礼拝説教 2012年11月11日

「神の国の人」
 聖書 ルカによる福音書7章24〜30 (旧約 詩編125:1〜2)

24 ヨハネの使いが去ってから、イエスは群衆に向かってヨハネについて話し始められた。「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。
25 では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。華やかな衣を着て、ぜいたくに暮らす人なら宮殿にいる。
26 では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ、言っておく。預言者以上の者である。
27 『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』/と書いてあるのは、この人のことだ。
28 言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」
29 民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた。
30 しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ




召天者記念礼拝

 本日は、召天者記念礼拝として守っております。お手元にお配りしました召天者名簿を見ましても、戦後創立された当教会ではありますが、すでに多くの兄弟姉妹を天に送っていることを思います。
 ただ今、聖歌隊に歌っていただきました讃美歌第2編136番は、私にとって思いでの深い讃美歌です。それは前任地の教会でのことですが、ある姉妹が肝臓ガンになりました。そして闘病生活に入りました。しかしもう手の施しようがないという状態でした。彼女は次第に衰弱していきました。そしてある日、病院にお見舞いに行った時、「何の讃美歌を歌いましょうか?」とうかがったところ、「2編の136番をお願いします」と言われたのです。そして家内と、その場にいたご子息と共に歌いました。その時、本当に天国の希望がその病室にあふれたように思われました。非常に感動的な空間となりました。そのことを思い出します。
 本日は、毎週聖日の礼拝で読んでおりまするかによる福音書の続きを読んでいただきましたが、主の導きです。ちょうどふさわしい聖書の個所があたりました。この聖書の個所から、主の恵みをいただきたいと思います。

ヨハネより偉大

 本日の聖書個所の28節でイエスさまはこう言っておられます。「言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」
 「女から生まれた者」というのは、男から生まれる人はいないわけですから、みんな女から生まれたわけで、すなわちこれは、今までこの世に生まれたすべての人間のことを言っているのです。すなわち、イエスさまはここで、それまでにこの世に生まれた全人類の中で、洗礼者ヨハネが最も偉大な人であることを、まず言っておられるのです。そして続いて、しかし神の国では、神の国の中でもっとも小さな者でも、その洗礼者ヨハネよりは偉大であるとおっしゃっている。
 皆さん、このイエスさまのお言葉を聞いて、どのように思われるでしょうか?‥‥バプテスマのヨハネが一番偉大だが、神の国では、もっとも小さな者でもヨハネよりは偉大‥‥。すなわち、神の国に入るためには、ヨハネよりももっと偉大にならなければ入ることはできないということになるのではないでしょうか?
 そうすると、この私などはとうてい無理だということになります。私は偉大でも何でもない。極めて平凡な人間です。そしてほとんどの皆さんも、同じように思われるのではないかと思います。
 しかしよくこの言葉を見ると、それまでのすべての人類の中で最も偉大なヨハネよりも、神の国のどの人も偉大であるということですから、つまりは、神の国には誰も入ることができない、ということになるのではないでしょうか。天国には誰も入れない。そのようなことをイエスさまが言っておられるのでしょうか。神さまとイエスさまと御使いたちのほかは誰もいない天国。それでは、誰も救われないということになってしまいます。

偉大とは?

 さて、そうしますと、ここでイエスさまがおっしゃっている「偉大」とはどういうことでしょうか。ここで「偉大」と日本語に訳されている言葉は、原語のギリシャ語では「メガス」という言葉の比較級です。メガスという言葉は、「大きい」とか「巨大」という意味が基本です。現在でも「メガトン級」とか、パソコンをやられる方ならば、「メガバイト」という言葉を言存知でしょう。とにかく、大きいということです。
 まず、「およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない」とイエスさまはおっしゃっておられるわけですが、ヨハネの何が偉大なのでしょうか。
 イエスさまは、26節でヨハネのことを、「預言者以上の者である」とおっしゃり、そして続く27節で、旧約聖書が予言していたキリストが、この世に来るための準備をした人が、このヨハネのことであると言っておられます。そしてそのために、ヨルダン川で人々に、悔い改めの洗礼を授けていた。そしてイエスさまに洗礼を授け、イエスさまこそ神が約束して下さっていたキリスト、救い主であることを証言した。‥‥ヨハネがしたことと言えば、そういうことです。
 人間的に見ると、洗礼者ヨハネという人は、「偉大」な人には見えません。何か歴史上の偉大なことをしたということでもありません。あの狭いユダヤ以外では、有名人でもありませんでした。権力があるわけでも無く、政治家でもありませんでした。お金持ちでもありませんでした。それどころか、無一物の修験者のような人でした。荒れ野に住み、ラクダの毛衣を着、腰に革の帯を締め、イナゴと野蜜を食べて生きていました。そのように何も持たない、何も無い、そのような洗礼者ヨハネが、最も偉大であるという。
 なるほど、無一物でも立派な人というのは、たしかにいます。マザー・テレサもそうです。人格の優れた人という方もいます。ヨハネもそうなのかもしれません。しかしそうだとすると、やはり、「言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」とおっしゃったイエスさまの言葉にぶつかります。
 そうすると、ヨハネが偉大であるというのは、ただキリストの道を備えたという、その一点に尽きると言っていいでしょう。イエスさまがこの世に来るための準備をしたということについてです。そして、「しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」というのは、神の国においてはどんな人も、神さまとイエスさまにお目にかかっているということが、この世にいる人とは決定的に違っています。それが、どんなに偉大なことか。イエスさまはそのようにおっしゃっているのだと思います。
 以前証ししましたように、私はいったん会社に就職しましたが、病気を患い、会社を辞めることになりました。そして郷里に戻りました。挫折をしました。そのような中で、バッタリと昔の幼なじみに出会いました。彼はキリストを信じるものとなっていました。むかし、彼の家は貧しく、勉強もできないので、彼は同級生たちから軽んじられていました。しかし、挫折のどん底にあった私には、キリストを信じて私のために祈ってくれた彼は、偉大に見えました。輝いて見えました。
 それから私は、神を知っている人に会いたいと思いました。もっと神を知りたい。もっとイエスさまを知りたい。そう思いました。私の魂は飢え渇いていました。私は、神を知っている人に会いたいと思いました。ここで注意深く言いますと、私が会いたかったのは、「神について知っている」人ではありませんでした。「神を知っている人」でした。「神について知っている人」はたくさんいるでしょう。それは聖書を勉強したり、神学を学べばそういう人はいるのです。神についての知識のある人は、捜すのはそう難しくはありません。
 しかし私は、そういう人ではなく、「神を知っている人」に会いたかった。実際に神に会い、キリストに会い、神さまをよく知っている人です。

神の国の住人

 そうすると、神の国の住人というのは、紛れもなく神にお目にかかっているわけです。天国においては、父なる神さま、イエスさまと、顔と顔を合わせてお目にかかり、礼拝しているからです。洗礼者ヨハネは、確かにイエスさまを証ししたという意味で偉大だったでしょう。しかし前回の個所で学んだように、その信仰が揺らいだのです。本当にイエスさまはキリストかどうか、動揺してしまいました。しかし神の国の住人は違います。なにしろ、顔と顔を合わせてイエスさまにお目にかかっているのですから。揺らぎようがありません。もう信仰がつまずかないのです。まさに偉大です。そして私たちは、そこに向かっているということです。
 一昨年の1月、最初にご紹介した方とは別の姉妹が亡くなられました。彼女もガンでした。黙々と教会のために奉仕をなさる人でした。最後は、緩和ケア病棟、いわゆるホスピス病棟に移りました。ある日、家内と二人でお見舞いに行くと、ベッドの上で眠っておられました。小さな声で呼びかけると目を開けられました。そして、「イエスさま、最高です!」「信じます!」「イエスさまの懐にいます」「感謝です」「イエスさま!イエスさま!」‥‥ということを繰り返し言われました。私は、「ああ、イエスさまが共にいてしっかりと彼女を捕まえていて下さるのだ」と思い、胸が熱くなりました。彼女が天に召されたのは、それから9日目のことでした。彼女は、確かに自分がイエスさまと共に神の国に行ったのだということを証しして行かれました。
 今、彼女もまた、他の多くの信仰者と共に神の国において、そのイエスさまと顔と顔を合わせて神を礼拝しているということを、信じることができるのです。それは確かに偉大なことです。「神の国でもっとも小さな者でも」、地上における最も偉大な人よりも偉大であると言われたイエスさま。神の国とは、それほど偉大なところであり、神さまイエスさまと共にいるということが、偉大なことであるという。
 私たちもそこに向かっているのです。洗礼者ヨハネより、はるかに小さな者であるはずの私たちが、神の国に入れていただける。それはどうしてでしょうか。他でもありません。イエスさまが、本当は神の国にふさわしくない私たちを、連れて行って下さるからです。そのためにイエスさまが十字架にかかられたからです。私たちは、ただそのキリストを信じればよいのです。


(2012年11月11日)



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