礼拝説教 2012年7月22日

「力の源泉」
 聖書 ルカによる福音書6章17〜19 (旧約 創世記49:28)

17 イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、
18 イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。
19 群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。





集まってきた大勢の人々

 ただ今読んでいただいた聖書の個所は、イエスさまが12使徒をお選びになったあとの出来事です。17節を見ると、イエスさまは山で12使徒をお選びになったことが分かります。そしてそのあと弟子たちと共に山を降りられました。そしてイエスさまのもとに〔大勢の弟子とおびただしい群衆」が集まってきた、ということが書かれています。
 この個所について、聖書の注解書等を拝見しますと、ここを省略するか、ついでに軽く触れる程度で終えているものが多いように思われます。ついでにというのは、20節から始まる、いわゆる平地の説教へのつなぎとしてです。そしてここにはイエスさまの言葉が何も書かれていません。しかし実は、ここはとても大切なことを私たちに伝えているのです。
 イエスさまのみもとに集まってきた人々は、どこから来たかというと、まず「ユダヤ全土とエルサレムから」と書かれていますから、この時にはすでにイエスさまのことはユダヤの隅々まで広まっていたことが分かります。さらに、「ティルスやシドン」と書かれていますので、これはユダヤ・イスラエルの北のレバノンにあたります。そのように、ユダヤを超えて他の国までイエスさまのことは知れ渡っていったことが分かります。そしてそれらの地方から人々がイエスさまのもとに集まっていました。なんのために集まってきたかというと、18節に「イエスの教えを聞くため、また病気を癒していただくため」と書かれています。この二つの目的で集まってきていたというのです。

教えを聞くために

 まず、「教えを聞くため」に集まってきました。
 この世の中には、いろいろな教えがあります。算数や理科を学ぶならば学校へ行けば良いでしょう。音楽や芸術を学びたいならば、その先生に教わればよいでしょう。また、この世を上手に生きるための知恵を教わりたいならば、人生経験豊富な年長者に聞けばよいでしょう。あるいは、お金の儲け方を教わりたいならば、そういうことを教えてくれる人もいることでしょう。
 しかしイエスさまのところに集まってきた人々は、なんの教えを聞くために集まってきたのでしょうか? ユダヤ全土から、さらに隣の国から、いったい何の教えを聞くために集まってきたのでしょうか?
 それはまさに私たちが今ここに集まってきていることと同じであると言えます。すなわち、神の言葉を聴くために、この人々は全国から集まってきたのです。私たちは神の言葉を何処に行ったら聴くことができるのか。なるほど、自称、神のお告げを受けたという人は世の中にたくさんいることでしょう。しかし本当の神の言葉は、何処に行ったら聴くことができるのか?
 イエスさまの当時で言えば、一応、聖書の専門家である律法学者、それからファリサイ派の人々がいました。またエルサレムの神殿に行けば、祭司がいました。しかし人々は、それらの人々のところにではなく、今やイエスさまのところに集まってきたのです。イエスさまの語られる言葉を通して、神の言葉を聴くために集まってきたのです。

イエスさまに触れるために

 次に、この人々は、「病気を癒していただくために」来ていたと書かれています。
 今日のような病院などない時代です。医学も発展していない時代です。ほとんどの病気には、なすすべもないという時代です。そこに、イエス様という方がいて、奇跡によって病気を癒される、という噂が広まりました。それで人々は遠くから、まさにイエスさまにすがる思いでやって来たのです。19節には、「群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした」と書かれています。なぜかというと、「イエスから力が出て、すべての人の病気を癒していたからである」と書かれています。
 イエスさまから力が出ていた。だからそのイエスさまに触れて、病気を癒してもらうために集まってきていたのです。

パワースポット

 話は違いますが、近年の流行語に「パワースポット」という言葉があるのを、皆さんもご存知であろうかと思います。パワースポットというのは、心や体が癒されたり、あるいは何となく不思議な力が与えられるような場所という意味だそうです。
 先日、三重県の山田教会牧師の井ノ川先生と話をしていましたら、なんと昨年の伊勢神宮の参拝者は、過去最高を記録したそうです。山田教会は伊勢神宮の目の前にある教会です。伊勢神宮と言えば、もちろん知らない人はいないほど有名な神社ですが、それが21世紀の現在になって、統計上記録が残っている限りで、昨年、過去最高の参拝者数を数えたというのです。わたしはびっくりして、「なぜですか?」と聞きました。すると井ノ川先生は、「パワースポット・ブームだそうです」と言うではありませんか。
 特にこのパワースポット・ブームの中心は、若い女性だそうです。若い女性が、あちこちの神社を巡り歩いているそうです。そのブームが、それほどとは知りませんでした。パワースポット、というのはまさに「スポット」ですから、場所ですね。昔の言い方をすれば、霊験あらたかな場所、ということになります。
 キリスト教、特にプロテスタントでは、そのような考え方がありません。カトリックには、例えば「ルルドの泉」などがありますが、プロテスタントではありません。むしろプロテスタントでは、そのような目に見える場所や物を神聖視することを否定してきました。だからプロテスタント教会では、カトリック信徒が持っているようなロザリオを持ちませんでしたし、十字架を身につけることもあまりしてきませんでした。また、礼拝堂の造りもシンプルで、聖壇の囲いも取っ払って、中には十字架さえない礼拝堂もあったり、まるで学校の教室と変わらないような造りの教会もあります。
 それは「御言葉のみ」ということを強調する意味があったかと思います。聖書のみ、御言葉のみ、ということはたしかにプロテスタント教会の特徴の一つであると思います。しかしその「御言葉のみ」ということが間違うと、何か教会に勉強しに来ているかのような印象が強くなってしまうことがあります。礼拝に来ているというよりも、聖書の勉強をしに来ているのである、と。実際に、ある牧師が、「うちの教会の信徒は、教会に行くことを『聞きに行く』と言う」と言って嘆いていたことを思い出します。
 そのように、私たちプロテスタントの教会では、ともすると礼拝しに行くと言うよりも、「説教を聞きに行く」とか、「聖書を勉強しに行く」ということになってしまうことになりかねないことは、注意しなければならないと思います。なぜなら今日の聖書が書いているように、「イエスの教えを聞くため」というだけではまだ半分なのです。19節に書かれているように、「何とかしてイエスに触れようとした」とある通りです。
 先ほどの「パワースポット」ということで言えば、たしかに私たちプロテスタント教会の敷地も建物も、何も神秘的な印象はないかもしれません。また、特定の場所や物体にパワーがあるとは考えないのも事実です。しかし私たちが忘れてはならないのは、いわゆる「パワースポット・ブーム」のパワーどころではない。真のパワーの持ち主であるイエスさまがおられる。偉大なパワーの持ち主であるイエスさまがおられる。それが礼拝ということである。この事を忘れてはなりません。19節に「イエスから力が出て」と書かれているとおりです。
 そして礼拝とは、このまことのパワーの持ち主である、イエスさまにお会いするために来るのであるということです。「お話を聞く」ためだけに来るのではありません。イエスさまに触れようとして集うのです。(マタイ18:20)「 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」とイエスさまが言われたとおりです。
 今までの日本の教会の歩みを振り返ってみた時に、このことを軽んじてきたのではないかと思います。「お話を聞く」「勉強をしに行く」という、知識ばかりを重んじて、目には見えない聖霊によってここに生きておられ、そのイエスさまに触れて力をいただく、という面が重視されてこなかったのではないかと思います。そこは悔い改めなければなりません。

癒しについて

 さて、もう一つの問題は、今日の聖書で、「イエスから力が出て、すべての人の病気を癒していた」と書かれていることです。しかし今日の私たちの間で、イエスさまを信じているのに病気が癒されない、ということがあるからです。これはいったいどうしたことだろうか、と私たちは疑問に思うのです。
 これは前にもお話ししましたように、一つは、この時のイエスさまの癒しは、天国での癒しの予言であるということです。私たちはこの地上では、すべて癒されるのではないかもしれない。しかし、天の国に行った時には、完全に癒されるということです。そのことをイエスさまは、明らかにされたのです。
 実際、この時イエスさまに癒していただいた人々も、やがて死んだのです。死なないでこの21世紀に至るまで生きてる人などいません。しかし今日の聖書で、皆イエスさまに癒されたということは、天の国で直接イエスさまにお会いする。その時には完全に癒されて、永遠の命を生きるということ。その予言です。従って、今地上において病気で苦しんでいる者も、天の国では全く癒されるという希望が与えられているのです。
 次に、病や生涯が癒されないからと言って、神さまに見離されたのではないということです。これも今年の元旦礼拝の時に取り上げた、ローズンゲンの今年の聖句の通りです。コリントの信徒への第2の手紙12:9、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。
 使徒パウロにも病気を癒す聖霊の賜物が与えられていて、多くの人の病気を癒しました。しかしそのパウロ自身は、病気を抱えていました。そしてそれを癒してくださるよう、主に祈りました。しかしその御言葉を主はパウロに与えられたのです。それはパウロが高慢にならないように主から与えられたトゲでした。
 私自身、これもしばしばお話ししているように、赤ちゃんの時と、23歳の時と、二度、死にかけた命を主によって助けていただきました。しかしそれで完全に癒されたわけではありませんでした。その後も、ぜん息という病気が付きまとうこととなりました。時には、夜も眠れないほど息苦しい日々が続いたこともありました。私もパウロと同様、何度もこの病を取り去ってくださるように主に祈りました。
 しかし今思えば、この病気のために得たものもありました。その一つが、病気の人の苦しみが少しは分かるということです。もし自分が健康なままであったとしたら、高慢な私は病気の人の苦しみが理解できなかったことでしょう。
 また、病気や障害のために、神さまに用いられる人もいます。例えば私もむかし大きな感動を与えられた水野源三さん。小学生の時に高熱を発して、脳性麻痺となり、全身が動かせず、しゃべることもできなくなってしまった人です。しかしこの人がキリストと出会い、クリスチャンとなって、やがて「瞬きの詩人」と呼ばれるようになりました。その結果、多くの人がその詩を読んで感動し、キリストへ導かれることとなりました。神さまによって用いられたのです。
 しかし、私たちはイエスさまに癒しを求めて祈ってよいのです。実際私はそのように祈ります。また聖書はそのように祈るべきことを教えています。癒されるように祈る。そしてあとは神さまが最善をなしてくださることを信じて、おゆだねするのです。

聖霊によって臨在するイエス

 いずれにせよ、私たちは聖書の言葉を勉強するために信仰生活を送っているのではありません。聖霊を通して生きておられるイエスさまの御言葉を聞くために、そして生きておられるイエスさまに触れ、その力をいただくために礼拝しているのです。そしてあわれみ深いイエスさまは、求める者を拒むことはなさらないのです。


(2012年7月22日)



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