礼拝説教 2012年7月8日

「是非の基準」
 聖書 ルカによる福音書6章6〜11 (旧約 詩編92:1〜6)

6 また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。
7 律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。
8 イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。
9 そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」
10 そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。
11 ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。





引きつづき安息日に

 ‥‥さて今日の聖書ですが、前回に続いて「安息日」の出来事として書かれています。今回は、麦畑ではなく会堂が舞台です。ユダヤ人は安息日には仕事を休んで近くの会堂に行って神を礼拝しました。イエスさまと弟子たちも、会堂に行って礼拝を守りました。
 ところがまたそこで事件が起きるのです。それは、イエスさまが1人の片手の萎えた人をお癒しになったことによるものです。その結果、律法学者やファリサイ派の人々が「イエスを何とかしようと話し合った」(11節)というのです。この「何とかしようと」というのはどうしようということなのかと言えば、同じ出来事について書いてあるマルコによる福音書の3章6節には「どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」と書かれています。すなわち、安息日にイエスさまが1人の片手の不自由な人の手を癒された結果、律法学者やファリサイ派の人々が、イエスさまを殺す相談を始めたのです。
 これには私たちはたいへん驚かされます。なぜイエスさまが安息日に片手の萎えた人の手をお癒しになったことが、殺されるということにつながるのか?
 すでに、イエスさまのなさることに対して、人々の指導者であるファリサイ派や律法学者たちが反発をしていたことはご存知の通りですが、ここに至ってイエスさまを死刑にしようと考え始めました。今日の7節でも、「律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気を癒されるかどうか注目していた」と書かれています。すなわち、ファリサイ派や律法学者たちは、イエスさまを律法違反で訴える証拠を集めつているのです。

安息日についての律法

 安息日に仕事をしてはならないというのは、旧約聖書の十戒の中にある掟でした。(出エジプト記20:8〜10)「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、なんであれあなたの仕事をし、七日目はあなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」と記されています。そして安息日に仕事をしてはならないというのは、なぜそうなのかと言えば、安息日に働かなくても心配ない、神さまがちゃんとその分を与えて下さるということであることを、前回学びました。何も食べる物が無い荒れ野を放浪したイスラエルの民に対して、神さまは、安息日の前の日には、二日分のマナを降らせ、安息日には休めるようにして下さったのです。
 だからもともと安息日は、7日目は働かなくても、生きるために必要なものを神さまがちゃんと与えて下さるので、安心して休み、神さまを礼拝することができるという日でした。すなわち、神を信じていきることの大切さを教えようとしたのです。しかし、そうは言っても、やはり安息日に働こうとする人がいました。七日目は働かなくても、神さまが養ってくださることを信じられない人がいたのです。
 それで、出エジプト記31:14にはこう書かれています。「安息日を守りなさい。それはあなたたちにとって聖なる日である。それを汚す者は、必ず死刑に処せられる。誰でもこの日に仕事をするものは、民の中から断たれる」。‥‥そのようにして、律法には、安息日に仕事をする者は死刑に処せられると書かれているのです。それでファリサイ派や律法学者たちは、イエスさまが律法違反をするのを狙っていたのです。
 そして今日、どうしてイエスさまを殺す相談を始めたかと言えば、イエスさまが片手の萎えた人をお癒しになった、それが治療行為という仕事に当たるとみなしたのです。医者が病気を治すのは仕事です。それと同じように、イエスさまが片手の萎えた人を癒したということが、仕事に当たるとみなした。それでそれは安息日の律法違反である。厳格にそれを適用するならば死刑である‥‥ということです。そしてファリサイ派や律法学者は、厳格に神の律法を守ろうとしている人々でした。だから彼らなりにまじめに考え、安息日の律法を公然と破るイエスという男はなんとしても死刑にしなければならないと考え始めたのです。

主イエスの奇跡は神のわざ

 それに対してイエスさまが反論なさいます。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」そして、片手の萎えた人に向かって「手を伸ばしなさい」と言われました。すると彼の手は癒され、元通りとなりました。
 これは奇跡です。すなわち、神さまの業です。この片手の萎えていた人に対して、イエスさまは手術をしたり、あるいは薬を飲ませて治したのではありません。「手を伸ばしなさい」とその人にお命じになったのです。すると癒されたのです。すなわちこれは奇跡です。神さまの業です。神が癒されたのです。
 いっぽう、安息日の律法は誰が決めたのでしょうか? それも神さまです。この人の手を癒されたのは誰でしょうか? 神さまです。‥‥安息日の律法をお決めになった神さまが、安息日にこの人をお癒しになった。だからイエスさまがなさったことが、律法違反であるはずもありません。
 ところがファリサイ派と律法学者たちは、この奇跡のあと、イエスさまを何とかしようとして話し合った。このことにも驚かされます。彼らは、イエスさまがなさったこのすばらしい奇跡が、すばらしいとは思えなかった。私たちは、片手の萎えた人の手が癒されれば、驚きます。神さまの業だと思います。ところが彼らは、そう思わなかった。‥‥イエスさまを訴える証拠集めのことだけ考えていて、このすばらしい神の奇跡が見えなくなっていたのです。そして安息日に働いたイエスさまを見て、イエスさまを殺す相談を始めたのです。
 これは言い換えれば、イエスさまは、この1人の人の手を癒すために命をかけられたということになります。驚くべきことです。この名前も書かれていない、ひとりの手の不自由な人の手を癒すために、命をかけられた。ものすごい愛です。今日の聖書は、このイエスさまによって、初めて本当の安息が与えられることを教えています。

安息は主イエスが与えるもの

 ある人は、今日の聖書を読んで、「宗教など信じているからややこしいことになるのだ」と思うでしょう。最初から神さまを信じていなければ、律法も何も無いし、全く自由ではないか、安息日の律法などに縛られることになるのだ、と思われるでしょう。ではなにも信じなければ自由で安息があるのでしょうか?
 私は、以前もお話ししたように、幼い時に神様への祈りによって命を助けられました。そのように神さまによって命を助けられたのに、大学生になってから神さまを信じなくなり、教会にも行かなくなりました。その時、私は思いました。「これで自分は自由になった。もう神を信じないから、教会にも行かない。日曜日も昼まで寝ていられる。ああ、自由になった」‥‥。これこそ安息だと思いました。
 しかしそれから私がたどった日々は、破滅への道でした。神さまを信じなくなると、何が善いことで何が悪いことであるかが分からなくなったのです。正しいのは自分であり、他の人が間違っている、世の中が間違っていると思うようになりました。平気で他人を裁くようになりました。また、でたらめな生活が始まりました。それだけではありません。文句ばかり言うようになりました。いつも不平不満ばかり言うようになりました。自分がうまくいかないのは、誰かのせいであり、社会のせいである。
 そしてさらに、いろいろな不安が生じてきました。将来への不安、現状に対する不安です。ちっとも安息ではない。それで不満や不安を紛らわすために、毎晩お酒やギャンブルに興じていました。その結果、再び病気が再発して、再び死の淵まで行くことになってしまったのです。
 そんな私を再び主は救ってくださいました。そして私は悟らせていただいたのです。本当の安息は、イエスさまのところにあるのだと。イエスさまが与えて下さるものであると。神さま、イエスさまを信じないことは、自由になったようで自由ではなかった。罪のとりことなり、悪魔によって束縛されてしまっていたのです。
 安息はイエスさまのもとにあります。この1人の人の手を癒すために、命を狙われることになった。つまり命がけで1人の人を救ってくださるイエスさまが、この私たち一人一人を同じように愛してくださっているのです。そのイエスさまの愛の中に安息があるのです。
 旧約聖書では安息日は週の終わりの日、すなわち土曜日でした。キリスト教会は安息日を一日ずらして、週の初めの日、すなわち日曜日といたしました。それはもはや「安息日」とは呼ばれずに「主の日」と呼ぶようになりました。それはイエスさまを信じるところに本当の安息があることを示しています。その主の日に私たちは集まって主を礼拝し、本当の安息をいただくことができるのです。まことに感謝です。


(2012年7月8日)



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