礼拝説教 2012年9月16日

「信仰のはかり」
 聖書 ルカによる福音書6章38 (旧約 ヨブ記42章10〜12)

38 「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」





ヨブへの祝福

 はじめに、旧約聖書のヨブ記の最後の方の個所を読んでいただきました。私はこの個所がとても好きです。とくに12節の言葉です。ここは口語訳聖書では、このようになっています。「主はヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。」こちらのほうが原文に近いです。「主はヨブの終わりを初めよりも多く恵まれた」‥‥なんとすばらしいことでしょうか。
 ヨブは神さまに祝福された人でした。しかしある日、サタンによって、突然試練がもたらされます。そしてヨブはすべての財産を失ってしまいます。さらに、ヨブの子どもたちが、大風によって家の下敷きになって死んでしまいました。それでも試練は終わらず、ヨブは健康さえも失ってしまいました。全身にでき物ができ、痒くて素焼きのかけらで体中をかきむしりました。そして妻から、「神を呪って、死んだほうがマシだ」と言われました。そんなにひどい試練、不幸が臨みました。
 そのように言語に絶するひどい試練によって苦しみましたが、その果てにヨブは神にお会いしたのです。そして先ほど読んだ聖書の個所に至りました。「主はヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。」 !
 実にすばらしいことです。私たちは年をとると、「ああ、若い頃は良かった」と言います。「若い頃は何でもできた。夢もあった。しかし今は体も衰えたし、先は見えたし、いまさらどうにもならない‥‥」などと思います。しかし聖書にこう書かれています。「主はヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。」
 私はこの言葉に大いに励まされます。年をとるということが怖くなくなります。それどころか、初めよりも終わりの時を祝福して下さる神の恵みを見たい、と思います。ヨブの場合は、財産が元に戻され、新しく子どもも与えられるという物質的な祝福でしたが、これは神さまの与えて下さる恵みを象徴的に語っています。私たちがイエス・キリストによって与えられる恵みは、もしかしたら物質的な恵みではないかもしれません。しかし、イエスさまを信じた時に、若い頃よりも多く祝福して下さることを信じて良いのだと、大いに励まされるのです。

与えたら減る、というのが算数だが

 さて、今日のルカによる福音書で、イエスさまは、「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる」とおっしゃっています。自分の持っている物を人に与える。そうすると、私たちも与えられるというのです。ただ与えられるだけではありません。あふれるほどに与えられるというのです。
 私たちは普通、与えたら減る、と思います。だから与えたくないのです。例えば、リンゴを5個持っていたとします。そしてそれを誰かに3個与えたとします。すると残りは?‥‥2個です。減るわけです。だから損した気分になります。
 しかし今日のイエスさまのお話だと、5個あったリンゴから3個あげて2個になっても、5個、10個、20個と与えられるということになります。いったいそんなことがあるのでしょうか?

この世の教訓か?

 たしかに、人に何かをあげたら、たくさんになって返ってくるということが、この世の中にないわけではありません。例えば、東京に行きますと、駅の出口から出ると、よく携帯用のティッシュペーパーを配っています。私は鼻炎があるので、ティッシュを配っているとだいたいもらうんですね。あれはタダで配っています。タダで与えてくれるわけです。ただで配っていたら、配っている会社は損をしてしまうかのように思います。でも、実際は損をしない。なぜなら、そのティッシュには、宣伝の紙が入っていて、それを見た人が、その会社の物を買ってくれたり、利用してくれたりするからです。これなどは、ティッシュという物を与えたけれども、たくさんの利益となって戻ってくる、ということになるでしょう。
 あるいは、私たちが誰かに物をあげるとします。しかしその時に、相手からたくさんの見返りがあることを期待して物をあげるとします。そして実際に、たくさんのお返しがその相手から来る。
 イエスさまがここで言っておられることは、はたしてそういうことでしょうか? 誰かに与えれば、それがたくさんのものになって返ってくる。‥‥そういうことをおっしゃっておられるのでしょうか? もしそうだとしたら、それは「投資」ということでしかありません。
 そしてその場合は、何もお返しをすることができない人には、何も与えないでしょう。例えば、マザー・テレサは、「死を待つ人々の家」を作りました。これは、貧しくて病気になり病院に行くこともできず、だれも助けてくれず、路上で今にも死にそうになっている人びとの最期を看取るための施設です。マザー・テレサたちは、そのような人びとをこの家に運んできて、心を込めて寄り添いました。その貧しい人たちに、「あなたは愛されている」ということを知らせたいということでした。そういうことのために、マザー・テレサはいっしょうけんめい働きました。
 この場合はどうでしょう。その死ぬばかりになっている貧しい人々にいくら与えても、彼らはお返しをすることができません。何の見返りも期待できないのです。その人々は、マザー・テレサたちに、何も与えることができないまま亡くなっていったのです。
 イエスさまは、「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる」とおっしゃいましたが、この場合はどうなるのでしょうか?

何を与えるのか?

 ここで考えてみなくてはならないことは、イエスさまは、いったい何を与えるようにおっしゃったのか、ということです。ここで「与えなさい」いうのは、物やお金を与えることをおっしゃっているのでしょうか?
 例えば、子どもがオモチャやお菓子がほしいと言ったら、親は何でも買って与えるでしょうか?‥‥そんなことはないでしょう。子どもと一緒にスーパーに買い物に行って、子どもが「あれもほしい。これもほしい」と言っても、親は何でも買ってやるわけではありません。そうすると、もしここでイエスさまが「与えなさい」ということが、物を与えることであるとしたら、何でも買ってやらなくてはならなくなります。しかし親は、子どもがほしいと言った物を何でも買ってやるのではない。
 なぜでしょうか?‥‥それは、子どもを愛しているからです。ほしいと言った物を何でも買ってやったら、子どもがダメになってしまうことを知っているからです。そのように考えると、ここでイエスさまがおっしゃっている「与えなさい」というのは、何を与えるのかというと、それはものを与えるというのではなく、「愛」を与えるのだということが分かってきます。
 しかし、そうするとイエスさまがおっしゃった「そうすれば、あなたがたにも与えられる」という言葉はどうなるのでしょうか?‥‥自分にも与えられる、ということを期待して人に愛を与えるのであるとすると、それは既に愛とは言えないのではないでしょうか? なぜなら、愛というものは、そもそも報酬を期待しないもののはずだからです。
 ここで実は、私たちは、私たちはすでに愛されているということに気がつかなくてはなりません。すなわち、すでに多くのものを与えられているということに。

神の愛

 それは神の愛です。私たちは、人から与えられないかもしれない。しかし、神さまから多くのものを与えられているということです。例えば、新約聖書に次のように書かれています。(Tヨハネ 4:10)「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
 まず神さまが、私たちに、神さまのひとり子イエスさまを下さった。ここに愛があると聖書には書かれているのです。
 最近、キリスト新聞社から出版された、大和カルバリーチャペルの大川従道牧師が書いた『齧られた果実(りんご)』という本を読みました。その中に、次のような出来事が紹介されていました。それは、今から67年前の3月10日、第二次世界大戦が終結する前に起きた東京大空襲の日のことです。
 ‥‥アメリカから来た飛行機(B29)が300機以上も東京の上空を飛び交い、一万八千トンもの爆弾を投下しました。東京は火の海と化し、10万人の焼死者が出ました。人々はそれをまたいで逃げ惑う惨状だったのです。家を失った人々は、少し落ち着いてからバラックを建て始めました。雨露をしのぐトタン屋根の家でした。そんなとき、一人のクリスチャンが、一軒のバラック小屋の前を通りかかると、中から讃美歌が聞こえてきました。「あ、讃美歌だ!」と嬉しくなり、そっと中を覗いて見ると、若い母親が赤ん坊を抱きながら、「神は愛なり、ああ神は愛なり」と歌っていました。驚いたことに、赤ん坊は死んでいたのです。思わずドアを開けて「私はクリスチャンです。あなたの赤ん坊は死んでいるんじやないですか、そんな悲しみの中で讃美歌を歌っていたのですか?」と声をかけました。すると、その若いお母さんは答えました。「私は今まで神様の愛を知らなかったわけではありません。けれども、自分の子ども失ってみて初めて、こんなにも辛いことだということが分かりました。そして、神様の愛が分かりました。神様は私を愛するゆえに、大切なご自分のひとり子のイエス様を失なわれたのです。それで、私はいま悔い改めて神様に感謝しながら賛美しているところです」(大川従道著、キリスト新聞社、2012年、p.63-64)

 私たちにどんなに大きな神の愛が与えられているか。神のひとり子を私のために下さるほどの、大きな愛が与えられている。その恵みを、押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくしてふところに入れてもらえる‥‥。それは、私たちが隣人を愛そうとするほどに、神さまの恵みがよく見えてくるということでもあります。
 そしてイエスさまによって、神の国において大きな祝福が与えられることを指し示しています。それはただイエスさまの十字架の大きな恵みにあずかるということです。


(2012年9月16日)



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