礼拝説教 2012年8月12日

「幸か不幸か」
 聖書 ルカによる福音書6章24〜26 (旧約 創世記19章4)

24 しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。
25 今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。
26 すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」





教会創立64周年

 2007年に当教会が作成しました「逗子教会60年の歩み」を見ますと、当教会の最初の礼拝がおこなわれたのが1948(昭和23)年8月15日(日)であると記録されています。8月15日と言えば終戦記念日です。「大東亜戦争」と呼ばれ、「太平洋戦争」とも呼ばれた戦争で日本は負け、連合国側に対して無条件降伏をしたその終戦の日から3年目に、最初の主日礼拝が行われ、逗子教会はその歩みをはじめたのです。そして、最初の主日礼拝の日をもって教会創立記念日とするのが教会のならわしですので、この日を以て当教会の創立記念日となすことができるのです。
 最初の教会堂は、コンセットハットと呼ばれるアメリカ軍のかまぼこ形の兵舎をもらって建てたものでした。私の前任地である富山二番町教会も、空襲によって焼け野原となったあとに、同じようにコンセットハットを払い下げてもらって戦後の歩みをはじめました。そのように、何も無かった戦後、日本の多くの教会で米軍のコンセットハットをもらい受けて教会堂とし、戦後の歩みをはじめたのです。
 そのようにして当教会の初代牧師・宮崎繁一先生は、1948年8月15日の日曜日、第一回の礼拝をこの逗子にて持ちました。最初の会衆は5名であったと書かれています。逗子教会はそのように戦後に建てられた教会です。まさに戦後の復興、そしてやがて始まる高度経済成長、そしてバブルの全盛期、さらにバブルの崩壊と長引く不況、そして少子高齢化や莫大な債務、そして格差社会と呼ばれる困難な問題に囲まれに至った日本の戦後の歩みを共にして参りました。
 終戦後、日本の教会には多くの人々が押し寄せました。それには、それまでの軍国主義が崩壊し、生きる目標を失った人々が、心の救いを求めて教会に押し寄せたのだと言われます。それならば、今日再び訪れた混迷の時代にこそ、キリストに救いがある、希望があるということを教会は高らかに宣べ伝えていく必要があるかと思います。

富んでいる者は不幸

 さて、本日の聖書個所で、イエスさまは「富んでいるあなたがたは不幸である」とおっしゃいました。しかしこの言葉は、聴いている人々はひどく驚かされたことでしょう。なぜなら、「富んでいる」すなわち「金持ちである」ということは、不幸なことではなく幸いなことであると思っていたからです。
 もちろんこれは当時の人々だけではなく、現代の私たちも同じです。富んでいるということは幸福なことであると皆が思います。それゆえにこそ、皆若いころから努力をするのです。大金持ちにならないまでも、人並み以上には持てる者でありたいと願う。だから受験勉強をし、いわゆる良い学校に行き、いわゆる良い会社に就職し、あるいはそのような職業に就こうとする。それは皆、富める者でありたい、そういう願いがあるからこそです。
 お金持ちになれば、好きなことができると皆思います。好きな土地に住んで、好きな物を買い、好きな所に行けるし、ぜいたくな暮らしができる‥‥。老後の心配も要らない。それは幸いなことであると多くの人が思います。
 イエスさまの時代、人々は、富んでいる人は神さまに祝福された人であると思っていました。イスラエルの先祖であるアブラハムは、神さまによって祝福されて、多くの羊や家畜を持ち、多くの使用人を持つに至りました。イスラエルの名の下となったヤコブもそうでした。また、ヨブ記のヨブもそうでした。ヨブは、神さまによって守られ祝福されて、東の国一番の富豪でした。‥‥そのように、イスラエルの人は、富んでいる人というのは神さまに祝福された人であると思っていました。
 ところが、今日イエスさまは「富んでいるあなたがたは不幸である」とおっしゃるのです。だからどんなに驚かされたことでしょう。

なぜ不幸?

 いったいなぜ富んでいる者が不幸なのでしょうか?
 その前にここで「不幸」と書かれている言葉についてですが、実はイエスさまがここでおっしゃっている言葉に中には、「不幸」という言葉はないのです。ではどう書かれているかというと、「ウーアイ」という言葉が使われています。日本語にすれば「ああ〜」という悲しみを表す言葉です。織田昭という聖書学者によれば、その言葉は、「何と悲しいことか」という意味が含まれており、さらに「あなたたちのことを考えるとわたしの胸は張り裂ける」という意味になるそうです。イエスさまは決して富んでいる者を裁いているのではありません。悲しんでいるのです。「ああ〜、何と悲しいことよ!」という感じです。
 なぜそんなにイエスさまは悲しまれるかというと、その続きにあるように「もう慰めを受けている」からです。神さまではなく、この世の物で慰めを受けてしまっている。そういう意味です。それは続く言葉にも表れています。「今満腹している人々、あなたがたは不幸である」。さらに、「今笑っている人々は不幸である」「すべての人にほめられる時、あなたがたは不幸である」‥‥これらの言葉を見ると、ただ単に「富んでいる」ことが不幸なのではないということが分かってきます。つまり、お金持ちは全員不幸である,とおっしゃっているのではないということが分かってきます。

もう間に合っている

 それは、「満腹している人々」が不幸であるということが、お腹いっぱい食べることが不幸だから、お腹いっぱい食べるのはやめましょう‥‥と、そんなことをイエスさまがおっしゃっているとしたら変ですね。「今笑っている人々は不幸である」というのも、「笑うことは不幸だから、おもしろいことがあっても笑うのはやめましょう。テレビのお笑い番組を見るのはやめましょう」‥‥と、そういうことではないだろうということは、何となくお分かりのことであると思います。
 そう考えていくと、今日の一連の「不幸である」とイエスさまがおっしゃっていることはいったい何を言おうとされているのだろうか、ということがだんだん分かってきます。つまりそれは、もうすでに富んでいる、持っている、もうすでに満腹している、もうすでに笑っている、つまり神さまイエスさまなんか信じなくても、もう間に合っている、十分持っている、神さまもイエスさまも必要ない‥‥そういうことが不幸である、悲しむべきことである、とおっしゃっているのです。
 満腹の人に、ごちそうを出しても、いらないと言うでしょう。それと同じように、この世の物で十分満足している人に、イエスさまはすばらしいですよというお話をしても、聞く耳を持たないでしょう。
 わたしの最初の任地である輪島教会で「心の友」を配布していました。教会に毎月決まった部数が来る。そのうちのほとんどは、名簿に従って決まった人に配るのですが、いくらか余ります。それで余ったものを、全然知らない民家のポストに入れて配っていたことがありました。ある家の前で、そこの家のおじいさんがいたので、「心の友」を手渡しました。すると、その人はちょっと見て、「キリスト教か。間に合っている。いらん。キリスト教に世話になるほど落ちぶれておらん!」と、けんもほろろの応対でした。
 わたしはそのことを深く思いました。「キリストに世話になるほど落ちぶれておらん」‥‥なるほどと思います。間に合っているのです。もう他のもので十分間に合っている。だからキリストなどというものに世話になる必要はない‥‥そういうことでしょう。

冗談だと思った

 本日読んでいただいた旧約聖書の創世記19:14ですが、ここは有名なソドムの町とゴモラの町が、神さまの裁きによって滅ぼされる直前の場面です。神の御使いがソドムの町に住んでいたアブラハムの甥っ子のロトの所に来て、神がこの町を滅ぼされるから家族を連れて逃げなさいと告げます。それでロトは、その町に嫁いだ娘婿の所に行き、主がこの町を滅ぼされるから早く逃げろと告げます。しかしそれを聞いた婿たちは、「冗談だと思った」と書かれています。「そんな馬鹿なことが起きるものか」と思ったのです。しかしこのあと実際にソドムの町は滅びてしまいました。
 私が、学生時代に教会を離れてしまったことは前にも申し上げました。岡山に移ってから、言った教会につまずいて、教会に行かなくなってしまいました。それどころか神さまさえも信じることをやめてしまいました。私はそれは教会につまずいたからだと申し上げました。しかし実のところは、やはり、自分が神さまという方を必要としなくなったのだと思います。だから、教会につまずいて、そのまま神を信じることをやめてしまったのだと思います。神さまなんか必要ではない。そんな者を信じなくても生きていける‥‥はなはだしい高慢ですが、実際当時の私はそのように思っておりました。間に合っているんです。
 ところがそのような高慢は、再び死の淵に追いやられるという危機によって、一変に打ち砕かれてしまいました。人間はいつ死ぬかもしれないことを思い知らされました。
 ロトの娘婿たちは、神の裁きによって町が滅びるという話しが冗談だと思いました。私も、神さまとか聖書とか、冗談だと思いました。しかし冗談ではなく、私たちはこのあと死ぬかもしれないし、世界は破滅するかもしれないのです。そしてこれも冗談ではなく、私たちは皆確実に終わりに向かっているということです。それなのに、いったいどうしてこの世の富とかこの世の物が、私たちを救うことができるでしょうか?
 だからイエスさまは、「不幸だ」と言っておられるのです。「ああ、悲しいかな」と嘆いておられるのです。神の御子が人となって、このような私たちを救いに来て下さったのに、「間に合っている」「いらない」と思う。「ああ、悲しいかな」とイエスさまはおっしゃるのです。

求める

 むかし私が出会った尊敬する宣教師はおっしゃいました。「飢え渇いていること。それがただ一つの条件です」と。その宣教師のお話は、聴くたびに当時のわたしの胸を打ちました。感動しました。それで、その先生のお話を聞くならば、みんなイエスさまを信じるようになるのではないかと私には思われました。しかし先生はおっしゃったのです。「飢え渇いていること。それがただ一つの条件です」と。
 満腹の人にどんなごちそうを出しても、おいしく感じられないように、間に合っている人にどんなにありがたいキリストのお話をしてもムダです。
 では私たちは、隣人の救いのためにどうすればよいのでしょうか? もう間に合っていると言って、イエスさま神さまなんかどうでも良いという人に対してどうすれば良いのでしょうか?‥‥それは祈るのです。神さまに祈ってお願いして、その人の心が飢え渇くようにしていただくのです。聖霊なる神さまに、その人に働きかけてもらって、その人の心が飢え渇いて、神を求めるように導いていただくのです。そして、求めるならば与えられる、というのがイエスさまの約束です。


(2012年8月12日)



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