礼拝説教 2012年10月7日

「人生の土台」
 聖書 ルカによる福音書6章46〜49 (旧約 詩編119編65〜66)

46 「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。
47 わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。
48 それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。
49 しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」





なぜ行わないのか

 ルカによる福音書で「平地の説教」と呼ばれているイエスさまの一連の教えも、きょうのところで終わります。「平地の説教」の最後にイエスさまは、今日読んだことをおっしゃいました。イエスさまは、「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」と言っておられます。
 「主」というのは、目上の人を尊敬を込めて言う呼び方です。あるいは、しもべが主人を呼ぶ時の呼び方、すなわち「ご主人様」という意味にもなり、また家来が主君のことを呼ぶ時の言い方でもあります。ですからここでイエスさまが言っておられるのは、例えば奴隷がご主人の指示を忠実におこなうようなことになぞられておられるのです。あるいは、この次の聖書の個所にあるように、軍隊において家来が主君の言うことに従うことにたとえておられるのです。主人が命じたことをしもべが行わないということはあり得ません。それなのになぜ、イエスさまのことを主と呼びながら、その主であるイエスさまの言うことに従わないのか?
 このように聞くと、まことに耳の痛い話しです。この「平地の説教」の中で、例えばイエスさまは、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」と言われました。そう言われても、敵を愛することのできない自分がいるわけです。また、「赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される」とおっしゃいました。しかし、なかなか他人のあやまちを赦すことのできない自分がいる。そのように、たしかに私たちはイエスさまのおっしゃることを喜んで聞きますし、また感動して聞くのですが、それを実際に行うということになると、非常に難しい、あるいはできない自分がいます。それはなぜできないかというと、前回学んだとおりです。すなわち、43節にあるように「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない」「イバラからイチジクは採れないし、野バラからぶどうは集められない」‥‥私たち自身が悪い木だから、良い実を結ぶことができないのです。
 私たちはいくら頑張っても、神さまの御心にかなう良い実を結ぶことはできません。木が悪いからです。しかし、私たちは自分の力で頑張って良い実を結ぶことはできませんが、聖霊によって良い実を結ばせるようにしていただくことができます。この、神さまのために何のお役にも立てないような私が、聖霊によって良い実を結ぶように変えていただける。ここに可能性と希望があります。ですから、本日の聖書でイエスさまが、「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」とおっしゃる時、私たちは、主の言葉を行うことができるよう、聖霊なる神さまによって変えていただかなくてはできません。

主を呼んでいるか

 しかしその前に考えてみなくてはならないことは、私たちは「主よ、主よ」と呼んでいるだろうか、ということです。イエスさまは、「『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」とおっしゃっているわけですが、私たちは「主よ、主よ」と呼んでいるだろうか。
 この平地の説教で語られていたことを。「主よ、わたしが敵を愛することができるようにして下さい」「主よ、私を憐れみ深い者にして下さい」「主よ、私にひどいことをしたあの人を、赦すことができるようにして下さい」‥‥と、主を呼んでいるだろうか。そう考えてみると、実は私たちが敵を愛したり、憎む者に親切にしたり、他人のあやまちを赦すことが難しいのはその通りですが、それよりも何よりも、そのようなことができるようにして下さいと、祈ることをしていないのではないでしょうか。
 すなわち、そもそも私たちは、敵を愛したくないし、自分が憎む者に対して親切にしたくない。また、自分にひどいことをした人を赦したくない‥‥そういう思いがあるのではないかと思います。そもそも自分にひどいことをした人を赦したくない。だから、「主よ、私があの人を赦すことができるようにして下さい」とか、「主よ、私があの人を愛することができるようにして下さい」と祈らない。主の名を呼ばない。だからその結果、自分の敵を愛することができず、過ちを犯した人を赦すことができない。そういうことではないかと思います。

岩の上に土台

 続けてイエスさまは、イエスさまの御言葉を聞いて行う人が、どんな人に似ているかについて、家を建てる時のたとえを用いて話しておられます。イエスさまの言葉を聞いて行う人は、岩の上に土台を置いて家を建てた人であり、聞いても行わない人は、土台なしに家を建てた人であると言われています。
 建物を建てる時に、土台がいかに大切な物であるかということを、私は前任地の教会堂を新しく立てる時に知りました。教会堂を新しく建てるということには大きな夢があります。しかし予算が限られている。しかしなるべく立派な教会堂を建てたい。そういうジレンマの中で、苦労するわけですが、建物の土台は地面の下になるので、目に見えません。だからそのようなところにお金をかけるということは、何かムダなことをしているように見えるのです。とくに、前任地の教会堂を建てる時には、地下16メートルの地層まで、つまり岩のあるところまでコンクリートの杭を入れることになったわけですが、大きな費用が必要となります。まず地面を掘り返して、杭を何本も入れる。それで終わりではありません。大量のコンクリートを流し込んで、杭の上に建物を建てるための基礎を作るんですね。そしてこれらは全部建物の下の目に見えない部分、土台になるわけです。
 そのように、土台を作るには、費用もかかるし日数もかかる。しかも人の目に触れない部分となります。だから、もったいないように思われるのです。
 しかし、もしその土台を作らずに建物を建てたらどういうことになるでしょうか。それがイエスさまがおっしゃっているとおりのこととなります。ふだん、何も無い時はよいのです。岩の上に土台を置いて家を建てた人も、土台なしに家を建てたものも変わらない。いや、むしろ、土台なしに建てた家の方が、土台を作らない文お金が余りますから、見た目には立派な家が建つかも知れません。ところが、洪水が押し寄せた時にその違いが現れました。土台のある方は倒れることがありませんでした。しかし、土台なしに建てた家は、倒れて壊れてしまったのです。
 これは現代の日本で言えば、洪水よりも地震の方がピンとくるでしょう。地震で倒れたり、壊れたりしないために、大きな金額を使って地下深く岩に達する杭を打ち、その上にしっかりした土台を作るわけです。

選ばれて立つ

 先日、日本キリスト教団出版局から、『選ばれてここに立つ』という本が出版されました。この本の著者は、福島第一聖書バプテスト教会の牧師の佐藤彰先生です。佐藤彰先生は、日本キリスト教団の牧師ではありませんが、実は、震災で事故を起こした福島第一原子力発電所のある町の牧師です。そしてその教会は、福島第一原発に一番近い教会でした。原発からわずか5キロ。もちろん、警戒区域内にあり、現在は立ち入ることができません。昨年の震災によって起こった原発事故のために、その地での60年あまりの歴史を持つ同教会は閉鎖となり、信徒は四散しました。そして、行くあてのない残った信徒と共に、佐藤牧師は各地を転々とする流浪の旅に出ることになったのです。
 実は私は、この佐藤彰先生のことを、原発事故が起きるよりもずっと前から注目していました。ずっと前に先生の出した本も読みました。なぜ佐藤先生のことを注目していたかというと、福島県にあるこの地方の小さな教会だったのが、先生の在任中に教会が成長していって、現住陪餐会員が200名を超えるまでになっていったからです。また、佐藤先生が、聖書を一日20章読むということを聞いていました。1日1章ではなく、1日20章です。そのように、この先生が聖書の御言葉に立つ伝道牧会をされていることに感銘を受け、注目をしていたのです。
 その教会が原発事故で閉鎖に追い込まれたのです。30年間、心血を注いで伝道牧会して来た教会が閉鎖に追い込まれた。このことがどんなにつらく、悲しく、そして苦しいことであるか、想像することができるでしょうか。
 昨年3月11日の大震災の日の翌日、避難指示が出て、着の身着のままの避難となりました。まず、会津の教会で、教会員たちが合流し、続いて山形県の米沢市に移動します。そして、3月31日に、東京都の奥多摩にある奥多摩福音の家というドイツ人の宣教師の先生が経営していおられる施設が受け入れてくれることとなり、以来1年間、佐藤先生は行き場のない70名の教会員と共に、そこで礼拝を守り、共同生活をされました。
 原発事故のあと、福島ナンバーの車で移動していたら、ここに車を駐めるなと言われた人もいました。避難した家が泥棒に入られて、ショックで食事ができなくなった人もいたそうです。関東地方に避難した教会員は、そこの市役所に行ったら住民登録を拒否された上に、物乞いをしに来たかのように扱われたそうです。避難先で具合が悪くなったので病院に行ったら、診療してもらえなかったばかりか、その地域から来た人は外に立っていなさいと言われた人もいたそうです。
 とにかく、教会は閉鎖となり、30年間心血を注いで伝道してきた教会が終わってしまった。佐藤先生はまるで敗残兵のように、ボロボロに打ちのめされていたそうです。そのような中、お嬢さんがメールをよこしたそうです。「お父さん、私毎日泣いています。ほんとは飛んで行きたいけれど、おなかに赤ちゃんがいるから、私の分まであの人とこの人を励ましてきて。お父さんが牧師になってあの教会に行ったのは、この時のためだったと思うよ」と。
 そして旧約聖書のエステル記を先生は引用されています。エステルはペルシャの王妃となりました。しかしある時、ユダヤ人の虐殺計画が企てられました。ユダヤ人虐殺の陰謀を阻止するために、王様にお願いをしなくてはならない。その時、エステルは、養父から「救えるのはあなたしかいない。あなたがこの地位に就いたのはこの時のためだったのではないか」と迫られます。しかし、たとえ王妃といえども、王の許しなくして王の前に出ることは許されませんでした。その法令に背くことは死を意味していました。しかしこの緊急の時代にあたって、彼女は腹をくくるのです。そして言いました。「たとい法令に背いても私は王の所にまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます」と言いました(エステル記4:16)。そしてその結果奇跡が起き、王のゆるしが得られ、ユダヤ人虐殺計画は阻止されたのです。
 佐藤先生は、この個所を引用して、「私もまた、まさに自分が福島第一聖書バプテスト教会の牧師になったのは、この時のためだと腹をくくったのです」と述べておられます。奇しくも、佐藤先生の誕生日は3月11日。そしてこれも奇しくも、先生が牧会されていた教会も「福島第一」であり原発も「福島第一」という名称。そこに神の御計画があった。この震災と原発事故のもたらした絶望的な状況、この時のために自分は神さまから召されたのであると悟ったのです。
 そして現在は、これも主の奇跡によって、いわき市に場所を得て、そこで教会を再開しておられます。しかも新しい土地がそこに与えられて、新しい建物をいわき市に建てる計画が進んでいるそうです。そしていつの日か、元の大熊町の場所に戻れる日を希望を持って待っておられます。
 私は先生の本を読んで、本日の聖書個所である、岩の上に土台を置いて建てた家を思いました。大熊町にあった福島第一聖書バプテスト教会は、震災と原発事故によって閉鎖となり、出ていかなくてはならなくなりました。しかし確かに教会は立っている。主イエス・キリストの体なる教会の群れは、しっかりと立っているのを見ることができます。
 岩の上に土台を置いた家は、なぜ試練が来ても倒れないのでしょうか?‥‥それは、岩がしっかりしているからです。イエス・キリストという岩がしっかりしているからです。イエスさまという岩が、私たちをしっかりと捕らえていて下さるから倒れないのです。


(2012年10月7日)



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