礼拝説教 2012年10月28日

「近づきたもうキリスト」
 聖書 ルカによる福音書7章11〜17 (旧約 詩編86:15〜16)

11 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。
12 イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。
13 主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。
14 そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。
15 すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。
16 人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。
17 イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。




 先週は教団総会がありました。火曜日から木曜日までの二泊三日の予定でしたが、私の叔父が亡くなり、葬儀となったため、三日目をキャンセルして、そちらに行きました。葬儀は、埼玉県の小川町にある小川教会にて執り行われました。
 その説教の中で、牧師の長尾先生が、教会員から「愛誦聖句・讃美歌アンケート」をとった時のことを話されました。「あなたの好きな聖句は何ですか?」「好きな讃美歌は何ですか?」というアンケートです。みなさんも、それぞれ好きな聖句や讃美歌がおありのことと思います。しかし長尾先生は、私の叔父のアンケートが印象的だったと言われました。それは、「あなたの好きな讃美歌は何ですか?」という設問に対して、「聖書のことばについて、好きとか嫌いとか言うことは不遜であると思います」と書いてあったというのです。
 わたしはそれを聞いていて、ハッとさせられました。まさにその通りだと思いました。どの聖書のことばが好きであるということは、他の聖書の言葉はそうでもない、ということになりますし、また神の言葉であるはずの聖書の言葉について、優劣を付けることになります。本当は、どの言葉も尊い神の言葉であって、意味のある言葉なのだ‥‥。そんなふうに叔父から言われているように思いました。

ナインにて

 本日の聖書の個所は、新約聖書の4つの福音書のうち、ルカによる福音書だけに出てくる出来事です。イエスさまが、ナインという町に行かれました。弟子たちやおおぜいの群衆も一緒でした。そしてちょうど町の門に近づいた時に、葬送の行列に出くわしました。町の門と書かれていますが、大陸のほうでは、昔は町は城壁で囲まれた中にあったのです。
 その葬送の行列は、あるやもめのひとり息子が死んで、その棺が担ぎ出されているところでした。町の外にある墓地に、その遺体を葬るために町の門から出て来たのでしょう。「ある母親」と呼ばれています。名前は書かれていません。無名の女性です。そしてここで驚くべきことが起きました。

あわれみ

 それは、イエスさまがこの母親を見て、憐れに思われたことから始まっています。13節で「主は、この母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた」と書かれています。憐れに思うということは、かわいそうに思ったということです。イエスさまは、この母親に同情なさったのですね。憐れに思うというのは、この母親が立派だったからとか、というのではなく、ただ無条件に憐れに思われたということです。
 そしてイエスさまのほうから、その母親のひとり息子の遺体が入っている棺に近づかれた。注目すべきは、イエスさまのほうから近づかれたということです。誰かがイエスさまに頼んだのではありません。「死んだ人を生き返らせてくれ」と誰かが頼んだのではない。誰も頼んでないのに、ただイエスさまが憐れに思われて、イエスさまのほうから近づいて行かれたということです。
 これは、この前のところの百人隊長のしもべの癒しと比べると、全く違っている点です。前回の個所の、百人隊長のしもべが癒された時は、百人隊長が人を介して、死にかかっている城病のしもべを癒してくださるように、イエスさまに懇願したところから始まっています。ユダヤ人の長老たちが、イエスさまの所に来て、熱心に頼んでいます。そしてイエスさまがそれに答えて行かれる。
 ところが今回は全く違っています。誰もイエスさまに頼んでいないのに、全く一方的にイエスさまが憐れに思われて、近づいて来られる。
 これは私たちの祈りも同じであると言えます。神さまに熱心に祈り、お願いして、その祈りがかなえられることもあります。しかし、全く祈っていなかった事柄について、イエスさまが一方的に助けて下さることもあります。神さまは、祈ることだけを助けて下さるのではありません。時には、祈らなかったことでも助けて下さる。例えば、まだ本当の神さま、そしてイエスさまを知らない人々については、神さまは何もしてくれないかというと、決してそんなことはないのと同じです。イエスさまという方を全く知らなかったのに、イエスさまが導いて、神を信じるようになった、という人は多いでしょう。それはイエスさまに頼みもしないのに、救ってくださったのです。
 とにかく、きょうのところでは、誰も頼んでいないのに、全く一方的にイエスさまが、その人を憐れに思って、近づいてくださった。何を憐れに思われたか、ということについては書かれていないので、今日の聖書個所に書かれていることから推測いたします。すると、この母親は「やもめ」であったと書かれています。やもめとは、未亡人です。夫に先立たれた。当時は、やもめというのはもっとも貧しい人たちの代名詞でした。女性が十分な収入を得ることのできる仕事というのは、全く少なかったのです。だからこの人も経済的に非常に貧しい人であったと思われます。
 そして「ひとり息子」と書かれています。この女性のひとり息子。14節でイエスさまが、死んだ息子に向かって「若者よ」と言っています。小さい子どもではないんですね。もう若者になった息子です。その息子が死んでしまった。
 この貧しいやもめは、夫に死なれてから、苦労して苦労して、いっしょうけんめいひとり息子を育てたのでしょう。どれはどんなにつらく、厳しいことであったかと想像できます。そうしてようやく、その一人息子が若者となった。苦労の甲斐があったというものです。ところが、ようやく自立できる若者となった時、その息子が死んでしまったのです。‥‥母親のショックと悲しみは、どんなに大きかったかと思います。もうすべてが絶望へと変わったに違いありません。涙、涙、涙が止まらない‥‥。そういう状況だったでしょう。

死人のよみがえり

 そこにイエスさまが近づいて、声をかけます。「もう泣かなくともよい。」しかし、なぜイエスさまが「もう泣かなくともよい」とおっしゃったのか。それは、このあと続く奇跡をイエスさまがなさるがゆえに、「もう泣かなくともよい」とおっしゃったことが分かります。
 「もう泣かなくともよい」と言われたイエスさまは、続けて彼女のひとり息子の遺体が納められた棺に触れると、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われました。死んだ人に向かって「起きなさい」とおっしゃったのです。たしかに死んだ人に向かって言われたのであることは、イエスさまが「若者よ、あなたに言う」と呼びかけておられることによって、はっきりします。「若者よ、あなたに言う」とおっしゃった、その若者は死んでいるのです。死んで棺桶に入っているのです。その死人に向かって「起きなさい」と命令したのです。
 死人に命令して、どうなるのでしょう?‥‥死人は、もはや生きていないのです。先週の葬式で、あらためて私は、叔父の遺体が火葬場で骨になる場面に立ち会いました。それはもはや生きている者ではなく、物体です。それが厳しい現実です。死という厳しさです。その物体に戻ってしまった死人に命令してどうなるというのでしょうか。
 しかし私たちはここで、前回の聖書個所で、百人隊長が言った言葉が思い出されます。‥‥「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」(7:7〜8)。‥‥軍隊の百人隊長が、自分の部下に命令するとその通りに部下が従う。それと同じように、イエスさまが命じられれば、その通りになる。
 果たしてイエスさまが、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われたところ、死人が起き上がってものを言い始めました。イエスさまの言葉の力を印象づけています。それはまさしく、神の言葉の力です。聖書の一番初め、創世記の天地創造のところで、このように書かれています。‥‥「光あれ。こうして光があった」(創世記1:3)。神様が言葉によって宇宙とその中にあるすべてのものを作ったと書かれています。神さまが言葉を発せられるとその通りになる。このイエスさまの言葉は、そのような力のあることを示しています。

絶望はない

 そのように、イエスさまがおっしゃれば、何も不可能なことはないということを教えられます。それで、私たちには絶望というものもなくなります。ひとたびイエスさまが、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と命じられると、死人さえも生き返ってものを言い始めたように、ひとたびイエスさまが、私たちの抱えている問題について言葉を発せられれば、それは解決されるのです。
 そしてそれは、私たちが立派だからイエスさまがそうしてくださる、ということではありません。それはただイエスさまの憐れみによるのです。そしてイエスさまが憐れみ深い方であるということを感謝したいと思います。

神を賛美

 今日の聖書でもう一つ注目したいことは、この奇跡の結果、賛美され、ほめたたえられたのは誰であるのか?ということです。16節を見ると、「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して‥‥」と書かれています。また、「神はその民を心にかけてくださった」と人々が言っています。
 そのように、神さまが賛美され、ほめたたえられていることが分かります。この死んだ若者を生き返らせたのはイエスさまであるのに、イエスさまが賛美されたのではなく、神さまが賛美されている。これは注目すべきことです。そして私たちに大きなことを教えています。イエスさまは、ご自分がほめたたえられるように奇跡をなさったのではなく、人々が神さまをほめたたえるように奇跡をなさったということになります。つまり、イエスさまは、神さまを証ししておられるのです。
 例えば、私たちが祈る時、「神さま、私がみんなからほめたたえられたいから、祈りを聴いてください」と祈ったらどうでしょうか? そのような祈りを神さまは聞いてくださるでしょうか?‥‥かなえてくださらないでしょう。それは神さまの御心ではないからです。人間がほめたたえられるために、神さまにお願いをするというのは、間違っています。
 ヤコブの手紙に次のように書かれています。「願い求めても与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」(ヤコブ4:3)。
 むかし、ある教会が、となりの教会にライバル心を持ちました。となりの教会のほうが大きい。それで、その教会に追いつき追い越せ、というわけです。教会の月報に、となりの教会と自分の教会の教勢や財政力の比較の一覧表を載せ、となりの教会よりも大きい教会となるようにと、対抗心を燃やし、いっしょうけんめいになったそうです。そしてどうなったでしょうか?‥‥当の教会は、成長するどころか、小さくなっていきました。なぜでしょうか?‥‥そのような願いを持つことは、神の御心ではないからです。そのような自分を高めたり、自慢するような信仰は間違っているからです。神さまの祝福は受けられません。教会や信仰を自慢してはいけません。
 私たち自身もそうです。もし私たちが、ライバル心や、あるいは自分がほめたたえられるようになるために、あるいは、自分が名声を得るために神さまに祈るのであるならば、そのような祈りはかなえられないでしょう。イエスさまでさえ、ご自分がほめたたえられるのではなく、神さまが賛美されるようになさいました。
 私たちが神さまに祈る時には、「神さま、あなたを証ししたいので、祈りを聴いてください。神さま、あなたがほめたたえられるようになることを願いますので、この祈りを聴いてください」という心で祈らなければなりません。「神さま、1人でも救いたいのです」という心からの祈りが、主によって喜ばれる祈りです。そのように祈りたいものです。


(2012年10月28日)



[説教の見出しページに戻る]