礼拝説教 2012年7月15日

「選ばれた人」
 聖書 ルカによる福音書6章12〜16 (旧約 創世記49:28)

12 そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。
13 朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。
14 それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、
15 マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、
16 ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。





 イエスさまが12人の弟子を選んで、「使徒」と名付けられました。このことについて神さまの恵みをいただきたいと思います。

徹夜で祈るイエスさま

 まず今日の聖書を読むと、イエスさまの回りには多くの弟子がいたことが分かります。ここで言う「弟子」というのは、「学ぶ者」という意味です。イエスさまという先生に付き従って、学ぶ者。それが聖書で言う弟子です。そしてイエスさまはその弟子の中からとくに12人を選んで、「使徒」という名前を付けられました。「使徒」というのは、使者という意味です。とくに、遣わした者の権威とゆだねられた使命をもって派遣された人という意味であり、全権大使という意味もあるようです。つまり、イエスさまの代理として派遣される人という意味になります。
 さて、12節に「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」と書かれています。つまり、使徒を選ぶために徹夜をして神に祈られたというのです。
 私たちは徹夜して神に答えを求めて祈ったことがあるでしょうか。本当に心配で困って、なんとしても神さまに助けていただきたく、心配で眠れない時には祈ったことがあるかもしれません。
 そのように考えてみると、この時のイエスさまがどれほどの思いで祈られたかということが少し分かるのではないでしょうか。もちろんイエスさまは、不安で心配で徹夜をされたのではありません。父なる神さまの御心を求めて、ただ神さまの答えを求めて必死に祈られたのです。それほどの思いが、この12使徒を選ぶということにあったのです。神さまの答えをいただくためには、時にはそのようにして祈り求めるものであることを教えられます。

12使徒

 そうして朝になって、イエスさまは弟子たちを呼び集め、その中からそこに名前が書かれている12人をお選びになり、使徒と名付けられました。
 「12」という数は、人によっては中途半端だと思われるかも知れません。たしかに10とか、20とかいう数字のほうが切りが良いように感じます。しかし実にこの12という数に意味があるのです。それは、旧約聖書のイスラエルの民と関係があります。今日はもう一個所、創世記49章28節を読んでいただきました。そこにも書かれていますように、旧約聖書で神から選ばれた民であるイスラエルの民が12部族からなっていました。その12部族というのは、「イスラエル」という名前を与えられたヤコブの12人の息子に由来しています。ヤコブはアブラハムの孫です。このイスラエルの12部族が、神から選ばれた民であり、旧約聖書はこの民を舞台にして展開しています。
 しかしその神の民とはアブラハムの孫であるイスラエルの子孫です。つまり、旧約聖書の神の民である12部族は、イスラエルの子孫でなくてはならない。イスラエルの家系につながっていなければならないのです。そうすると私たちは、イスラエルと血がつながっていないからなんの関係も無いということになります。それに対してイエスさまが12使徒をお選びになった。これは、イスラエルの12部族に代わって、新しいイスラエル、すなわち新しい神の民を選ばれたのです。それは信仰による民です。血がつながっていないとか、そんなことは関係なくなったのです。イエスさまを信じる者が新しい神の民であるということです。
 そしてこの12使徒を中心として教会が誕生することとなります。「使徒」とは先ほど申し上げたように、イエスさまの権威と使命を持って遣わされる全権大使です。イエスさまの代理です。イエスさまのあと、全世界に向かって福音を伝道していく責任者です。そんなにたいせつな12人を、徹夜して神に祈って、お決めになったのです。

不思議な人選

 さて、そのように、して選ばれた12人ですが、その顔ぶれを見ると、私たちは首をかしげたくなるのではないでしょうか。イエスさまの代理として、イエスさまが天に帰られたあとは、教会の指導者として世界に向かってキリストを宣べ伝えていくという大事な人をお選びになったにしては、この人選はあまりにも私たちの考え方とはかけ離れているように思えるからです。
 まずこの12人は、全く無名の人々です。例えば、もし私たちが新しい事業を興すとしたらどうでしょうか。そしてやがて世界に向かってその事業を発展させていくのだと考えたとしたらどうでしょうか。おそらくいろいろな人を面接して、試験をして、有能な人を選ぶことでしょう。また、有名人がいればその人を起用して、宣伝に使うでしょう。資産家がいれば、そういう人も加えて資金の提供を期待することでしょう。政治家がいれば、そのような人も加えて便宜を図ってもらおうとすることでしょう。つまり、なるべく事業に役立ちそうな人を仲間に加えることでしょう。
 しかしこのイエスさまが祈ってお選びになった12人はどうでしょう。全く無名の庶民です。ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの少なくとも4人は漁師です。マタイは徴税人です。その他の人の職業がなんであったかは聖書に書かれていません。いずれにしても無名の人々です。
 では、無名でも良いが、非常に徳の高い人をお選びになったのでしょうか。誰が見ても人格者で、高潔な人をお選びになったのでしょうか。これから神の国の福音を宣べ伝えていくのですから、世間の人々が感心するような、そういう人々をお選びになったに違いないと思われるでしょう。
 しかしこの点についてもまた期待外れの人々なのです。例えばマルコによる福音書の10章を見ると、12使徒のうちのヤコブとヨハネがイエスさまが栄光をお受けになったら、自分たちをイエスさまの右と左に置いて下さいとお願いしました。つまりヤコブとヨハネは、イエスさまが新しい王となることを期待し、自分たちを右大臣、左大臣にしてくれと頼んだのです。イエスさまが十字架に行かれることも悟らずに。なんともあさましいことです。
 そのように、この12人は有能な人々であるというわけでもなく、有名人でもなく、この世の実力者でもない。そして徳があり、清廉潔白な人々であるかと言えば、それも違う。ではせめて、イエスさまに対して忠実な人たち、どこまでも忠実にイエスさまに従って行く人たちであったかというと、それも違うのです。
 16節の最後の所をご覧ください。「それに裏切り者となったイスカリオテのユダである」と書かれています。ユダについてはあまりにも有名です。イエスさまを銀貨30枚で裏切ったのです。しかし、ユダばかりがイエスさまを裏切ったのではありません。ご承知のように、一番弟子と目されたペトロも、イエスさまが逮捕されたあと、自分も巻き添えを食うのが恐ろしくて、3度もイエスさまのことを知らないと言って、イエスさまを裏切ったのです。イエスさまのためなら死んでもよい、と言ったにもかかわらずです。その他の使徒たちも、イエスさまが逮捕された時に、皆イエスさまを見捨てて逃げていきました。
 そのように考えると、イエスさまに忠実な人たちでもないということになります。

弱い私たちを選ばれた主

 そうすると、私たちから見ると、この12使徒をお選びになったことは、完全な失敗だったように思えます。徹夜して祈られてお決めになったにしては、なんともお粗末な結果に終わったのではないかと思えます。
 だいたい、イエスさまも父なる神さまも、この12人が十字架の前にはイエスさまを見捨てたり裏切ったりする者たちであることをご存知ではなかったのでしょうか。しかし、このあとの聖書を読んでいくと、12人がイエスさまを見捨てることを、イエスさまはご存知であったことが分かります。
 そうすると、イエスさまは、この弟子たちが人間的に弱い者であることをご存知の上でお選びになったということになります。もしかしたら主であるイエスさまを見捨てるかもしれない、このあまりも情けない、信仰の弱い、人間としても弱い者たちであることをご存知の上で、あえてお選びになったということになります。いったいそれはなぜなのか?‥‥実はそこに私たちとのつながりがあります。
 私たちは使徒ではありませんが、やはりキリストによって選ばれた者であると聖書は書いています。例えばエフェソの信徒への手紙の1章4節には次のように書かれています。=「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」
 なんと天地創造の前に、キリストによって選ばれたと記されています。私たちもキリストによって選ばれた者です。世界のすべての人々を救おうと願っておられる神が、まず私たちをお選びになった。そして導かれて、キリストを信じる者となった。それも神の御計画です。しかしその時思うのは、「神はなぜこんな私のような者をお選びになったのか?」ということです。つまずきやすい自分、すぐに神を忘れてしまう自分、高慢になりやすく、愛することに遅く、失敗ばかりして、その上どうしようもなく弱い‥‥。こんな私たちのような者を、どうして神はキリストにおいてお選びになったのか、と思います。
 それは、こんな弱い私たちであることを主はご存知の上で、私たちをお選びになった、ということです。私たちが、過ちを犯しやすく、すぐに不平不満を言い、神を信じることを忘れてしまいやすい、愛の足りない、弱い、そういう私たちであることをご存知の上で、お選びになったということです。そしてそういう弱い私たちを助け、祝福し、愛し、さらに聖霊によって変えていってくださることをなさる。まことに感謝と言うほかはありません。
 むかし、クリスチャンではない友達から、私の足りないところを見て、「それでもクリスチャンか」とからかって言われたことがありました。私は今でははっきりと答えることができます。「そうだ。これでもクリスチャンだ。こんなオレでも弟子にして下さるイエスさまは、本当にありがたい」と。


(2012年7月15日)



[説教の見出しページに戻る]