礼拝説教 2012年8月5日

「天の報い」
 聖書 ルカによる福音書6章22〜23 (旧約 エレミヤ書37章18〜19)

22 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。
23 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。





さらに不思議な幸い

 前回の個所から、イエスさまの平地の説教と呼ばれる一連の教えが始まりました。そしてその冒頭は、「貧しい人々は幸いである」という常識外れの言葉で始まりました。それはたいへん不思議なお言葉でした。
 「貧しい人々は幸いである」「今飢えている人々は幸いである」「今泣いている人々は幸いである」‥‥これらの言葉は真に常識外れでありますが、この言葉をおっしゃっている方がイエスさま、その方であるという時、逆転が起きます。貧しいがゆえに(もちろんこの貧しさとは経済的な貧しさのことだけではなく、心が貧しいという意味もありますが)、飢えているがゆえに(これも、単に食糧に飢えているということだけでは無く、心が飢え渇いているという意味も含みます)、泣いているがゆえに、そのことがきっかけとなってイエスさまの救いを求めることになるならば、それは幸いへと変えられるということです。なぜなら、そのような人に対してイエスさまが天の国を与えて下さるからであり、満たして下さるからであり、笑うようにして下さるからです。イエスさまの救いを見ることができるのです。
 さて、今日読んだ聖書の個所で、イエスさまはさらに不思議なことをおっしゃっています。それは、憎まれる、また、追い出される、そして汚名を着せられるならば、あなたがたは幸いであるとおっしゃるのです。これはさらにまた意外な、そして耐えられないようなことでは無いでしょうか。一体全体、自分のことを憎まれたいなどと思う人が、この世の中にいるでしょうか?追い出されたい、などという人がいるでしょうか?ののしられたり、汚名を着せられたりすることを望む人がいるでしょうか?‥‥そのように考えると、今回のお言葉は、前回のお言葉にもまして不思議であり、また常識外れの言葉としか思えません。
 前回のイエスさまの言葉が、イエスさまを求める人々についておっしゃったとすれば、今回はイエスさまを信じて従う人々についておっしゃっていると言えるでしょう。だとすれば、誰もイエスさまを信じないのではないでしょうか。憎まれるようなことをして憎まれるのならば仕方がありません。しかしここでイエスさまが言われているのは、「人の子のために」ということです。この「人の子」というのは、何度も申し上げているように、イエスさま御自身のことです。イエスさまはご自分のことを言う時に「人の子」と言われました。すなわちここは、単に憎まれるということでは無く、イエスさまを信じたために憎まれるということであり、イエスさまを信じたために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるということです。
 だとしたら誰も信じないのではないでしょうか。イエスさまを信じたためにほめられ賞賛されるというのなら分かります。しかしその逆です。これは言ってみれば、イエスさまを信じたために迫害されるということです。そしてそのように迫害された時は幸いである、とおっしゃるのです。

なぜイエスを信じて迫害されるのか

 なぜイエスさまを信じたために迫害されるということがあるのでしょうか?
 イエスさまを信じる人は、人を愛そうと願うようになります。それなのに憎まれたり、ののしられたりする。それはまことに理不尽なことのように思われます。人を攻撃するのでなく、人を受け入れ、愛そうとする。それなのに憎まれ、迫害される。これは全く耐えられないことです。
 いったいなぜイエスさまを信じたために迫害されるということがあるのか。しかしそのことについて、イエスさまはあらかじめ予言しておられました。(ヨハネ15:18-19)「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。」
 この世の人々があなた方を憎むのなら、私を憎んだことを思い出しなさい、とおっしゃいました。たしかにそうでした。イエスさまは捕らえられて十字架という死刑台に送られました。人々の病を癒し、目の見えない人の目を開けられた。そして神の国のことを教えられた。そのようにイエスさまは、天の父なる神さまに従って、人々を愛し、人々のために働かれました。それなのに、憎まれ、十字架にかけられたのです。
 それはなぜかと言えば、マタイによる福音書27:18でいは「ねたみ」のためだったと書かれています。イエスさまに敵対した人々は、何かもっともらしい理由を着けるために必死になりましたが、なんのことはない、「ねたみ」のゆえにイエスさまを亡き者にしたというのです。それはまさに人間の罪であり悪魔のそそのかしです。
 また、イエスさま御自身が23節で「この人々の先祖も預言者たちに同じことをしたのである」とおっしゃっています。今日読んだ旧約聖書はエレミヤ書の中の一節ですが、このエレミヤという人も預言者であり、しかも確かに神さまのお立てになった預言者でした。しかし神さまの言葉をそのまま告げたので、迫害されました。そのように、神さまのおっしゃった言葉をその通り告げて、迫害を受けたのです。これも神さまに背こうとする人間の罪のゆえです。
 そのように、神さまに背く人間の罪があるので、神に従っていこうとすると迫害があると言えます。そして実際に、歴史上、多くのクリスチャンが迫害されました。ローマ帝国でこのあとキリスト教が広まっていくと、やがて迫害が始まり、約250年間の間におよそ10万〜20万人が迫害されて死んだと言われています。この日本でもそうです。徳川時代の同じく約250年間の間に、約10万〜20万人が殉教したと言われています。
 本日は「平和聖日」です。67年前の8月、長い戦争が終わったことから、日本の教会では8月の第1聖日を平和聖日としています。そしてその大東亜戦争と呼ばれる戦争の時代に、日本のキリスト教会もまた困難な状況に置かれました。そもそもキリスト教は「敵性国家」の宗教であるとされ、教会もまた監視下に置かれました。「天皇陛下とキリストと、どちらが偉いか」などと特高警察に聞かれた牧師も数多くいたと聞いています。キリストの再臨信仰を強調する牧師の中には、捕らえられて牢屋の中で死んだ人もいます。そのような時代があったのです。
 また、今も、世界には迫害の中で信仰生活を守っているクリスチャンがたくさんいるのです。そのよう、イエスさまがおっしゃったとおり、迫害が起こっていったのです。

天の報い

 それに対してイエスさまはどうしろとおっしゃるのでしょうか。今日の聖書の個所を読むと、我慢しろどころの騒ぎではないことが分かります。そのようにイエスさまのために憎まれたり、追い出されたり、ののしられたり、汚名を着せられるときに、あなたがたは幸いだ、その日には「喜び踊りなさい」とおっしゃっています!「喜び踊れ」と!踊るほどに喜ぶというのは、そうとう喜んでいます。
 何がそんなにうれしくて喜べとおっしゃるのか? すると「天には大きな報いがある」と言われるのです。この「天」というのはもちろん天国のことです。神の国のことです。
 ではその天の報いとはどのようなものなのか?
 新約聖書の使徒言行録を見ると、キリスト教会で最初に迫害されて死んだ人はステファノです。ある時、ステファノに腹を立てたユダヤ人が、ステファノのことを最高法院に訴えました。「モーセの律法と神を冒涜した」という濡れ衣を着せたのです。最高法院。それは、以前イエスさまを死刑に定めた場所です。ステファノは、そこで、ユダヤの偉い人たちに向かって悔い改めを迫りました。最高法院の議員たちはそれを聞いて腹を立て、ステファノを外に引きずり出して、みんなで石を投げつけて殺してしまったのです。いわゆる「石打ちの刑」というものです。イエスさまを信じていたために、迫害されて石打ちの刑にされてしまったのです。
 これだけを聞くと、たいへん悲惨なことにちがいありません。しかしステファノのこの最後の場面ですが、ステファノは迫害する者たちが自分に石を投げつけようとするその間際に、天が開けて、「人の子」すなわちイエスさまが神の右に立っておられるのを見たのです。(使徒言行録7:56)「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」。神さまのあわれみによって、天が開け、人の子なるイエスさまを見せていただいたのです。
 人の子イエスさまが父なる神の右に立っておられる。私たちは「日本基督教団信仰告白」の中で「使徒信条」を唱えますが、その中でイエスさまについて、「十字架につけられ死にて葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」と、イエスさまが天で父なる神さまの右の座に座っておられると書かれています。しかしここでステファノが見たのは、父なる神の右に立っておられるイエスさまでした。神の右にすわっておられるはずのイエスさまが、立っておられる。‥‥つまりこれは、今死のうとするステファノを、イエスさまが立ち上がって、神の国に迎え入れようとなさる姿なのです。
 こうしてステファノは、皆から石を投げつけられて死にましたが、最後に「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」とイエスさまに向かって言いました。そして最後にステファノは、最後に、自分に向かって憎しみを込めて石を投げつけている人々のことを主にとりなして祈って息を引き取りました。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と叫んで息を引き取ったと書かれています。
 天の報いとは、イエスさまが与えて下さる祝福です。天の国に迎え入れて下さるのです。そしてその祝福は、私たちにはまだ具体的には分かりませんが、イエスさまが今日の聖書で「喜び踊りなさい」とおっしゃるほどの大きな祝福です。考えられないほどの、想像を超えるほどの祝福であり、喜び踊るほどのものであるということです。
 同じく使徒言行録5章には、ペトロをはじめとした使徒たちが捕らえられた時のことが書かれています。ユダヤの最高法院によって捕らえられ、議会で尋問された挙げ句、鞭で打たれるという目に遭いました。ところが使徒たちは、「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出ていき、毎日神殿の境内や家々で絶えず教え、キリスト・イエスについて福音を告げ知らせていた」(使徒5:41-42)と書かれています。
 使徒たちは、自分たちがイエスさまのために迫害を受け鞭で打たれるほどの者になったことを喜んだ、と。イエスさまが迫害されたように、自分たちも迫害されるようになったことを喜んだのです。これがイエスさまと共に十字架を担ぐということです。

私たちがどこを見て歩むのか

 これらのことは、私たちがどこを見て生きるのか、どこを見ながら歩むのか、ということを教えています。それは天のイエスさまに向かって歩むのであると。そのように永遠の神の国のイエスさまを見つつ、イエスさまがお命じになったように、この世の人々の救いのために仕えていくのであると教えています。
 またきょうわたしたちが教えられることは、迫害を受けたということについてだけではありません。私たちはこの世では全く無名かもしれません。だれからもほめられることがないかもしれません。だれからも苦労が認められることがないかもしれません。あるいは誤解を受けることさえあるかもしれません。誰も見向きもしないかもしれません。
 しかし私たちの主イエスは、そのような私たちを認めて下さるのです。「わたしはあなたを知っている」とおっしゃるのです。私たちの苦労の一つ一つをご存知です。感謝であります。そのイエスさまの待っておられる天の御国を目指して歩んでいくのです。


(2012年8月5日)



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