礼拝説教 2012年6月17日

「古くて新しいもの」
 聖書 ルカによる福音書5章36〜39 (旧約 ダニエル書7章13〜14)

36 そして、イエスはたとえを話された。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。
37 また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。
38 新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。
39 また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」





新しいぶどう酒は新しい革袋に入れよ

 「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れねばならない」と38節でイエスさまはおっしゃっています。
 この言葉は、この世の中でも広くことわざとして使われています。それは、新しい時代には、それまでの古いやり方ではなく、新しい時代に合った発想や方法が必要だというような意味で使われています。例えば、今日ではインターネットが当たり前のように普及しています。インターネットのホームページの無い企業や教会は、まるでこの世に存在しない団体であるかのように思われます。しかし今から20年前に、いったい誰がインターネットというものがこのように普及することを予想したことでしょうか。しかし今では、例えば、アラブ諸国で起こっている民主化運動は、様々な情報がインターネットで自由に広まったことが一因にあると言われています。それが国の政権が倒れるということに結び付いていきます。もう政府が情報を統制できる時代ではなくなったのです。政治家は、そのことを考えて政治をしなくてはならなくなったのです。例えばそのような意味で使われています。
 イエスさまは、「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れねばならない」とおっしゃいました。ぶどう酒というのは、この地方の普通の飲み物でした。それを革で造った革袋に入れて持ち運んだのです。そしてこの「新しいぶどう酒」とは、まだ発酵が続いているぶどう酒のことです。発酵が続いているから、ぶどう酒から炭酸ガスが発生します。すると革袋が膨張していきます。膨張しても、新しい革袋であれば弾力があって、袋が膨らんでも耐えられるのですが、古い革袋だと、発酵の膨張に耐えられなくて袋が破れてしまうのです。だから新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れなければ持ちません。
 その前の36節では、新しい服から取った布きれで古い服に継ぎを当てるたとえを話されています。服に継ぎを当てるということは、現在ではほとんどされなくなりましたが、わたくしが子どものころはまだ普通にされていたことです。新しい布は、洗濯すると古い服に比べて大きく縮みます。すると古い服に継ぎを当てられた新しい布がひどく縮んで、古い服が破れてしまうということを言っておられます。
 この、ぶどう酒と、継ぎを当てることの二つのたとえは、人々が聞いてよく分かったことでしょう。

イエスという新しい方

 さて、問題は、イエスさまがここで言っておられる「新しいぶどう酒」のたとえ、そして「布きれ」のたとえは、いったい何を言おうとされているのか、ということです。「新しいぶどう酒」そして「新しい服から取った布きれ」とはいったい何を指しているのか?
 それはイエスさまのことを指していると言えます。あるいは、イエスさまを信じることを指していると言えます。イエスさまを信じるということは、それまで人々が考えていた宗教というものとは、だいぶ異なっているということです。
 今日の個所は、27節からずっと続いているできごとの中にあります。‥‥徴税人のレビという人に、イエスさまが従ってくるように招かれた。レビは直ちに何もかも捨ててイエスさまに従いました。そして、自分の家にイエスさまと弟子たちを招き、さらに徴税人仲間や友人知人を招いて、宴会を開きました。それを見ていた厳格な宗教家であるファリサイ派や律法学者たちが、イエスさまを批判しました。他の宗教家たちはみな断食ということをしているのに、イエスさまは断食をしている様子はない。食べたり飲んだりしている、と。それはおよそまじめに神を信じているとは言えない、というのです。
 それに対してイエスさまは、この前のところで「婚礼の席に招かれた客」にたとえて答えられました。婚礼はとてもおめでたい席です。その婚礼の席で、しかも花婿がそこにいるのに、断食をしたとしたらそれは最もふさわしくない、と。そしてそれは、イエスさまという神の御子がこの世に来られたのだから、喜び祝うのがふさわしいのであって、断食はふさわしくないということを暗に言っておられるのでした。
 そしてきょうのところでさらにイエスさまは、この「新しいぶどう酒」のたとえと「継ぎを当てるための布きれ」のたとえを話されたのです。新しい服から取った布きれで古い服に継ぎを当てると、洗濯をした時に継ぎがひどく縮んで服を破いてしまう。それと同じように、イエスさまという方を信じた時には、それまでの古い考え方、習慣には合わない。また、新しいぶどう酒を古い革袋に入れておくと、古くて固い革袋が発酵に耐えられなくて破れてしまうように、イエスさまという方は、私たちが新しい革袋にならないと収まらない方であるのです。
 それまでの宗教は、ファリサイ派のように、暗く深刻な顔をして1週間に2度断食をするものでした。断食をし、罪人や徴税人には近づかずに自らを清い状態に保とうとしました。苦行や修行をし、自分の力で神に近づこうとしていました。頑張って頑張って、人間の力で必死に神に近づこうとした。だから暗い顔になり、深刻な表情になりました。しかし実は、イエスさまと共に神の国が来ている。神さまが来られたのですから、うれしいし喜びとなります。感謝が表れます。もう来ておられる神の子イエスさまと共に歩んでいくのです。

ベサニー・ハミルトン、「ソウル・サーファー」

 6月9日から、全国の映画館で「ソウル・サーファー」という映画が上映されています。主人公は、ベサニー・ハミルトンという実在の少女であり、実在の物語です。その映画のもととなった彼女の書いた映画と同名の「ソウル・サーファー」という本を読みました。先週、横浜キリスト教書店の人が持ってきたので買ってみたのです。
 ベサニー・ハミルトンは、この本を書いた時点で14歳でした。プロのサーファーを目指す、サーフィンの大好きな少女です。彼女がなぜサーフィン大好きになったかというと、彼女の両親がまたサーファーだったことが大きいようです。彼女の両親は、それぞれアメリカ本土で暮らしていましたが、二人とも若い日にサーフィンのメッカであるハワイに住むようになりました。そしてそこでであって結婚したというほどサーフィン大好きな両親だったのです。その両親のもとで育ったベサニーは、幼いころからサーフィンに興じるようになり、8歳の時にはオアフ島で開かれたサーフィンのコンテストの7〜9歳の女子の部門で優勝しました。以来大活躍を見せるようになりました。そしてプロのサーファーを目指すようになりました。またスポンサーがつくようになりました。
 その彼女は、5歳の時にキリストを信じるようになったそうです。そしてこう言っています。「わたしにとって神さまと固い絆を持つことは、サーフィンよりも大切だ」と。
 そのベサニー・ハミルトンが13歳の時のことです。ある日、友達といっしょに海にサーフィンに出かけました。サーフボードに腹ばいになり、海に浮かびながら大きな波の来るのを待っていました。その時、左側から近づいてくる灰色の大きな物体にハッとしました。それは巨大なイタチザメだったのです。サメは、サーフボードに乗っていた彼女の左腕を、サーフボードごとかみちぎったのです。肩まで食いちぎられた。まるでティッシュペーパーを引きちぎるみたいに、かみちぎったそうです。不思議とその時は痛みを感じなかった。しかし大量の出血となりました。近くにいた仲間が気がついて、とにかく仲間の協力で岸まで戻ろうとしました。しかし岸まで400メートルもありました。その時彼女は、死ぬかもしれないと思い、「お願い神さま、わたしを助けて下さい。神さま、わたしを浜に着けてください」と繰り返して祈ったそうです。そうして、浜につくまでの15分間、「死ぬかもしれない」という恐れが、祈りによって「わたしは神さまによって守られている」という思いになったそうです。
 ビーチに着いて、近くにいた人が応急手当をしてくれました。しかし、救急車が来るのが永遠に長い時間に思われたそうです。救急車が来て、救急隊員が手を握り「神さまは決して君を見捨てないよ」とささやいたそうです。
 この事件の連絡を受けた友人のサラが、ベサニーの兄のノアのそばにいて、御言葉をくださいとお祈りしたら、旧約聖書の1節が与えられた。 「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである」(エレミヤ書29:11)。また、サラと兄のノアがカウアイ島中のクリスチャンの友達に電話して、祈りを依頼したそうです。
 彼女は、体の半分の出血をし、左腕は肩から先を失ったそうですが、助かりました。そして、このことをマスコミが注目するようになりました。鮫に襲われた少女と。そして取材の申し込みが殺到したそうです。しかし、ふつうなら、顔も名前も伏せ、取材を断るでしょう。そっとして置いてくれ、と。しかしベサニーは、取材を受けることにしたのです。「わたしは決意した。テレビに出て自分の体験を語ろう。キリスト教の信仰にどんなに助けられたかを自由に話せるのならなおさらだ」。こうして全米の注目を集めるようになったのです。
 彼女は本の中で述べています。‥‥「わたしは、サメに襲われたことを大げさなメロドラマに仕立てないように気をつけている。それよりも焦点を当てているのは、わたしがそれまでの人生から拾ったかけらの数々を、以前とは違う新しい自分のパーツに合わせていることだ。言わば神さまは、つかの間限りの世界の注目を与えてくれたのだ。できるだけ役に立つように活用した方がいい。」 正直言うと、サメに襲われたことは何週間も何ヶ月も気持ちの整理をし続けたそうです。「でも、わたしには土台となる硬い岩がある。それは、神さまがわたしを愛してくださり、どんなサメにももぎ取られないわたしの人生の計画をお持ちだと信じることだ。」と彼女は述べています。
(ベサニー・ハミルトン、『ソウル・サーファー』ヴィレッジブックス、より)
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 私はこの本を読んでとても感動しました。これを14歳の少女の書いているのです。14歳の少女が、54歳の私に感動を与え、信仰の励ましを与えてくれました。それは彼女が立派であるとか、偉いということではありません。彼女と共に生きて下さっているキリストが素晴らしいのです。常に新しい方であるイエス・キリストが、です。彼女を生かし、立ち直らせ、希望をお与えになっている。だから感動させられるのです。

古いぶどう酒

 今日の聖書の個所と同じことが、マタイ福音書とマルコ福音書のほうにも書いてあります。しかし39節の言葉は、このルカ福音書だけに記録されています。=「また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」 ぶどう酒というのは、良い状態で保存されたものであれば、古いもののほうが熟成されていてうまいそうですね。だから「古いものの方が良い」。しかし、今まではイエスさまという方が「新しいぶどう酒」にたとえられていました。今度は古いぶどう酒にたとえられています。
 これはいったいどうしてでしょうか?すなわち、イエスさまという方は、古いぶどう酒なのか、それとも新しいぶどう酒なのか?
 今日もう一個所読んでいただいた旧約聖書のダニエル書7:13に「日の老いたる者」という言葉が出て来ます。これは神さまのことです。神さまは、もっとも古い方です。何しろ天地創造、宇宙が造られる前からおられたのですから当たり前のことですが。そして聖書によれば、その御子であるイエスさまも永遠の昔からおられた方です。するとイエスさまは、実に古くからおられる方だということになります。最近登場してくる新興宗教の教祖のような方とは違うのです。もっとも古くからおられる方です。すべてをご存知の方です。
 そして同時に新しい方です。私たちにとっては常に新しい。このように古くて新しい方。それがイエスさまです。もっとも古くからおられる方が、新しいことをなさるのです。(Uコリント 5:17)「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」 このイエスさまと共に生きる時、私たちも新しく生きることができる。感謝です。


(2012年6月17日)



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