礼拝説教 2012年9月9日

「ゆるしの恵み」
 聖書 ルカによる福音書6章37 (旧約 イザヤ書55章6〜7)

37 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。





人生訓か

 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。」このイエスさまの言葉は、「あなたが他人を裁かなければ、あなたも人から裁かれることがない」という意味でしょうか。「因果応報」ということわざがあります。自分が誰かに対してした悪いことは、いつか自分にはね返ってくる‥‥。それと同じように、「人を裁けば、やがてそれは自分に返ってきて、あなたが裁かれることになるよ」という意味で、イエスさまはおっしゃったのでしょうか? もしそのような意味であるとしたら、この言葉は、いわゆる人生訓とかことわざであるということになります。
 しかし実はそのようなことではありません。「そうすれば、あなたがたも裁かれることがない」というのは、誰か他の人から裁かれることがない、という意味ではありません。これは、人間から裁かれることがない、とおっしゃっているのではなく、神さまから裁かれることがないということをおっしゃっているのです。すなわち、「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも神から裁かれることがない」と言われているのです。

裁くとは

 念のために言っておきますが、ここで「裁くな」ということは、裁判官という職業になってはならない、ということではありません。裁判官という職業がなくなってしまったら、この世の中は無法地帯となってしまいます。次の「人を罪人だと決めるな」ということもそうです。裁判官という人がおらず、また罪を犯しても罰せられないとしたら、この世の中は犯罪だらけになってしまうでしょう。そうすると、結局、力のある者だけがやりたい放題をするという弱肉強食の世界になってしまうでしょう。ですから、ここでイエスさまがおっしゃっている「人を裁くな」とか、「人を罪人だと決めるな」ということが、なにか裁判官という職業になるなとか、法律は必要ないということをおっしゃっているのではありません。
 またこれは、人を批判してはいけないということでもありません。例えば、ガラテヤの信徒への手紙の2章を見ると、ある時パウロがケファ(ペトロ)に非難すべきことがあったので、面と向かって反対したということが書かれています。ですから、これらの言葉は、人に対して反対してはならないということでもありません。
 ではここでイエスさまがおっしゃっている「人を裁くな」とは何を指しているのでしょうか?
 この「裁く」という言葉は、ギリシャ語には「優っているとする」という意味があります。つまり、自分のほうが誰かよりも優れているとするのです。分かりやすく言えば、「私の方が、あの人よりも優れている」、あるいは「俺はあいつよりはマシだ」ということです。そのように決めつける。それがここでイエスさまがおっしゃっている、「裁く」という意味であると言えます。

主が代わりに裁きを受けられた

 そしてそのように人を裁かなければ、私たちも裁かれることがないとおっしゃっています。それは逆に言えば、私たちが人を裁くならば、私たちも神さまから裁かれることになる、ということになります。
 私たちが神さまから裁かれたとしたら、どうなるでしょうか?‥‥それは罰を受けることになりますし、最後には「死」という罰を受けることになります。(ローマ6:23)「罪が支払う報酬は死です。」と書かれているとおりです。私たちはみな神さまに対して罪を犯しています。だから「死」という罰を受けるのです。
 しかしイエス・キリストが来て下さって、私たちが受けるはずの罰を代わりに受けてくださった。それが十字架です。つまり私たちが受けるはずの裁きを、イエスさまが代わりに受けてくださった。それで私たちは裁きを受けることなく、赦されたのです。イエスさまがご自分の命を十字架で投げ出して、私たちの代わりに罰を受け、それで私たちは裁きを免れた。‥‥なのに、その赦され、裁きを免れたはずの私たちが、他人を裁く。それは、キリストの十字架を無にすることになるということです。
 しかしまあ、なんと私たちは人を裁くのが好きなことでしょうか。人の悪口を言うのが好きではないですか。私が大学を卒業してサラリーマンになりますと、新入社員の私たちを上司や先輩社員が飲みに連れて行ってくれました。そしておごってくれる。しかしそこで聞かされる話しというのは、おもに上司の悪口でした。上司はそのまた上司の悪口を言い、先輩社員は同僚や上司の悪口を言う。それを聞くことになります。まあ、おごってもらうのだから仕方がありませんが、おごってもらうのは悪口を聞いてあげる報酬だと思えるぐらいです。
 しかしこれはキリスト者ではない人たちなんですから、仕方がありません。しかし、キリストを信じる者が、同じように人の悪口を言う。言い換えれば、それは人を裁くことになります。自分が裁判官の立場になり、人の上に立つ。自分の方がマシであるという思いになっている。それは、この滅びゆく罪人であるわたしを救うために十字架にかかって下さったキリスト・イエスさまの救いを無にすることになる。イエスさまはいと高き神の子でありましたが、自分を低くして、この世の馬小屋にお生まれになりました。そして私たちを救うために十字架にお掛かりになった。そのイエスさまの十字架が無かったことになってしまったら、私たちは神の裁きを受けるしかなくなるわけです。

赦しなさい

 そしてきょう読んだ聖書はたった一節ですが、その最後の「赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される」という言葉に行きます。私たちが人を赦せば、私たちも赦される。‥‥しかしこれを聞いて、クリスチャンである方々は、「ちょっと待って下さいよ。私たちは、イエス・キリストの十字架を信じて赦されるのであって、私たちが人を赦したから赦されるのではないよね?」と、思われることでしょう。それは確かにその通りです。私たちが罪を赦されるのは、ただイエスさまが私たちのために十字架にかかって下さった、それを信じて赦されるのです。
 ではここでイエスさまがおっしゃっているのは何かと言えば、さきほどの「裁くな」と同じで、もし私たちが人を赦さないならば、それはせっかくのありがたいイエスさまの十字架の救いを、無にしてしまうことであるということです。私たちが人を赦さないならば、イエスさまの十字架が無駄になってしまう。だから、「赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される」とおっしゃっている。そう考えることができます。
 しかし実は、赦すということはたいへん難しいことです。とくに私たちに重大な過ちを犯した人、私たちにイヤなことをする人、憎らしい人、腹の立つ人‥‥そういう人を赦すのはとても難しいことです。
 オランダにコーリー・テン・ブームという女性伝道者がおりました。第2次世界大戦の時、ブーム女史の家族は、ユダヤ人をかくまったという理由で、ドイツの強制収容所に入れられてしまいました。そこで彼女の両親と姉妹は、残忍な拷問に絶えきれずにみな死んでしまったそうです。しかし奇跡的に助かったブーム女史は、戦争が終わってオランダに帰り、残りの人生を主にささげて、キリストの伝道者となったのです。
 そのうちブーム先生は、ドイツに行ってキリストの福音を述べ伝えるように神さまによって導かれました。彼女は、自分たち家族をひどい目にあわせたドイツにだけは行きたくなかったそうですが、神さまの命令に逆らうことはできないので、仕方なく出かけたそうです。そしてブーム先生は、敗戦後のドイツの人々にキリストのゆるしの福音を説教したのでした。
 敗戦後の混乱の中で病んでいたドイツ人たちは、ブーム先生の話を聞いてとても喜び、神さまに感謝をしたそうです。ブーム先生がメッセージを終えて、講壇から降りると、人々は列をなしてやって来て握手をし、あいさつを交わしたそうです。しばらくの間握手をしていたブーム先生は、彼女の前に手を差し出して立っているひとりの男性を見て、その場に立ちすくんでしまったそうです。そして心臓が止まりそうになりました。なぜなら、その男こそ、あの強制収容所で、ブーム女史を裸にして拷問した、まさにその兵士だったからです。
 彼はそのことに全く気がついていませんでした。そして他の人々と同じように手を差し出していたのでしたが、ブーム先生は当時のことを悪夢のように思い出し、とうてい手を差し伸べて握手をすることができなかったのです。その男が手を差し出しているのは短い時間でしたが、ブーム先生にはそれが何十年ものように思われたのでした。彼女は、説教をするときには、大胆にキリストのゆるしを伝えましたが、彼女の家庭と青春を踏みにじったこの男を、どうしても赦すことができませんでした。そこでブーム先生は、次のように神さまに祈ったそうです。「イエスさま、私はどうしてもこの兵士をゆるすことができないのです。どうか私を助けてください」  その時、主の言葉が与えられたそうです。「私が、私を殺そうとしていた人たちを赦してあげたことを、あなたは知っているでしょう。早く手を差し出して、握手をしなさい。」
 主の言葉を聞いた彼女は、鉄の魂のように重い手を差し伸べ、その人と握手をしたのです。まさにその瞬間、天からキリストの愛が注がれて、その愛が全身を覆い、彼女は涙を流しながら、本当にその兵士を赦してあげることができました。そして彼女の体は、10年以上も若返ったように感じられたのでした。キリストの祝福が来たのでした。(チョー・ヨンギ氏の書籍より)

赦しの恵み

 なによりもまず私たちは、十字架のイエス・キリストによって赦されています。主イエスは、十字架につけられたとき、父なる神様にこう祈りました。「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34) イエスさまが、この罪人のわたしを赦してくださった。私の代わりに十字架で死んでくださった。ここに神の愛があらわれています。私たちを赦してくださったこの十字架のキリストに感謝して、私たちも赦すのです。
 『ゆるすということ』(ジェラルド・ジャンポルスキー著)という本があります。この著者は医者であり、そしてクリスチャンのようです。この本の中にこう書かれていました。‥‥「私は四十年以上も医師をしています。そのあいだ、腰痛、潰瘍(かいよう)、高血圧、ガンなどの患者さんが、ゆるしを学ぶことによって症状が軽減されるのを見てきました。‥‥ゆるさないでいると、測定可能な影響が身体に及ぶことが、明らかになりました。つまり怒りや怖れや苦しみにしがみついていると、健康を害するというのです。怒りや怖れは緊張をつくり出し、健康を保つために必要な身体組織にマイナスの影響を与えます。血液循環が影響を受け、免疫力が下がります。心臓や脳をはじめ、ほとんどの器宮に、ストレスが生じます。ゆるしは事実上、健康のバロメーターなのです。」‥‥つまり、人を赦さないでいると、実に肉体的にもいろいろと悪い影響が出て来てしまうということです。
 「赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される」‥‥先ほど述べましたように、逆に言えば、「私たちが他人を赦さなければ、私たちも神さまから赦されない」ということです。神さまから赦していただけないということは、私たちは神さまの前にできることができない、ということです。すなわちこれは、私たちは神によって裁かれるということです。滅びるんです。また、私たちが祈っても、神さまは聞いてくださらない、ということになります。これはたいへんなことです。
 だから、私たちが他人を赦すことができるように、イエスさまに助けていただかなくてはなりません。私たちのためにこのあと十字架で命を投げ打ってくださる方がそうおっしゃいます。その十字架にすがりつつ、私たちも「主よ、赦します」と宣言する。その時、「赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される」という言葉が実現します。神さまによって私の罪が赦される。それは神さまの祝福が与えられるということです。大きな神の祝福が現れることを約束しています。


(2012年9月9日)



[説教の見出しページに戻る]