礼拝説教 2012年7月29日

「さいわいな人」
 聖書 ルカによる福音書6章20〜21 (旧約 詩編146)

20 群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。 06:20さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。
21 今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。





平地の説教

 ルカによる福音書を読み続けておりますが、ここでまとまったイエスさまの教えが書き留められています。そして聖書を読んだことのある方ならば、ここでイエスさまが語られている教えは、マタイによる福音書5章〜7章に記されている有名な「山上の説教」と呼ばれる教えに似ていると思われることでしょう。
 このルカによる福音書のほうがマタイの「山上の説教」に比べると全体的に短く省略された印象があります。また、この教えをイエスさまが話された場所が違っています。マタイによる福音書のほうは山の上で語られました。いっぽうルカによる福音書のほうは17節に書かれているように、山から降りて平地での出来事として書かれています。
 これはどちらが正しいのか、と考える必要はありません。どちらもその通りだと考えるべきです。イエスさまは3年間にわたってこの世で神の国の教えを宣べ伝えられましたので、同じような教えを何度も人々にお話になったに違いないのです。だからマタイもルカも、それぞれ違った時にイエスさまがお話になったことを記録していると言うことができます。

貧しい者のさいわい

 さて、そういうわけで、私たちの礼拝では、しばらくの間このイエスさまがお話になったまとまった教えから恵みを得たいと思います。そしてその冒頭でイエスさまがお語りになっている言葉が、「貧しい人々は幸いである」という言葉です。
 この言葉は、私たちをたいへん困惑させるのではないでしょうか。なぜなら、「貧しい」ということがどうしても「幸い」には思えないからです。いやむしろ貧しいことは不幸なことであると私たちは思います。それをイエスさまはここで、「貧しい人々は幸いである」とおっしゃっているのですから、どうにも分かりません。
 21節には「今飢えている人々は幸いである」と書かれています。このことも、とても幸いなことであるとは思えません。私の父親の世代の方々から、終戦後、たいへんな食糧難に見舞われた話しを聞くことがよくありました。食べる物が無くて、農村にお米や食糧を求めて買い出しに行った話も良く聞きました。「お腹いっぱい食べることが夢だった」ということをよく聞きました。
 お腹いっぱい食べたい、貧しさから脱出したい‥‥そういうなかで戦後の日本人は頑張ってきたのではなかったか。誰も貧乏したくないし、食べる物に飢えることもしたくありません。かつてマザー・テレサが、インドのカルカッタの町に飛び出して、誰も助けてくれる人がいないまま路上で死んでいく貧しい人々を助けるための働きを始めたように、貧しいということはたいへんなことです。着る物が無い、食べる物が無い、病気にかかっても病院に行くお金もない‥‥そのような不安の中におかれて生きて行かなくてはならない。誰も貧しいことが良いことであるとは思わないはずです。むしろ全く反対に、豊かになりたいのです。それなのに、この平地の説教の最初にイエスさまは「貧しい人々は幸いである」とおっしゃいます。

貧しさを知らないイエス?

 そうすると、イエスさまは、貧しいということがどんなにたいへんで、不安なことかを知らないからそんな悠長なことをおっしゃるのではないか、と思われるのではないでしょうか。
 しかしそうでしょうか。聖書を読むと、イエスさまもまた貧しい庶民の出であることが分かります。イエスさまがベツレヘムの馬小屋でお生まれになったことはご承知の通りです。そして、イエスさまがお生まれになって1カ月ほどして、ご両親に連れられてエルサレムの神殿にお参りに行った時、ご両親は「鳩」を献げたことが書かれています。鳩を献げるのは、貧しい人たちの献げ物でした。
 また、ルカによる福音書2章には、イエスさまが12歳の時に過越祭を守るためにエルサレムに行ったことが書かれていますが、その後、イエスさまの地上の父親であるヨセフはどの福音書にも出てきません。このことから、ヨセフは早くに亡くなったと言われています。つまりイエスさまの家族は大黒柱を失ったわけです。女性の仕事が限られていた時代ですから、母マリアが一家を養うことはとうてい無理です。そうすると、長男であるイエスさまは、母マリアと弟、妹たちを養うために若いころからいっしょうけんめい働かれたことだと思います。その証拠に、イエスさまの父ヨセフは大工でしたが、イエスさまも大工であったと聖書に書かれています。父の仕事を継がれたのです。そうして家族を養った。当然、豊かであるはずもありません。イエスさまが30歳になるまで福音宣教の時を待たれたのも、弟や妹たちが自立するまで家族に仕えられたのかもしれません。
 そうすると、イエスさまが貧しさをご存じなかったということは言えないことになります。むしろイエスさまは貧しさを知っておられた。当時、多くの一般庶民は皆貧しい時代でした。イエスさまもその中の一員として生きられたのです。イエスさまは、その日暮らしのたいへんさをご存知であった。ご存知の上で、「貧しい人々は幸いである」とおっしゃっているのです。

求めるゆえに幸い

 そうすると、いったいなぜ「貧しい人々は幸い」であるのかを考えてみなくてはなりません。まずもう一度20節を見てみます。するとイエスさまは、「目を上げ弟子たちを見て言われた」と書かれています。弟子たちを見て言われたのです。ここで「弟子たち」というのは、12使徒だけではなく、イエスさまに従っていた人々のことです。そして「貧しい人々は幸いである」という言葉ですが、これは日本語の口語訳聖書では「あなたがた貧しい人たちは幸いだ」となっています。また英語のおもな聖書でも「あなたがた」という言葉を入れて訳しています。
 そうするとこの「貧しい人々」というのは、貧しい人々一般を指しているのではなく、今イエスさまを求めて集まってきている貧しい人々、ということになります。あるいは、貧しい人々がさいわいなのは、イエスさまを求めるようになるからだ、と言うこともできます。いずれにしても、イエスさまを求め、イエスさまの所に来ることによって、貧しい人がさいわいな人となるということです。
 そしてなぜそのように幸いになるかと言えば、「貧しい人々は幸いである」の続きに述べられています。「神の国はあなたがたのものである」と。神の国が、その人たちのものであるがゆえに、貧しい人々は幸いであるとおっしゃっています。これは祝福の言葉です。しかもこの世の祝福ではありません。神さまの祝福です。神さまのくださるものによって祝福される。神の国が与えられる。それゆえに幸いであるとおっしゃっています。
 次の「今飢えている人々」についても同じです。ここでは「あなたがたは満たされる」と言われています。これも、この世の物で満たされる、おいしい物を腹一杯食べられるようになるのだと解釈することもできますが、神さまの恵みで満たされる、と考えることもできます。その次の「今泣いている人々は幸いである」についても、「あなたがたは笑うようになる」ということが、何か「苦あれば楽あり」という人生訓としておっしゃったのではなく、あるいは、面白おかしくて笑うようになるという意味ではなく、神さまの慰めが与えられて笑うようになる、ということです。
 そして、貧しい人々、飢えている人々、泣いている人々は、もちろんそのままでは幸いではありませんが、イエスさまによって幸いへと変えられる。イエスさまを求めることによって幸いとなる、神の祝福があるということです。

 それに対して、今満たされている人々が幸いではないのは、イエスさま、神さまを真剣に求めることをしないからです。
 今、先進国と呼ばれる国々は、みな宗教が力を失っています。ヨーロッパのかつてキリスト教国と呼ばれた先進国では、教会堂の建物は立派でも、集まる人は少なく閑古鳥が鳴いています。それはたとえば、満腹の人にごちそうを出しても、「いりません」と答えるのと同じです。どんなにイエスさまがすばらしくても、興味を示さない。別に神様なんかいてもいなくても構わないと思っている‥‥。それはいくら物質的に満たされていても、お金があり、高価な持ち物をたくさん持っていても、幸いではないのです。
 またここで言われている「貧しい人々」というのは、単にお金がなくて貧しいと言うことだけではないでしょう。イエスさまは集まった弟子たちを見て「あなたがた貧しい人々はさいわいだ」とおっしゃいましたが、そこには経済的に貧しい人ばかりではなかったことでしょう。いわゆる裕福な人もいたかもしれません。ということは、ここで「貧しい」と言われているのは、まさにマタイによる福音書のほうの山上の説教の冒頭で「心の貧しい人々は幸いである」(マタイ5:3)とおっしゃった、その「心の貧しい」ということでもあると言えるのです。すなわち、自分は罪人である、自分は本当に心が貧しい、足りない者である、神さまに頼ることなしに生きていくことができない‥‥そのような人でもあるのです。
 すなわち、経済的に貧しい、あるいは心が貧しい。その結果、イエスさまに助けを求めざるを得ない。イエスさまを求めてイエスさまの所にやって来ている。このことが幸いである、とおっしゃっている。それはなぜ幸いであるかというと、神の国はその人たちの者であるから、神さまの祝福が与えられるからだ、とおっしゃっています。

神の国はあなたがたのもの

 私の最初の任地であるW教会は、本当に小さな教会でした。礼拝に来る人は、最初のころは逗子教会の10分の1ほどでした。最初はほとんどが女性でした。その中に、多くの奉仕をしている方がいました。教会の役員として、また我々夫婦を含めて3人しかいなかった教会学校の教師として、掃除当番として、という具合に、すべての奉仕を引き受け、W教会が一番きびしい状態の時も黙々と奉仕して、教会を支えていました。
 その彼女は、独り暮らしでした。ずいぶん前にご主人を亡くされていました。そのご主人がいたころは、ご主人の仕事も不定期で、そういう中で子育てもなさり、ずいぶん苦労されたようです。ある時、彼女のそんなお話を聞きました。ご近所に、お醤油を借りに行ったり、お味噌を借りに行ったりなさったと言っておられました。そしてある日、そんな生活に疲れてしまって、家の中の敷居の上に座っていたそうです。すると自分の肩の上に、後ろから誰かが手を置いた。温かい手だったそうです。そして彼女は言いました。「振り向いたら、イエスさまだった」と。そして彼女は、満面の笑みを浮かべられました。
 私はそのお話を聞いていて、思わず息をのみました。今思えば、それは本当にイエスさまだったのかとか、その時のイエスさまはどんなお姿だったのかとか、そのあとどうなったのか‥‥とかいろいろ聞いておけばよかったと思うのですが、その時の彼女の笑顔があまりにも輝いていて、しかもそれ以上何か聞いてはならないような神聖な雰囲気だったので、聞けなかったのです。そしてもう彼女は天に召されています。
 彼女は、貧しかった当時、そのイエスさまから慰めを受けて、もう何もかも解決してしまったようでした。そしてこの世の力は何も無い彼女でしたが、黙々と礼拝に集い、奉仕をし、教会を支える人となっていったのです。
 今日の聖書の言葉は、原文のギリシャ語では、「幸いだ」という形容詞が最初に来ています。日本語と語順が違うので仕方がないのですが、日本語の聖書では昔の文語訳聖書がそれに近い表現となっています。‥‥「幸福なるかな、貧しき者よ、神の國は汝らのものなり」(文語訳)。
 「さいわいなるかな!」とイエスさまは、大きく祝福されているのです。貧しい者が幸いだ、そして心の貧しい者も幸いだと言えるのは、神さま、イエスさまを求め、頼ることによってさいわいなのです。そしてイエスさまが祝福して下さるから幸いなのです。「求めなさい、そうすれば与えられる」(マタイ7:7)とイエスさまがおっしゃるとおりです。
 イエスさまに求め、イエスさまに頼り、イエスさまにすがる者となりましょう。


(2012年7月29日)



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