礼拝説教 2012年9月23日

「目の中の丸太」
 聖書 ルカによる福音書6章39〜42 (旧約 箴言3章34)

39 イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。
40 弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。
41あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
42自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」





盲人が盲人を道案内

 「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか」と主イエスは言われました。
 私の神学校の先輩に、目がほとんど見えない視覚障害者の牧師がいます。以前、私が教団の或る委員会を担当していた時に、ご一緒させていただきました。彼は北海道の牧師をしているのですが、委員会がある時は毎回ひとりで会議の会場まで来るのです。ご自宅からは、歩いてから電車に乗り、空港に行って飛行機に乗り、到着した空港からまた交通機関を使って来られるわけです。
 私は、目が見えないのになぜ1人で来ることができるのだろうかと思って、彼に聞きましたところ、彼はこう言いました。「実は、どこに行けばよいのか分からなくておろおろしていると、必ず『どうしましたか?』と声をかけてくれる親切な人がいるのです」とおっしゃるのです。そしてその人が、行けるところまで連れて行ってくれるというのです。私はそれを聞いて、世の中捨てたものではないなと思いました。
 目の見えない方の道案内をするのは、目の見える人がしなければなりません。目の見えない方が目の見えない人の道案内をすることは、イエスさまがおっしゃるとおり、極めて危険なことです。
 さて、問題は、イエスさまがここでおっしゃっているこの盲人のたとえは、何のことを言っておられるのか、ということです。ここで言われている「盲人」とは誰のことを指しているのでしょうか?
 ヨハネによる福音書9章に、イエスさまが、生まれつき目の見えない人の目を開けられた奇跡の出来事が書かれています。そして、その奇跡が行われたのが安息日だったので、このことをめぐって、ファリサイ派の人々が彼を取り調べました。そしてイエスさまは、「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」と言われました(ヨハネ9:39)。するとそれを聞いたファリサイ派の人が、イエスさまに対して、「我々も見えないということか」と言いました。それに対してイエスさまはこのようにおっしゃいました。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」(ヨハネ9:41)
 そこでイエスさまは、ファリサイ派の人々が、本当は見えていないのにもかかわらず、「見える」といっているところに罪がある、とおっしゃっています。すなわち、そこで問題とされていることは、肉眼の目が見えるとか見えないとかいうことではありません。本当に見えるべきものが見えているのか、いないのか、ということです。
 これは他人事でしょうか? 私たちは本当に見えるべきものが見えているのでしょうか?ヨハネによる福音書9章では、イエスさまが奇跡によってその盲人の人の目を開けられ、そして「見えない者は見えるようになり」とおっしゃいました。彼は見えるようになりました。それは肉眼の目が見えるようになった、ということだけではなく、イエスさまという方が見えるようになったということです。イエスさまが救い主であることが見えるようになったということです。

目の中の丸太

 41節で「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」とイエスさまはおっしゃいました。これは、人を裁くということについておっしゃっているのです。
 私たちは、人を裁くのが好きです。「あの人はダメだ」「なっていない」といって断罪します。そして悪口を言うのが好きです。また、他人の欠点が気になります。ここで言われている「兄弟の目にあるおが屑」が気になるのです。我慢ならなくなります。それでその人の目にあるおが屑をとらせてくれ、ということになる。「お前は間違っている」と非難することになる。
 しかしイエスさまはおっしゃる。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」。相手の目には「おが屑」であり、自分の目には「丸太」が入っていると言う。「おが屑」というのは、もちろん木を削った時にできる屑です。チリのようなものです。非常に小さい。しかし、丸太が自分の目に入っているというのは、いくらなんでも大きすぎるような印象を受けます。おが屑なら目の中に入りますが、丸太が目の中に入るはずがありません。
 これはいったい何をイエスさまはおっしゃっているのでしょうか。「それぐらいに思えばちょうどよい」という話しでしょうか。人は、自分の欠点には気がつきにくいですが、他人の欠点はよく見えるものです。人間、自分には甘く、他人には厳しくなりやすいものです。例えば政治の世界でも、野党の時は政府の失敗を雄弁に攻撃します。しかしいざ自分が与党になると、たいしたことはできない。逆に失敗を攻撃される立場になる。かつて自分が攻撃した言葉が、自分にはね返ってくるというのが、どこの国でも政治の世界です。そのように、人間というものは、他人の過ちを責め立てることには得意になって雄弁に責め立てることができるものですが、自分の過ちはなかなか見えないものです。
 だから、相手の目には「おが屑」が入っていて、自分の目には「丸太」が入っていると考えるぐらいがちょうどよい、ということをイエスさまはおっしゃっているのでしょうか?
 あるいは、人間、お互い欠点のあるもの同士だから、注意するのはやめておきましょう、という話しなのでしょうか?
 いずれも違います。なぜなら、今日の聖書の個所の最後で、イエスさまは、「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる」と、おっしゃっているからです。すなわち、イエスさまは「放っておけ」とおっしゃっているのではなく、兄弟の目のおが屑を取り除くことができるということをおっしゃっているのです。
 では、どうすれば、相手の目の中にある「おが屑」を取り除くことができるのか、という話しであると言えます。

丸太とは何か

 では、自分の目の中にある「丸太」とはなんでしょうか? 相手の目の中にも「おが屑」、ならば自分の目の中にも同じように「おが屑」というのなら分かります。人間、同じように罪人だからです。しかしここでは、相手の目の中には「おが屑」という小さな過ち、自分の目の中には「丸太」という大きな過ちがあるという。それはいったいなぜか?
 そうすると、ここでは、自分の目の中に丸太があることに気がつかないこと自体が、自分の目の中に丸太があるということだ、ということになるでしょう。あるいは、自分にも罪があり過ちがあるにもかかわらず、それをそのままにしておいて、相手の過ちを指摘することが、自分の目の中には丸太があるということだと言えるでしょう。
 すなわち、ここで言う「丸太」というのは、高ぶりのことであり、高慢なことであると言えるでしょう。自分は正しく、相手よりも上に立って物事を見ている。それが、自分の目の中には丸太という大きな過ちがあるということです。そういうことでは、決して相手の過ちを取り除くことができない、相手の目の中にある「おが屑」を取り除くことはできないということです。
 例えば、私は教団の教師委員長という奉仕をしています。教師委員会というのは、過ちを犯した教師を戒規に附すというイヤな役回りです。ある時、教師院長宛に、「抗議文」が来たことがあります。教師委員会は間違っているので抗議する、という文章です。しかも口を極めてこちらを非難していました。「不当な策動である」という言葉まで使っていました。しかし内容には事実誤認があり、かなり一方的な主張でした。
 このような「抗議文」を送りつけられた人が、「ああ自分は間違っていた」と思って悔い改めるでしょうか?‥‥そんなはずがありません。かえって反発するでしょう。私も腹が立ちました。「事実をよく知りもしないで、よくこんなことが書けたものだ」と思いました。そういう反発を招くだけです。しかし私自身、人を一方的に裁くことがあるので、これは自戒を込めて申し上げているのです。
 人を一方的に断罪する。裁く。自分は高い所にいて、相手を見下して裁く。これが高慢であり、「自分の目にある丸太に気がつかない」ということです。それでは、相手の目にある「おが屑」を取り除くことはできないのです。

イエスさまはどうされたか

 では、イエスさまはどうされたのか。どうやって、私たちの過ちを、「おが屑」を取り除こうとされたでしょうか?
 それは、神の御子であられたイエスさまが、この世に低く下って来られたのです。私たちを救うために、私たちを罪から救うために。そしてついに十字架にかかって、ご自分の命を投げ出して下さいました。そして私たちの代わりに陰府(よみ)に降って下さいました。
 40節に「弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる」とおっしゃっています。この「修行」と日本語に訳された言葉は、ちょっと誤解を与えると思います。正しくは、「直す」とか「あるべき本来の姿にする」と訳したほうが良いように思います。
 ようするに、師であるイエスさまが、ゆくゆくは、私たち人間が神さまによって作られた本来あるべき姿になるように導いていって下さる、ということです。それは師であるイエスさまと同じような姿にしていって下さる、ということです。そこまでイエスさまは救ってくださる。私たちに仕えてくださる。そのようにしてイエスさまは、私たちの目の中にある「おが屑」「丸太」を取り除いてくださるというのです。

十字架を見上げて

 ちいろば先生こと、故榎本保郎先生の講演のテープの中に、次のような証しが語られています。‥‥あるご婦人が榎本先生のところに相談に来ました。「もう死にたい」と言うのだそうです。そのご婦人の家では、ガスコンロにマッチで火をつけた後、マッチの燃えかすを空き缶の中に入れることになっていたそうです。今ではガスコンロは自動で点火しますが、これは今から何十年も昔の話しです。昔は確かにガスはマッチで火をつけたものです。
 ところが、その相談に来た御婦人と同居している息子のお嫁さんは、コンロにマッチで火をつけた後、そのコンロの上に燃えかすを放って置くのだそうです。何回かやさしく注意したのだが、そのときはお嫁さんも「あ、すいません」と言って空き缶に捨てるように直るのだが、またしばらくするとコンロの上に放っておくという。それで「死にたい」と言って相談にきたそうです。マッチ1本で死にたい。しかし笑い事ではありません。他人から見たら小さなことでも、その人にとっては大きなことというのは、よくあることです。
 それで榎本先生は、その御婦人に「そのマッチの燃えかすを、イエスさまの十字架だと思ってあなたが拾って缶に入れなさい」とアドバイスしたそうです。それでそのご婦人は、それから、お嫁さんがコンロの上に捨てたマッチの燃えかすを、「これはイエスさまの十字架だ」「これはイエスさまの十字架だ」と思いながら黙々と空き缶に捨てたそうです。
 そんなある日、お嫁さんが、自分がコンロの上に捨てたマッチをお姑さんが空き缶の中に黙々と入れているのを見て、恥ずかしくなり、それ以来嫁さんも空き缶に捨てるようになったそうです。
 イエスさまの十字架が、この罪深い私を救うためにかかってくださった、ということを思う時、自分の目の中の丸太を取り除いていただくことができる。感謝です。


(2012年9月23日)



[説教の見出しページに戻る]