礼拝説教 2012年10月14日

「驚きの信仰」
 聖書 ルカによる福音書7章1〜10 (旧約 列王記下1章13〜14)

1 イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。
2 ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。
3 イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。
4 長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。
5 わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」
6 そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。
7 ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。
8 わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
9 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」
10 使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。





 最初に、先週私が読んだ「荒野の泉」の中の言葉をご紹介いたします。「荒野の泉」は、カウマン夫人という方が編集したもので、昔から多くのキリスト者に用いられている聖書日課のようなものです。先週水曜日10月10日のところには、最初に詩編37編1節のみことばが引用されていました。それは、新共同訳聖書では違った言葉なのですが、口語訳聖書で「心を悩ますな」という言葉です。これについて次のように書かれていました。
 「『心を悩ますな。』わたしにとってこれは神の命令であり、『なんじ盗むなかれ』と同じものである。」
 この言葉にわたしは、ハッとさせられました。私たちは聖書の「盗んではならない」という言葉は、当然の命令として聞きます。絶対守らなければならない命令として従います。しかしでは、「心を悩ますな」という命令を同じように聞いているでしょうか。「盗んではならない」という命令は聞くが、「心を悩ますな」という命令は聞かない、というのが私たちの現実ではないでしょうか。
 しかし、「なんじ盗むなかれ」という主の命令と、「心を悩ますな」と言う主の命令は等しいものであるとの、「荒野の泉」の言葉に、あらためて教えられた次第です。聖書は何度読んでも、常に新しい発見がある。これはすばらしいことであると思います。

驚きの信仰

 本日の聖書の9節で、イエスさまが、百人隊長の伝言を聞いて感心され、このようにおっしゃっています。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」。
 この「感心し」という言葉は、「驚く」という言葉になっています。イエスさまが、その百人隊長の信仰に驚き、感心なさったのです。言わば、模範となるような信仰であるということです。しかも「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」とおっしゃる。「イスラエル」というのは、旧約聖書の民です。神から選ばれたはずの民です。まことの神さまを知っており、神の律法を賜った民です。だからどんなに神を信じているのかと思う。そのイスラエルの民の中にも見たことがないほどの信仰であるとおっしゃっているのです。
 そのようにイエスさまが驚くほどの信仰とはいったいどういうものか、私たちは興味を持たざるをえません。どんなに立派な信仰かと思います。とうてい私たちの及ぶところではない、雲の上のような立派な信仰なのではないかと思うのではないでしょうか。しかし実はそういうものではないのです。実は、私たちの身近にある。そのことを見てまいりたいと思います。

いきさつ

 ある百人隊長の部下が病気で死にかかっていて、それを助けてもらおうとして、百人隊長が使いをやって、イエスさまに頼んだということから始まっています。
 百人隊長というのは、文字通り、軍隊の中で百人の部隊を率いる隊長です。そしてこの百人隊長は、当時ユダヤ人を支配していたローマ帝国の軍隊か、あるいは、ここはガリラヤでのことですから、ガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパス王の軍隊であろうと思われます。いずれにしても、この百人隊長は、ユダヤ人ではなく、異邦人です。だから9節でイエスさまが「イスラエルの中でさえ」とおっしゃっておられるのです。
 そして、「百人隊長の部下」とありますが、この「部下」と訳されている言葉は、「奴隷」という言葉です。だから、病気で死にかかっていたのは、この百人隊長の奴隷であったかもしれません。「奴隷」というと、なにか私たち現代人にはきつい言葉に聞こえるので、7節では「しもべ」と訳しています。同じ意味です。だから、百人隊長は、自分の奴隷、しもべが、病気で死にかかっているのを、何とか助けてもらおうとしてイエスさまに使いを遣わしたのです。奴隷の救いのためにいっしょうけんめいになっているのです。使いに来たのは、ユダヤ人の長老たちでした。この百人隊長と親しかった、その町の重鎮たちでした。
 さてここで問題は、当時のユダヤ人というのは、異邦人、つまり外国人を非常に嫌っていいました。ユダヤ人は、自分たちが神から選ばれた民であると思っている。しかし異邦人は、まことの神を信じない異教徒であり、汚らわしい民であると思っていました。それがユダヤ人の長老たちならば、なおさらです。だからふだんは、異邦人とは交際しません。
 ところが、このとき、使いに来たユダヤ人の長老たちは、異邦人であるこの百人隊長のことを誉めちぎるのです。なぜなら、この百人隊長は、自分たちのために「会堂」を建ててくれたからです。会堂というのは、今でいえば教会堂のようなものだと考えれば良いでしょう。たとえてみれば、この逗子教会の会堂を、一人で献金して建てたようなものです。それで、そのユダヤ人の長老たちは、百人隊長の願いを聞いてやってくれと言ってきている。この百人隊長は、異邦人であるけれども、それだけのことをしてくれたから、願いを聞いてやっていただくのに「ふさわしい人です」と言っています。異邦人であっても、自分たちの利益になることをしてくれたら別だというわけですから、まことに現金なものです。ともかく、そのようにこのユダヤ人の長老たちは、この百人隊長の僕の病気をいやしてやっていただくにふさわしい人物だ、資格があると言っているのです。
 6節を見ると、「そこでイエスは一緒に出かけられた」とあります。注意しなければならないことは、「そこで」と書かれていますが、これは決して、ユダヤ人の長老たちが、百人隊長が会堂を建ててくれた立派な人だと言ったから、という意味ではありません。むしろこの「そこで」という言葉は、「さて」と訳したほうが良いかもしれません。すなわち、ユダヤ人の長老たちは、この百人隊長は、願いをかなえるにふさわしい人だ、資格のある人だと言ったけれども、それとはかかわりなく、イエスは一緒に出かけられた、ということです。なぜならイエスさまという方は、すがってきた人の資格を問題にされたということはないからです。

イエスと私

 そうしてイエスさまは、人々と共に、百人隊長の家に向かったのですが、ここでまた事情が変わります。それは百人隊長が友達を使いにやって、「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」(6節)と言ったのです。自分でイエスさまを呼びにやっておいて、今度は、来てもらうに及ばないという。いったいどっちなのか、と思いますが、そのへんにこの百人隊長の揺れ動く心が見えてくるように思います。すなわち、是非ともイエスさまには、自分の僕を助けていただきたい。しかし、自分は、イエスさまをお迎えするような資格の無いものである‥‥そういう揺れ動く心の動きです。
 百人隊長が、自分にはイエスさまをお迎えする資格が無いという。それはどういうことなのか。自分が、ユダヤ人ではなく異邦人であるということかも知れません。あるいは、今までに自分が神さまに顔向けできないようなことをしてきたということかも知れません。自分がひどい罪人であり、それゆえ、イエスさまにお会いできるような資格のあるものではない、そういうことでしょう。考えれば考えるほど、自分という人間はイエスさまをお迎えする資格が無いと思われたのです。
 しかし、彼は、自分の僕を助けたい。その時彼は気がついたのです。直接イエスさまに来ていただかなくても、イエスさまが、自分の僕の病気の癒しを宣言して下されば、僕はいやされるのであると。なぜなら、自分は百人隊長であるが、自分の命令を部下は絶対に聞く。それは軍隊とはそのようなものだからです。上官の命令は絶対服従です。であるならば、イエスさまが命令すれば、病気は言うことを聞くに違いない。イエスさまが命令すれば、僕の病気は治る。そう信じています。

百人隊長の信仰

 そしてイエスさまは、驚き、感心して最初に申し上げた9節の言葉をおっしゃったのです。‥‥「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」。そして百人隊長のしもべは、死に瀕していたほどの病気が癒されました。百人隊長がイエスさまを信じたとおりになったのです。
 さて、そうすると、イエスさまが驚き感心されたほどの信仰とは、どういうものであるでしょうか。
@ まず、この百人隊長は、自分自身のことではなく、自分の僕、つまり奴隷のことで心を砕いています。何とか僕を救ってやりたいと願い、奔走している。すなわち、信仰とは、愛ということと関係があることが分かります。もちろん、自分のことを願ってはならないというのではありません。しかしここでいう信仰とは、自分自身のことであったとしても、何らかの形で愛ということと関係があると言えるでしょう。
A 次に、自分は神さま、イエスさまにお会いできる資格が無いと思っている。自分の罪人であることを知っています。神さまに受け入れられる資格が無いと思っている。それが形ばかりのことでは無いことは、一度イエスさまを呼びに行って、そのあと「主よ、ご足労には及びません」と言っていることからも分かります。
B そして、自分はイエスさまに願いを聞いてもらう資格が無いけれども、しかしイエスさまが言ったことは、その通りになると信じているということです。そして実際にイエスさまは、その通りになさいました。

資格が無い者に主のわざが

 資格が無い。私たちもまた、本来は資格が無いものです。天国に入れていただく資格が無い。神の子と呼ばれる資格が無い。神さまにお祈りを聞いていただく資格が無い者です。
 よく、教会に通うようになって、洗礼を考えはじめた方が迷うのがこのことです。「イエスさまを信じたい。しかし自分のような者には資格が無い」。‥‥しかしまさに、自分には資格が無い、神の国に入れていただく資格が無いと気がつくことこそが、資格であるといえるのです。この資格が無い私のために、イエスさまが十字架にかかって、資格を与えて下さった。自分には資格が無いけれども、イエスさまが与えて下さったのです。
 洗礼を受けてからも同じです。私たちは、聖餐式にあずかるたびに、この資格の無い私のために、イエスさまが資格を与えて下さったことを思い起こすのです。私自身、牧師となってからも、様々な出来事に遭遇するたびに何度思ったことでしょうか。「自分のような者は、牧師である資格が無い」と。しかし、そのようなことのある度に、イエスさまは救ってくださいました。そして、イエスさまの御業を見させていただくことになったのです。そうして再び立ち上がらせていただきました。
 最初に引用しました「荒野の泉」の言葉。「『心を悩ますな。』わたしにとってこれは神の命令であり、『なんじ盗むなかれ』と同じものである。」‥‥「心を悩ますな」とおっしゃる主は、私たちが必要以上に心を悩まさなくても良いように、助けて下さるのです。イエスさまの言葉に力があるのです。


(2012年10月14日)



[説教の見出しページに戻る]