礼拝説教 2012年6月3日

「主が招く人」
 聖書 ルカによる福音書5章27〜32 (旧約 出エジプト記24:9〜11)

27 その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。
28 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。
29 そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。
30 ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」
31 イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。
32 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」





徴税人レビが弟子となる

 レビという人がイエスさまの弟子となった時のことです。イエスさまは、レビに向かって「わたしに従いなさい」とおっしゃいました。その言葉を聞いて、レビは何もかも捨ててイエスさまに従って行った、と書かれています。興味深いのは、レビは徴税人であり、その徴税人であるレビが、自分の職場である収税所に座って勤務しているときにイエスさまが声をおかけになり、レビはそのまま立ち上がってイエスさまに従ったと書かれている点です。
 このレビという人は、12使徒の一人であるマタイのことです。同じ時のことがマタイによる福音書の9章にも書かれていますが、そちらではマタイとなっています。同一人物です。レビは「徴税人」だった。そしてイエスさまはその徴税人のレビを弟子とされたのです。そしてこの事が、その続きの所に書かれているように、物議をかもすことになったのです。厳格なファリサイ派の先生や律法学者の先生たちが、このことで批判をするのです。
 これはいったいどうしたことか。徴税人というのは文字通り税金を徴収する人ですが、今日の税務署のお役人さんとはずいぶん違います。まず、日本の税務署は日本の国の税金を徴収するわけですが、この徴税人というのは、ユダヤ人であったがユダヤの国の税金を徴収するのではなく、当時ユダヤを支配していたローマ帝国の税金を徴収していたのです。そしてユダヤ人というのは、非常に誇り高い民族でしたから、自分たちの国が外国人によって支配されているというのは我慢ならなかったんです。ところが、同じユダヤ人でありながら、その憎きローマ帝国の税金を集めているのが徴税人だったのです。
 だから、徴税人は同じユダヤ人から非常に嫌われていました。民族の裏切り者と言われていました。それだけではありません。徴税人はローマ帝国の公務員ではなく、請負業でした。それで、決められた税金に、自分たちの利益を上乗せして人々から税金を集めていたのです。中には、税金と称して多くの利益を上乗せして、それをピンハネしてリッチになっていた人もいたそうです。それでかなり裕福な人が多かったのです。そういうことですから、徴税人は同じユダヤ人から、民族の裏切り者というだけではなく罪人扱いされ、たいへん嫌われていたのです。レビもそういう徴税人のひとりでした。

イエスの招き

 さて、イエスさまはある日、そのレビが収税所に座っているのを見ました。レビはそこで仕事をしていたのでしょう。そのレビをイエスさまは見られたのです。ここで「見て」と書かれていますが、この「見る」は、なにかチラッと見るという意味の「見る」ではありません。ここで書かれている「見る」は、「じっと見る」とか「見つめる」という意味の「見る」なのです。つまりイエスさまは、レビをチラッと見て軽く声を掛けたということではありません。レビをじっと見られたのです。見つめられたのです。
 見つめるというのは、非常に関心があるということですね。私たちは、関心のない人をじっと見つめることはありません。私たちが他人をじっと見つめるときは、その人に関心があるか、またはその人の顔に何かくっついている時かではないでしょうか。イエスさまは、なぜレビに関心を持たれたのか。その理由は何も書いていないので分かりません。それはイエスさまだけがご存知のことです。そしてイエスさまはレビに言葉をおかけになりました。「わたしに従いなさい」。イエスさまは、レビをご自分の弟子とするためにそのように声をおかけになりました。
 先ほど言いましたように、レビは徴税人でした。同じユダヤ人から非常に嫌われていた徴税人でした。もし私たちがイエスさまだったとしたらどうでしょうか。これから神の国を宣べ伝えていこうという時に、民族の裏切り者と呼ばれ、守銭奴と呼ばれ、罪人と呼ばれていた徴税人を弟子にするでしょうか。もし私たちがイエスさまだったとしたら、もっと評判のよい人、あるいはこの世の地位ある人や名声のある人を弟子にしようとするのではないでしょうか。
 教会にもそういう傾向がないでしょうか?‥‥私は、ある教会で、その教会には議員さんとか弁護士さんとか、そういう社会的地位のある人々がたくさんいると言って、自慢げに話されることに出くわしたことがあります。たいへん悲しい思いでした。もちろん、議員さんや弁護士さんなどがどんな職業の人がおられてもよいのですが、そういうことを自慢するということにがっかりしたのです。社会的に地位のある人がいることを自慢するとしたら、逆の立場の人のことについてはそうは思わない、ということになるでしょう。
 しかしイエスさまはそんなことは全く関係ありません。徴税人であるレビを弟子にすることによって、イエスさまの評判を落とすことになっても、実際にこのあと評判を落としたわけですが、そんなことはイエスさまにとっては全く関係ないのです。どうでもよいのです。イエスさまは、このレビという人、この人に目を留められて、「わたしに従いなさい」と声を掛けられた。自分の弟子になるように招かれたのです。それに対して、レビは、何もかも捨てて立ち上がり、イエスさまに従ったと書かれています。
 レビは、なぜただちにイエスさまに従ったのでしょうか?‥‥そのことについて聖書は何も書いていません。いっさい省略しているのです。つまり聖書は、イエスさまがレビに対して「わたしに従いなさい」とおっしゃった。そしてそれに対してレビが「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」ということだけを書いているのです。すなわち、イエスさまが「わたしに従いなさい」と招かれ、それに対してレビが従った、というそのことだけに聖書は私たちを注目させているのです。
 このことは非常に印象的です。私たちは、人それぞれ違った人生を歩んでいます。何ごとも順調に歩んできた人もいるでしょう。反対に、波瀾万丈の人生を送ってきた人もいるでしょう。非常につらいことばかり多かった人もいることでしょう。失敗ばかりしてきたという人もいることでしょう。‥‥「だから神など信じない」という人もいることでしょう。
 しかし、聖書がレビがなぜイエスさまに従ったのかということについては何も書いていないということは、そのような私たちの今までの人生がどうだったかということは、全く関係ないということです。今、イエスさまが「わたしに従いなさい」と声をおかけになった。それに対して、すぐに立ち上がってイエスさまに従った、という事実。そこが問題だということです。同じように、私たちに対してもイエスさまは語られる。私たちを見つめて言われる。「わたしに従いなさい」と。今、自分がどういう人間で、どういう状態であるかということは全く関係ない。「わたしに従いなさい」と言われるイエスさまの言葉に対して、今、自分がどう答えるのか、ということです。

何もかも捨てて従う

 ここでレビが、何もかも捨ててイエスさまに従ったと書かれていますが、「従う」という言葉は、ギリシャ語では、「ついて行く」とか「一緒に行く」という意味があります。つまり、イエスさまを信じるということは、イエスさまと一緒に行く、ということです。目に見えないイエスさまが、聖霊と共にいて下さる。そのイエスさまと一緒に行くということです。
 そして「何もかも捨てて」とありますが、これは自分の持ち物をゴミとして捨てて、ということではありません。というのは、そのあとレビは、自分の家でイエスさまを招いて、盛大な宴会を開いています。自分の家も捨てていませんし、イエスさま一行をもてなす料理も飲み物もあるし、召使いたちもいたことでしょう。では「何もかも捨てて」というのはどういうことでしょうか。それはイエスさまを第一とする、ということです。

罪人を招くイエス

 さて、徴税人レビを弟子としたイエスさまに対して、先ほど述べたように、厳格なファリサイ派の先生や律法学者の先生たちが批判しました。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と。彼らは、直接イエスさまに言うのではなく、イエスさまの弟子たちに言ったのです。
 するとイエスさまがお答えになりました。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」
 医者を必要とするのは病人です。それと同じように、イエスさまは罪人を招いて悔い改めさせるために来たのだとおっしゃる。‥‥「それで、イエスさまは徴税人や罪人と共に食卓についているのか。レビさんよかったね!」‥‥と、他人事のようにここを読んでしまっては何にもなりません。イエスさまは、罪人を招くためにこの世に来られた。では、自分が正しいと思っているファリサイ派や律法学者の先生たちは「罪人」ではないのでしょうか? 私たちは罪人ではないのでしょうか?
 聖書は、人間はみな罪人であると語ります。本当は私たちひとりひとりも、みな罪人です。しかしそのことに気がつかない。気がつかないから、「レビさん、イエスさまと一緒に食卓に着けてよかったね」と、他人事のように思うのです。また、ファリサイ派や律法学者の先生のように、「なぜイエスさまは、徴税人や罪人と一緒に食べたり飲んだりするのか?」と文句を言いたくなってしまうのです。自分が罪人であることが分からないからです。
 私は、若いころ、命を救われ、そして神さまの不思議な導きによって、イエスさまを信じるようになりました。しかし、自分が「罪人」であるということが分かりませんでした。自分はそれほど良い人間ではないけれども、罪人と言われるほどではないと思っていたのです。しかし聖書を読むと、例えば使徒パウロが、「自分は罪人のかしらだ」と言っている。それで、罪が分かるように神さまにお祈りしたんです。「神さま、わたしは『罪』ということがよく分かりません。どうか教えて下さい」‥‥と。
 すると、何日か経ってから、今までの自分の犯してきた「罪」が思い起こされてきたのです。それまでの私は、その一つ一つが罪であるということが分からなかった。あるいは忘れていた出来事だった。ところが、神さまは、そのような自分の罪を一つ一つ思い出させたのです。忘れていたことを思い出させ、あるいは私が罪だとは思っていなかったことが罪であることを示されたのです。‥‥「ああ、あの時、友人に心ないことを言って絶交したのも罪だった。あの時、アルバイトで、面倒くさくてデタラメを書いて出したのも罪だった。神さまによって命を助けてもらいながら、神など言ったのも罪だった‥‥」と、そういう具合です。そして、自分という人間が、どんなに愛のない、くだらない人間であるか、罪人であるかが分かってきたのです。それは胸が痛くなるほどでした。そうして、神さまは私がどうしようもない罪人であることを教えて下さったのです。自分がそんなにひどい罪人であることを知らされて、本当に苦しいほどでした。まさに自分は罪人のかしらであると思いました。
 すると同時に、そんなくだらない罪人のわたしを救うために、まさに救う価値のない私を救うために十字架にかかって下さったイエスさまが、何と尊いお方に見えたことでしょうか。そして、今日の聖書で言えば、徴税人や罪人たちが、イエスさまと共に食卓についている。「そんな罪人と一緒になぜ食事をするのか」と批判されても、イエスさまはこの人たちを見捨てない。わたしという人間をお見捨てにならずに、一緒に食事をして下さるのです。
 もし私たちが、自分もひどい罪人であることを認めるのなら、イエスさまはその人と共に食事をして下さるのです。そして喜びが満ちあふれるのです。


(2012年6月3日)



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