礼拝説教 2012年9月2日

「神の子らしくなるには」
 聖書 ルカによる福音書6章31〜36 (旧約 エゼキエル書16章6)

31 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。
32 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。
33 また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。
34 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。
35 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。
36 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」





人にしてもらいたいと思うことを人にもしなさい

 「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」と、イエスさまは語られます(31節)。これと似たような言葉に、「人の嫌がることをするな」というものがあります。そして私たちはむしろこちらのほうを、子どものころからしつけられてきたのではないでしょうか。「人の嫌がることをするな」「人に迷惑をかけるな」‥‥そのような道徳を小さい頃から教えられてきたように思います。
 それに対してイエスさまは、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」とおっしゃいます。これは「人の嫌がることをするな」という言葉と似ていますが、全く違うということもできます。すなわち「人の嫌がることをするな」という言葉は、尊い道徳であると思いますが、もしかすると、なるべく他人と関わらないでおこう、ということになるかもしれないからです。人の嫌がることをしない、人に迷惑をかけない‥‥それは人に関わらなければ迷惑をかけることもないし、嫌がることをすることにもならないからです。もっと言えば、困っている人がいて、見て見ぬ振りをしても、「人の嫌がることをするな」という道徳を犯すわけではないからです。
 しかし、イエスさまのおっしゃる「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」という教えは、もっと踏みこんだ言葉であるように思います。先ほどのことで言えば、困っている人がいて、その時に「自分だったら誰かに助けてもらいたいと思う」と考えたならば、その人を助けてあげなさい、ということになるからです。
 そうすると、見て見ぬ振りをすることができなくなります。関わることになる。人と関わるということは簡単なことではありません。なかなか大変なことです。
 例えば、まことに簡単な話ですが、若いころ、バスだったか電車だったか忘れましたが、前に立った高齢の方に席を譲ろうとして声をかけたら、「けっこうです」と、けっこうきつく断られたことがありました。そうすると、逆にこちらが腹が立って、「せっかく譲ろうとしたのに、なんだ!」と思う。「もう二度と席なんか譲らないぞ」と思う‥‥。これなどは簡単な話ですが、要するに、人によって受け止め方が違うんですね。あるいは親切にしても、御礼の一つも言われないかもしれません。あるいは、関わって助けたにもかかわらず、さらに無理難題を言ったり、あるいは不平や文句ばかり言われるかもしれないのです。
 そうすると、関われば関わるほどこちらも傷つくことになります。そういうことを経験します。そうすると、イエスさまがおっしゃった「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」という言葉は、いったい何の意味があるのか、と疑問に思えてくるのです。

御利益を期待して善行をなす?

 そうしてきょうの聖書を読んでいくと、35節でイエスさまが、「人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる」とおっしゃっている言葉に目が留まります。
 ここを読むと、なぜ「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」とイエスさまがおっしゃったのかが分かるような気がする。つまり、「たくさんの報いがあり、神さまの子どもとなれる」から、「人にしてもらいたいことを、人にもしなさい」という命令に従うのだ、と考える。その命令に従えば、多くの報酬があり、ご褒美があり、そして天国の神さまの子となることができるという「御利益」があるから、人にしてもらいたいことを人にもするのだ、たとえ席を譲って逆に叱られても、親切にしたのに悪く言われても、我慢して「人にしてもらいたいことを、人にもする」‥‥。
 でもこれは何かおかしいですね。この場合は、御利益が目的となっています。神さまから自分がご褒美をもらえる。それが目当てで、人に親切にするのであるということになります。
 以前、イスラエルに行った時に、エルサレムのある場所に男の人が座っていました。するとガイドさんが、「あれは物乞いの人です」と言いました。そして、「イスラエルでは物乞いは威張っているんです」と言うのです。私は不思議に思って、「何で威張っているんですか?」とガイドさんに尋ねました。するとガイドさんは、「彼らは、自分たちは、良いことをさせてやっているんだと思っている。だから威張っているんです」と答えました。
 私はなるほどと思いました。ユダヤ教でも旧約聖書に書いてあるとおり、貧しい人に施しをすることは徳目の一つです。ユダヤ教は旧約聖書ですから律法主義です。だから、貧しい人に施しをする、良いことをするということが、自分の功徳となる。つまり、神さまからの報いを求めて貧しい人に施しをする。御利益を求めているんです。だから物乞いの人は、「我々は、良いことをさせてやっている」と言って威張っているということになるのです。
 そうするときょうの聖書でイエスさまがおっしゃっていることは、果たしてそれと同じことを言っておられるのでしょうか? たくさんの報いがあるから、たくさんご褒美をあげるから、だから「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」とおっしゃったのか。馬の前にニンジンをぶら下げて走らせるかのように、おっしゃったのでしょうか?

御利益は愛か?

 そう考えてみると、何か変だと皆さんも何となく思われるのではないでしょうか。なぜなら、この一連のイエスさまの教えは「愛」という言葉の中で語られているからです。27節で「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」とおっしゃっています。そして35節にも「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい」と言われています。すなわち、これらの言葉は、「敵を愛しなさい」という言葉でくくられた中で語られている、ということです。つまり、敵を愛するというのは、究極の愛です。「愛」ということが語られる中で、今日の言葉も語られている。
 そうすると、報いや御利益を求めてするのは、果たして「愛」と言えるだろうか、ということです。それは相手のことを思っているのでは無く、自分が御利益を得ることを思っている。つまり自分のことを考えているからです。
 30節の「求める者には誰にでも与えなさい」という言葉も同じことです。35節の「何も当てにしないで貸しなさい」という言葉もそうです。とにかく与えて貸せば、たくさんの御利益があるというのであれば、それは「愛」とは言えないでしょう。自分のために与え、また貸しているに過ぎないからです。
 私は、一つの出来事を思い出します。それは私が東神大の学生の時でした。私は三鷹教会に通っていました。ある日曜日の午後のことでした。その時、教会には私と、もう1人の年輩の男性信徒がいました。そこへ、1人の男の人が訪ねてきたのです。「ご相談したいことがある」という。それで上がってもらいました。当時三鷹教会は無牧でした。それで年配の男性信徒と共に、その来客の話しを聞きました。すると彼が言うには、彼は刑務所で服役し、その刑期を終えて出所したばかりだというのです。そして、どこだったかは忘れましたが、遠くの自分の郷里に帰って人生をやり直したい、ついてはお金がないので郷里に帰るための交通費を貸してほしい‥‥そういう話しでした。私は貧しい神学生でしたからお金がありません。それで結局、一緒に話しを聞いた男性信徒が1万円を彼に貸しました。そして、彼のために一緒に祈りました。そうして彼は出ていきました。私は心から、彼が人生をやり直すことができるよう期待しました。
 さて、それから1か月ほど経ったころ、東神大の学生寮の集会室で再び彼を見つけたのです。学生寮の寮長と話をしていました。わたしは彼を見て、「あっ!」と言いました。すると彼もわたしを見てびっくりしました。そして彼はすぐに寮を出て行きました。あとから寮長に聞くと、彼は1カ月前に私に話をしたのと全く同じようなことを言って、金を貸してほしいと言ったそうです。それで私は、その時はじめて、それが詐欺師だったことに気がつきました。
 実は、牧師になってから知ったことですが、教会には、そのようにして来る人が時々いるのです。そのような詐欺師の言うなりになってお金を貸すことが、きょうのイエスさまのおっしゃっていることでしょうか? 詐欺師の求めに応じて与えることは主の御心でしょうか?‥‥それは「愛」と言えるでしょうか? そうではなくて、それはその人に罪を犯させることではないでしょうか。

神の奇跡という報い

 使徒言行録3章に、「美しい門」の所でなされた奇跡が書き記されています。ある日、ペトロとヨハネが午後3時の祈りのためにエルサレムの神殿に行きました。すると神殿の「美しい門」の所に、生まれながら足の不自由な人が運ばれてきました。彼は物乞いでした。物乞いをして生きるより生きていくすべがなかったのです。彼は、ちょうど通りかかったペトロとヨハネに施しを乞いました。先ほど述べましたように、ユダヤ人にとっては施しは功徳であり、御利益を期待できるものでした。
 ところがペトロとヨハネは、彼が施しを乞うたのに何も与えずに彼をじっと見ました。そしてペトロがその人に言いました。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい!」(使徒言行録3:6)。そして右手を取って彼を立ち上がらせました。‥‥すると、生まれつき歩くことができなかった彼の足がしっかりし、彼は癒されて、躍り上がって立ち、歩き出しました。そして神を賛美してペトロとヨハネと一緒に神殿の境内に入っていきました。神を賛美礼拝したのです。
 これは奇跡です。ペトロは「私には金や銀はないが」と言いました。本当にお金を持っていなかったのでしょう。しかし持っていたとしても、お金を与えただけならば、それで終わりだったでしょう。神の奇跡は起こらなかったのです。そして彼もキリストを信じるに至らなかったでしょう。しかしペトロは金や銀を何も持っていなかった。しかし、この世の物は持っていなかったけれども、他に持っているものがあった。それが、イエス・キリストの名です。そのイエス・キリストの名によって、彼を立ち上がらせたのです。そして奇跡が起こったのです。
 その時の彼の喜びようと言ったら、躍り上がって喜び、言われなくても神を賛美し、そのまま神殿には行って礼拝したほどでした。彼は、神を体験したのです。神の愛を知ったのです。
 そして、ペトロとヨハネがいただいた「報い」とは何でしょうか? イエスさまはきょうの35節で「たくさんの報いがある」とおっしゃっています。その報いとは、何でしょうか。ペトロがイエスの名によって、彼に立ち上がることを宣言した時、彼は生まれて初めて自分の足で歩くという奇跡が起きました。そのような奇跡を見ることができました。神さまのすばらしい働きを見ることができました。これは報いではないでしょうか。
 そして彼は躍り上がって立ち、神をほめたたえて、ペトロとヨハネと一緒に神を礼拝しに行きました。これは報いではないでしょうか。1人の人がキリストを信じるようになる現場を見ることができたのです。奇跡を共に喜ぶことができたのです。これは「報い」ではないでしょうか。その「報い」とは、いわゆる御利益があったということとは違うかもしれません。お金がもうかったということでもありません。しかし、生きている神様の働きを、その奇跡を見ることができたという、すばらしい報いです。

神の子らしくしていただける

 敵を愛する愛は、これらの教えを述べられたイエスさま御自身に見られるものです。イエスさまは、神を信ぜず、神に背き、まさに神の敵であった私たちを憐れんでくださり、お見捨てにならずに、かえってこの私たちを救うために十字架にかかられました。すなわち、ご自分の命を十字架上に投げ打って、敵である私たちを救ってくださったのです。神の敵であった私たちを、神の子としてくださるのです。
 私たちは、御利益を目的として功徳を積むことによって神の子となるのではありません。このイエス・キリストを信じることによって神の子としていただけるのです。神の子と呼ばれる資格が無いのに、神の子とみなしてくださるのです。
 そしてそのイエスさまが、神の子イエスさまと似ても似つかないような愛のない私たちを、神の子らしくなるように変えていってくださるとおっしゃるのです。それはイエスさまの働きであり、聖霊のなせる奇跡です。この私たちが、敵をも愛することができるように、神さまの所に導く器として、用いて下さるということです。感謝です。


(2012年9月2日)



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