、このことです。この女の人が特に罪深いのではないのです。私たちはみな罪人であり、同じなのだというのが聖書の言っていることです。
 イエスさまのたとえ話も、五百デナリオンの借金をしている人と、五十デナリオンの借金をしている人が出てきましたが、本当はそんな区別はないのです。みんな五百デナリオンの借金を神さまに対してしているのです。だからこれは逆に言えば、五百デナリオンという大金を帳消しにしてもらったような大きな感謝をすることができるということになります。喜びが満ちあふれることになるはずなのです。



 シモンは自分は罪人ではないと思っていました。59節で、この女の人のことを「罪深い女なのに」と言っています。これも先ほど述べたように、ギリシャ語聖書の原文は、単に「罪人」となっているからです。シモンは彼女のことを「罪人」と呼んでいる。自分は罪人ではないと思っているのです。しかし彼に本当に罪はないのか。
 私は、若き日、長く信仰から離れたあと、ようやく教会に戻った頃のことを思い出します。島田教会に戻ったのですが、他の教会の集会にも時々出入りしていました。それは、アメリカ人の宣教師であるボストロム先生がしている教会でした。そこの、成人男性のための聖書研究会に出るようになりました。
 するとある時、先生が、出席者に宿題を出しました。それは、旧約聖書の「箴言」の中に、「高慢」とか「高ぶり」という言葉がいくつ出てくるか調べてきなさい、という宿題でした。私は、「変わった宿題だなあ」と思いながら、家に帰って調べてみました。当時は口語訳聖書でしたが、私たちの使っている新共同訳聖書では、「高慢」の代わりに「不遜」という言葉も使われています。さて、そのようにして調べてみて、口語訳聖書には、40回ほど「高慢」とか「高ぶり」という言葉が出てくることが分かりました。ずいぶんたくさん出てくると思いました。
 それで、次回の時にそれを発表しました。すると先生は、「聖書でもっとも大きな罪は、高慢ということです」とおっしゃったのです。聖書では、もっとも大きな罪は、殺人でも盗みでもない。高慢であるという。私はちょっと衝撃を受けたことを覚えています。
 それからは、注意深く聖書を読むようになりました。それは本当かと思いました。するとだんだん、それが本当であることが分かってきたのです。箴言だけの話しではない。聖書の最初から最後まで、たとえ「高慢」という言葉が使われていなかったとしても、罪の根源は高慢であり、高ぶりであるということであることが、分かってきました。それは、私にとって非常な衝撃でした。
 きょうの聖書に戻りますと、ファリサイ派のシモンは、この女のことを「罪人」と呼んでいますが、自分のことは罪人だと思っていない。つまりこの女の人を見下しているのです。それがまさに「高慢」であり、非常に大きな罪です。そのような大きな罪があるのに、本人はまるで分かっていない。それが高慢です。そして罪というものは、自分では罪と思っていないところに罪があるのです。

赦しへの感謝

 イエスさまに出会ったのに、シモンに何の喜びも感謝もないのは、そのように、自分が罪人であるとは自覚していないからです。だから、イエスさまによる罪の赦しが、ありがたくも何ともない。喜びがないのです。
 数年前の読売新聞に、13年前に商品を万引きした人から、謝罪の手紙が届いたというニュースが載ったことがありました。それは次のような記事でした。
 “「13年ほど前、つくば店内からパーカー1着を万引きしてしまいました」こんな文章で始まる手紙と1万円札1枚が入った差出人不明の封書が、水戸市のスポーツ用品店に郵送されてきた。‥‥謝罪の言葉が印字された手紙の中で、自分はクリスチャンだと打ち明け、「盗むものはもう盗んではなりません」と、聖書の一節を引用していた。‥‥同社は「こんなことは初めて」と話し、送られてきた1万円は慈善団体に寄付することを検討している。(YOMIURI ONELINE/2008年2月8日14時35分 読売新聞)”
 私はこれを読んでうれしくなったことを思い出します。その万引きをした人は、万引きした時は、それが罪だとは思わなかったことでしょう。しかし後に導かれて、イエスさまを信じてクリスチャンとなって、それが罪であることに気がついたのでしょう。その時、彼はどんなに心が痛み、苦しんだことでしょうか。しかしイエスさまによって赦されたことを知ったでしょう。それで主に感謝して、むかし万引きした店に謝罪の手紙と現金を送ったのだろうと思いました。
 自分が罪人であることに気がつくということは、とても苦しいことです。きょうの聖書に出てくる女の人も、自分の罪に気がつき、苦しんだことでしょう。しかし、イエスさまに出会った時、その自分を救ってくださる方であることを知るのです。罪の苦しみは、イエスさまによって、赦しの祝福、感謝へと変えられるのです。
 それは、ただイエスさまだけが、私たちの大きな罪、あやまちを赦すことができる方だからです。なぜなら、イエスさまが罪人である私たちを救うために、十字架にかかって、ご自分の命を投げ打って下さったからです。それゆえ、私たちは自分の罪深さを知れば知るほどに、イエス様という方が、かけがえのない尊い方であることが分かってくることでしょう。この女の人が、涙を流してイエスの足をぬぐったように、感謝と喜びの涙を流さざるを得なくなるでしょう。


(2012年11月25日)



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