礼拝説教 2012年9月30日

「良い実を結ぶ木」
 聖書 ルカによる福音書6章43〜45 (旧約 イザヤ書5章3〜4)

43 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。
44木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。
45善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」





木はその結ぶ実によって分かる

 本日のイエスさまのお話を聞いて、思い出すことがあります。それは、むかし弟が猫の額ほどの庭に、柿の種を植えたことです。柿の種というのは、何か植えてみたくなるような気持ちにさせるものです。それで弟は植えてみた。するとやがて芽が出て、8年たって(?)ついに小さな実が成りました。それで食べてみましたが、渋い柿でした。どの実も小さくて渋い実でした。なぜか? 木が悪いからです。聞けば、その柿はそのままでは甘い実が成らないのだそうで、接ぎ木をしなければならないのだそうです。
 「木はそれぞれ、その結ぶに実によって分かる」とイエスさまはおっしゃっています。その木が良い木であるかどうかは、その気が結ぶ実によって良し悪しが分かる、というのです。悪い実を結ぶ良い木はなく、良い実を結ぶ悪い木はない‥‥。まさにその通りです。このことはすなわち、悪い木は、どんなに頑張っても良い実を結ぶことはできないということです。木、それ自体が悪いからです。また、良い木は、頑張らなくても、おのずと良い実を結ぶということになります。
 たしかに、世の中には頑張ってどうかなることと、頑張ってもどうにもならないことがあります。例えば私は、中学生時代のマラソン大会のことを思い出すのです。私は走れば足は遅いし、持久力もありません。しかしある時、毎年冬に行われるマラソン大会で、少なくとも同じ学年の男子の中で、半分よりも前の順位になろうとして頑張ったことがありました。家で練習のランニングをしたりして、万全の体制で臨みました。しかし結果は、前の年よりも少しだけ順位は上がったものの、ビリから数えたほうがはるかに早いという順位でした。確かに私よりも遅い生徒がいました。でもその生徒たちは、まじめに走らない生徒たちでした。友達と無駄話をして笑いながら歩いているような生徒たちでした。つまりまじめに走っている生徒たちの中では、もっとも遅い方であったということになります。
 そこで私は、なんとなく悟りました。頑張れば誰でもできるようになる、というのはウソであると。私の弟などは、大して頑張らなくても、マラソン大会で1等か2等をいつも取るのです。そこで悟ったのです。自分はそのようなことには向いていないのだ、と。まあそのように走るのが遅いというようなことでしたら、勉強とか、趣味とか、他の面で力を発揮できれば良いわけです。
 しかし今日の聖書でイエスさまがおっしゃっておられる「良い実」「悪い実」というのは、そのようなことではなく、神さまから見て「良い実」であり「悪い実」であるということです。「良い実」というのは神さまの御心にかなう行いや言葉ということであり、「悪い実」というのは神さまから見て悪い言動であるということです。ですから、これは深刻な話しとなります。マタイによる福音書の21章に、イエスさまが実の成っていないいちじくの木を呪って枯らしてしまわれた、という出来事が書かれていますが、そのようなことになってしまうかも知れないからです。

頑張って良い実を結ぶことができるか?

 さて、先ほど私は、中学のマラソン大会の時に、世の中にはいくら頑張ってもどうにもならないことがあることを悟ったと言いましたが、神さまの御心をおこなうということについではどうでしょうか? 私たちは頑張ったら、神さまの御心にかなう、良いことを行うことができるのか、良い実を結ぶことができるのか、ということです。
 これについて、「できる」と考えた人々がいました。それが福音書に出てくる「ファリサイ派」という人々です。彼らにとって、神の御心をおこなうということは、旧約聖書に記されているモーセの律法を行うということでした。もちろんその考え方は間違っていませんでした。そして彼らは、自分たちはモーセの律法をちゃんと守っている、神の御心をおこなっている、と考えていました。だから彼らは、自分たちは良い実を結んでいる、と思っていたことでしょう。
 ところがイエスさまが来られた時、イエスさまがもっとも厳しく批判なさったのが、そのファリサイ派の人々でした。イエスさまは彼らのことを「偽善者」と呼びました。そしてそれがその通りであったことは、彼らがイエスさまを十字架にかけた人々の一員となったことで分かります。自分たちは良い実を結んでいると思っていた当の本人たちが、神の御子イエスさまを十字架に追いやったのです。
 あるいは、お子さんをお持ちの方は、学校やいろいろなところで行われる教育講演会に行ったことがおありであるかと思います。するとそこに登場する講師の先生方は、まことに良いお話しをなさいます。たとえば「子どもは叱らないで育てると良いのだ」というようなお話しをなさる。それで聴いている方は、目から鱗が落ちるような思いになって、感動し、「よし、今日からそのようにして子どもを育てましょう」と決心します。そうして、何日かはそのように努力して、叱らないように、と思って過ごすのですが、一週間もたつと、ついに堪忍袋の緒が切れて、子どもに以前よりもひどい雷を落とす、ということになります。もちろん、今のは、たとえばの話しであり、私は子どもを叱らないで育てることが良いことだとは思っていないことを付け加えておきます。
 そのように、私たちは、自分がよいと思ったことでも実行するのはなかなか難しい。ましてや、神さまが良いと思われることを行うことは、たいへん難しいのです。先ほどのファリサイ派の話しで言えば、彼らはモーセの律法を自分たちは行うことができている、と思っていました。しかしイエスさまは、その彼らをもっとも厳しく批判なさいました。それはなぜかというと、彼らがモーセの律法の意味を取り違えていたからです。イエスさまによれば、律法は「愛」という言葉でまとめられるものです。神さまへの愛、そして隣人への愛です。ところがファリサイ派の人々は、それが見えなくなっていたのです。
 言い換えれば、私たちは神さまの願われる「愛」という良い実を結ぶことが難しいのです。

木の良し悪しが実の良し悪し

 いや、難しいどころの騒ぎではありません。イエスさまは、「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない」とおっしゃっているのです。
 すなわちこれは、「まあ、自分は確かに悪い実を多く結ぶけれども、たまには良い実を結ぶよ」‥‥ということはあり得ない、と言っておられるのと同じことだからです。悪い木は悪い実を結ぶのであり、悪い木が良い実を結ぶことはないのです。自分が良い木であるならば、それは必ず良い実を結ぶはずです。
 そのことは、44節を読むともっとはっきりします。‥‥「茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。」
 茨は、どんなに頑張っても、イチジクの実を付けることはできません。あり得ません。野バラは、どんなに頑張ってもぶどうの実を結ぶことはできません。たまには野バラも、ぶどうの実を付ける、などということは聞いたことがありません。あり得ないのです。それと同じぐらい、私たちは罪人であり、悪い木であり、良い実を結ぶことができない。いくら頑張っても良い実を付けることはできない、ということです。
 しかしこのことは、使徒パウロも言っていることです。(ローマ7:15〜20)「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」  私たちの中に住んでいる罪。これが、悪い木の正体です。
 45節で、「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」とおっしゃっています。口から出る悪い言葉は、その心の中に罪があるからでてくるのであるということです。

どうすればいいのか?

 そうなると、どうしようもありません。私たち自身の中に罪というものがあり、それゆえ私たちが悪い木であるとしたら、私たちがどう頑張っても、良い実を結ぶことができない。ならば、何をしてもムダであり、どうすることもできません。いったいどうしたら、良い実を結ぶようになれるのでしょうか?
 そこで思い出すことがあります。それは私が神学生の時のことです。当時通っていた三鷹教会の青年会で、ある時、ある女子学生が言ったことです。それは、「罪人である自分を、イエスさまが丸ごと引き受けて、十字架で罪を赦して救ってくださったことは分かる。でも、救われても、相変わらず何も変わらない自分がある‥‥」というような言葉でした。イエスさまの十字架によって、自分の罪が赦されたことは分かる。しかし依然として、罪人のままの、何も変わらない自分がある。‥‥この事実にどう答えたら良いのか。
 たしかに、自分では自分を変えられない。自分の力では、悪い木である自分を変えることはできません。しかし次のような聖書の言葉があります。‥‥(2コリント3:18)「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」
 聖霊によって私を造りかえていただくということです。私たちは自分という人間を自分で変えることはできません。良い実を結ぶことができないのです。しかし、神さまは全能です。その聖霊なる神さまによって、私たちを造りかえていただくのです。主イエスと同じ姿に、です。そこにのみ希望があるのです。良い実を結ぶ、良い木としていただくのです。

信仰の在り方

 このことは、私たちが聖書をどのように読むかということに関係してきます。あるいは、イエスさまをどのように信じるか、ということに関係してきます。もし私たちが、聖書の御言葉というものを、私たちの人生の有益な参考書であると考えるならば、それは私たちを変えることに役に立たないでしょう。先ほどの教育講演会の例の通りです。また、信仰というものを、私たちの生きて行く上での肥やしであると考えるならば、それもまた役に立たないでしょう。なぜなら、茨にいくら肥料をやっても、イチジクの実は結ばないし、野バラにいくらたくさんの肥料をやっても、決してぶどうの実は成らないからです。
 私たちが良い実を結ぶには、それは主ご自身の力によるほかはありません。主の奇跡による他はないのです。聖霊によって私たち自身を変えていただく、ということです。良い実を結ばせていただく、ということです。
 ヨハネによる福音書の15章で、イエスさまは次のようにおっしゃっています。‥‥「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:4-5)
 イエスさまというぶどうの木につながった時、悪い実しか結ぶことのできない悪い木である私たちを、聖霊なる神さまが造りかえてくださる。良い実を結ぶようにして下さる。それゆえ私たちは、「主よ、どうぞ私をあなたの御心にかなう人に変えてください」と祈るのです。


(2012年9月30日)



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