礼拝説教 2012年6月10日

「時を知る」
 聖書 ルカによる福音書5章33〜35 (旧約 イザヤ書62章5)

33 人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」
34 そこで、イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。
35 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」





レビの喜び

 前回のところでは、徴税人のレビがイエスさまの弟子となりました。「わたしに従いなさい」とイエスさまから声を掛けられたレビは、何もかも捨ててイエスさまに従いました。そしてイエスさまと弟子たち、さらに徴税人仲間や友人知人をを招待して、自分の家でお祝いの大宴会を開きました。
 レビは何がそんなにうれしかったのでしょうか?‥‥イエスさまは、地位もないし権力もない、どこかの学校に通ったり学者について学んだわけでもない。人間の目から見れば、名もなき庶民の出です。そのイエスさまの弟子となることが、なぜそれほどまでにうれしいことだったのか。
 私は今までいろいろな人が教会に来るようになって、そして洗礼を受けるのを見てきました。ある時、お母さんと共に3人のお子さんが一緒に洗礼を受けたことがありました。一番下のお子さんはまだ幼稚園児だったので、幼児洗礼でしたが、上の二人の小学生のお子さんはお母さんと共に信仰告白をして洗礼を受けました。おとなと同じように受洗準備会をし、そして役員会での受洗試問会の時を迎えました。そしてその小学生の女の子に質問がなされました。「なぜ洗礼を受けようと思いましたか?」すると彼女は、満面の笑みを浮かべて、「イエスさまが好きだから」と答えました。受洗試問会において、これほどの喜びを表した方は初めてでした。私はそのとき、本当に感動しました。
 とにかく、イエスさまのあとについていくことが喜びである。その理屈を抜きにしたようなところが、この時のレビにもあるように思います。

断食問答

 そして今日の聖書個所は、その続きです。「人々はイエスに言った」と書かれていますが、この「人々」というのは、前のところでイエスさまと弟子たちを非難したのと同じ人々、つまりファリサイ派や律法学者の先生たちです。前の個所で、この人々は、イエスさまが、徴税人や罪人と一緒に食べたり飲んだりしていることを非難しました。
 そしてきょうは、イエスさまと弟子たちが、なぜ断食をしないのか、と問うています。「ヨハネの弟子たちはたびたび断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています」と言っています。洗礼者ヨハネの弟子たちやファリサイ派の弟子たちは、しばしば断食している。それなのにイエスさまの弟子たちが断食するのを見たことがない。それどころか、しょっちゅう食べたり飲んだりしている‥‥。そのことを問うているのです。
 さてここで、断食ということを考えてみなければなりません。なぜ断食をするのでしょうか?何のために断食をするのか。例えば、旧約聖書のサムエル記下12章を見ると、ダビデに生まれてくる子が死ぬと言われて、ダビデが一週間断食して神に祈ったことが書かれています。ダビデが、バトシェバに対して姦淫の罪を犯し、その罰としてバトシェバに生まれてくる子が死ぬと、預言者ナタンから宣告されたのです。それでダビデは、一週間断食して、罰を免れるように神さまに懇談したのです。
 また、同じく旧約聖書のヨナ書を見ると、「あと40日したら、ニネベの都は滅びる」という預言者ヨナの言葉を聞いて、ニネベの都の人々は断食して神に祈りました。そうして滅びを免れたことが書かれています。
 そのように断食をするのは、食べる物を食べないで、罪を悔い改めて神さまに必死になって祈るということを表しているのです。それがそもそもの断食でした。つまり心から必死になって神に祈る結果、断食となったのです。最初は断食はそのように自然な信仰心から出たものでした。ところがだんだんと断食が形式化していったのです。断食をするということが、非常に信仰心のある熱心な行為だと賞賛されるようになりました。それで、世間の人々から「あの人たちは立派な人たちだ。敬虔な人たちだ」と言われたいために、断食をするという人々も出てきました。
 いずれにしても、断食は、神さまに祈り願いを聞いてもらおうとしてするのです。神さまに少しでも近づこうとして断食するのです。「自分は、食事を断ってまで熱心に断食しているのだから、神さまこの祈りを聴いてください」というわけです。
 そのようなわけで、ファリサイ派やヨハネの弟子たちという宗教者たちはしばしば断食して神に祈り願っていました。ファリサイ派などは、一週間のうちの月曜日と木曜日の二度断食したそうです。この場合の断食とは、日の出から日没までの間に食事をとらないという断食です。そんなに熱心になって断食して信仰生活をしているのに、なぜイエスさまの弟子たちは断食もしないで、食べたり飲んだりしているのか、というわけです。およそ信仰者らしくないではないか、というのです。

婚礼の客

 するとイエスさまはおっしゃいました。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか」と。
 結婚というのは、人生の一大イベントです。とくにこの二千年前の当時は、結婚披露宴が盛大におこなわれました。何と一週間も続いたと言われています。貧しかった時代です。人生が短く、またレジャーの少なかった時代です。婚礼は多くの人々がお祝いに集い、お祭りのように地域を挙げて喜んだのです。そのおめでたい婚礼の席に、断食をさせる人がいるだろうか、とイエスさまは逆に言われたのです。ましてや、その籍に花婿がいるのに断食をする人はいません。一緒になって喜び、祝い、食事をし、飲んだり食べたりするに決まっています。むしろ断食は、婚礼の席に最もふさわしくありません。
 さて、そうするとイエスさまが言われた、「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか」とは、いったい何のことを指しているのでしょうか?‥‥今イエスさまが弟子たちと共に、そして徴税人レビやその仲間たちと共に食べたり飲んだりしている。それが花婿が一緒にいる婚礼の席であると。では「花婿」とは誰のことでしょうか?‥‥ちょっと謎めいていますが、これはイエスさまのことです。すなわちここは、「イエスさまという花婿が来ているのに、断食するのか?」ということになります。ここでの問題は、「イエスさまという方は、いったい誰か?何者か?」ということになります。
 イエスさまが神の子であるとしたらどうでしょう。神の子が来て下さったのに、そして今ここにおられるのに断食をするということはふさわしいことなのか、ということです。断食はなぜするかと言えば、先ほど述べましたように「神さま、断食してお願いしているのですから、どうか願いを聞いてください」ということです。これをもう少し別の言い方をすれば、神さまにお目にかかるために断食すると言うことになります。「断食してお願いしているのですから、神さまどうかわたしにお会いください」ということです。
 しかしもしイエスさまが神の子であり、神さまの所から来られた方であるならば、神さまがここに来ておられるということになります。そうすると、神さまがここに来て下さっているのに、「神さまにお目にかかりたい」と言って断食するのは、いかにもおかしいことに違いありません。もう神さまが来ておられるのですから。イエスさまがおられるということはそういうことです。 「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか」。今目の前にイエスさまがおられる、神さまはそこにおられる。これはもう喜び祝うのは当たり前ではないか。そういうことです。

断食の否定ではない

 しかしイエスさまは断食そのものを否定なさったのではありません。なぜなら、イエスさま御自身も、世に出られる前に、荒れ野で40日間断食をして神さまとの祈りの時を持たれました。また35節では、「しかし花婿が奪い去られる時が来る。その時には彼らは断食することになる」とおっしゃいました。「花婿が奪い去られる時」というのは、やがてイエスさまが十字架にかけられる時のことを指しています。その時には断食するだろうと。イエスさまがいなくなってしまったからです。
 しかし今はどういう時なのか。イエスさまがここに共におられる時である。だから断食はふさわしくない。むしろ、喜び祝うのがふさわしいのです。花婿がいる婚礼の席のごとくです。

私たちは

 さて、そうすると私たちはどうでしょうか。イエスさまは天に帰られてしまったわけですが、イエスさまがおられなくなってしまって、婚礼の花婿がいなくなったわけですから、やはり断食するべきなのでしょうか?
 しかしイエスさまは天に帰られる前に、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)とおっしゃいました。また、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)とおっしゃいました。すなわち、それは聖霊によって共におられることを約束されたのです。そしてペンテコステの日に聖霊が来られました。したがって、聖霊によってイエスさまが共におられるということになります。それは私たちが信じるならば、ここにも共にイエスさまがおられるということです。それはすなわち神さまにお目にかかっていると言うことです。それは喜びです。祝宴を開くような出来事です。
 教会の礼拝に行く前は元気だったのに、終わって帰る時は暗い顔してうつむいて帰って行った‥‥そういう教会では誰も来ません。反対に、重い足取りで教会へ出かけたけれども、礼拝から帰る時は、重荷が取り去られて、喜んで足取りも軽くなって帰って行ったという教会でありたいと思います。
 使徒パウロは、クリスチャンの多くの人が愛誦聖句としている言葉を、テサロニケの信徒への第一の手紙で書きました。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(Tテサロニケ5:16-18)
 キリストが共におられるからです。神さまにお目にかかっているからです。だから、いつも喜ぶことができるのです。このことに私たちが、いつも信じることができたらどんなに素晴らしいことでしょうか。今はどのような時でしょうか。聖霊によってイエスさまが共におられる時です。喜んで良いのです。感謝して良いのです。
 もちろん、そのことが信じられなくなる時が、私たちにはよくあります。そのような時は、断食して祈ることもできるのです。そうして私たちの信仰の目を開いていただいて、またイエスさまが共におられることを信じることができるようになります。
 私たちは、1人で生きているのではありません。寂しく辛い人生を、厳しい人生を、希望のない人生を1人で歩いているのではありません。復活のイエスさま、聖霊なる神さまと共に歩んでいけるのです。それは喜ばしいことです。
 このあと、讃美歌1−174を歌います。これは再臨のキリストを歌った讃美歌です。その2節を見ると、終わりのほうで「主よ、よくこそ、ましましけれ、ハレルヤ!祝いのむしろに、いざつかせたまえ」という歌詞になっています。「主イエスさま、ようこそ来て下さいました。ハレルヤ!主をほめたたえます。お祝いの宴会の席にわたしも着かせて下さい」という歌詞です。
 私たちはこの世においては聖霊なる神さまと共に歩み、天国においては喜びの祝宴の席に、イエスさまと共に着かせていただくことができるのです。そういう希望をいただいています。


(2012年6月10日)



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