礼拝説教 2012年5月6日

「人間をとる漁師」
 聖書 ルカによる福音書5章1〜11 (旧約 エレミヤ書1:4〜8)

1 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。
2 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。
3 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。
4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。
5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。
6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。
7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。
8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。
9 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。
10 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」
11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。





羽咋教会献堂式

 先週の月曜日は、能登の羽咋教会の献堂式に出席してきました。羽咋教会は、今から5年前の2007年3月25日に起こった能登半島地震によって、それまで礼拝堂として使用していた幼稚園の建物が、ひどく損傷しました。診断の結果、非常に危険で、耐震補強、もしくは建て替えが必要とされました。しかしそうは言っても、現住陪餐会員20数名、礼拝出席10数名という小さな教会です。どうにもなりません。
 しかし「能登伝道の灯を消すな」を合い言葉に、能登半島地震の被災教会の再建の取り組みが始まりました。全国からの支援がありました。そのような中で、羽咋教会の信徒から土地が献げられました。全国募金が集まりました。さらに羽咋教会内でも、多くの献金が献げられました。そうして、新しい土地に、鐘楼に鐘のついたすてきな建物が建ちました。
 ふだんの礼拝出席者数は13名ほどの教会ですが、礼拝堂は広く、老いてあるベンチには70数名が座れ、詰めれば100名が座れるという広さ。ここに、羽咋教会が現状に甘んじるのではなく、これから多くの人が教会に導かれることを願う、伝道の祈りを見ることができました。
 献堂式の説教の中で内城牧師が、「誰がこのような日が来ることを予想したでしょうか」と語られました。まさにその通りです。人間の目で見れば、5年前のあの地震によって、小さな群れである羽咋教会は、このままさらに人がいなくなって、やがてはなくなってしまうのではないかとも思われました。しかし今、試練を乗り越えて新しく建てられた教会堂を見る時、まさにこれが神さまのわざであることを疑うことはできませんでした。
 私はあらためて、私たちが何を信じるのか、が大切であることを思いました。人間の目で見てダメだとか、不可能だとか、そんなことは関係ないのです。私たちがイエスさまによって、何を信じるのか、何を期待するのか、何を求めるのか‥‥それが問題なのです。私たちが、主の栄光のために信じる時、不可能と思えたことが成就していくのです。そのことをあらためて確認することができました。

ペトロが弟子に

 本日の聖書の個所は、シモン・ペトロとヤコブやヨハネがイエスさまの弟子となった場面です。イエスさまがペトロに「今から後、あなたは人間をとる漁師となる」とおっしゃり、ペトロがすべてを捨ててイエスさまに従って行きました。その有名な場面です。しかしシモン・ペトロは、きょう初めてイエスさまにお会いしたわけではありません。この前の所、4章の38節からのところでは、イエスさまがシモンの家に滞在され、シモンのお姑さんの高い熱を癒されたということがありました。またそれだけではなく、ヨハネによる福音書の1章を見ると、もっと前からシモン・ペトロはイエスさまを知っていたことが分かります。
 そのように以前からペトロはイエスさまを知っていました。そればかりではなく、イエスさまと親しく接してきました。そしてイエスさまを尊敬していたことも分かります。しかしまだイエスさまに従って行ったわけではありませんでした。しかしきょうの11節の所で、シモン・ペトロをはじめとした漁師たちが、「すべてを捨ててイエスさまに従った」ということになりました。ここにはどういう変化があったのか、と言うことに注目をしたいと思います。

近づきたもうキリスト

 イエスさまが「ゲネサレト湖畔に立っておられると」と書かれています。ゲネサレト湖というのは、ガリラヤ湖のことです。イスラエルの北部の湖です。そのゲネサレト湖畔にイエスさまが立っておられると、「神の言葉を聞こうとして」群衆がその周りに押し寄せてきたと書かれています。人々は、何を求めてイエスさまのところに押し寄せたかというと「神の言葉」を求めて来たのです。
 考えてみると、神の言葉を私たちはどこで聞くことができるでしょうか?‥‥おもしろおかしい言葉ならば、テレビをつければ聞くことができます。ためになる言葉ならば、テレビや新聞でも、あるいはインターネット、あるいはさまざまな文化講座に行けば聞くことができます。しかし、「神の言葉」は何処に行ったら聞くことができるでしょうか。自称「神のお告げ」を語る怪しげな占い師のような人ならば、いくらでもいるかもしれません。しかしそれらの自称神のお告げを受けたという人たちの言葉が、本当の神の言葉ではないことは、聞いていれば分かります。
 本当の神の言葉はどこで聞くことができるのか? いや、それよりも、果たして神は本当におられて、私たちに言葉を語りかけて下さっているのだろうか?‥‥聖書は、その神の言葉を語っておられるのがイエスさまであることを証言しています。それは本当に喜ばしいことだと思います。それで人々は、神の言葉を聞こうとしてイエスさまのところに押しかけてきたのです。みんな、神の言葉を聞きたいと求めていたのです。
 そしてイエスさまは、あんまり群衆が押し迫ってくるので、それではお話しをすることもできないと言うことでしょう、シモンの舟に乗って、少し岸辺から離れたところから群衆に説教をされました。そのシモンは、それまで網を洗っていました。網の手入れをしていたのです。それまで一晩中ガリラヤ湖で漁をしていたのですが、1匹の魚も捕れなかったのです。一晩中漁をしたのに、1匹も魚が捕れなかった。‥‥店を開いていたのに、一人もお客さんが来なかった。営業に出かけたのに、一つも商談が成立しなかった。注文が全くない。‥‥疲れ果てます。明日のことが不安になります。そういう状況です。
 シモンは、自分の舟に乗って岸辺の群衆に神の国の言葉を語るイエスさまの説教が耳に入っていたでしょうか。この時イエスさまが何をお話になったのか、その内容については何も書かれていません。

網を降ろせとイエス

 お話しが終わると、イエスさまはシモンに対して、舟を沖に漕ぎ出して漁をするようにお命じになりました。それに対してシモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えました。漁師というのは漁のプロです。その漁師が、一晩中、徹夜で漁をして、1匹も魚が捕れなかったのです。それなのに、朝になった今から舟を出して漁をしても1匹も捕れるはずがない‥‥シモンの言葉には、そういうあきれたような感じがこもっているように聞こえます。ばかばかしい。今から漁をして捕れるぐらいなら、苦労はしませんよ、とでも言いたげです。
 しかしシモン・ペトロにとってイエスさまは尊敬する先生です。自分のお姑さんの熱病を癒して下さった方です。むげに断るわけにもいきません。「しかし、お言葉ですから網を降ろしてみましょう」とシモンは言いました。ここは直訳すると、「しかし、あなたの言葉のゆえに網を降ろすこととします」というようになります。ここには、「自分はどうせダメだ、無駄だと思う。捕れっこない。けれどもイエスさまの言葉ですから、降ろしてみますよ」という、ちょっと投げやりな言い方をしているように思われます。
 そうして、徹夜で何も捕れなかった疲れ果てた体を鞭打つようにして、舟を沖に漕ぎ出し、網を降ろしてみたのです。すると、なんと、「おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」のでした。これも「多くの魚のおびただしい群れ」というような意味で、あり得ないほどの多くの魚が入ったと、強調しています。記録的な大漁です。それで舟が2艘とも沈みそうになるほどでした。あり得ないことが起こったのです。漁のプロである漁師の予想をくつがえし、さっきまでの疲労困憊を吹き飛ばし、生活の心配を吹き飛ばすような大漁となったのです。

イエスに神を見た

 これにはシモンも仰天したことでしょう。イエスさまの足もとにひれ伏して、「主よ、私から離れて下さい。私は罪深い者なのです」と言いました。イエスさまの足もとにひれ伏した‥‥これは、イエスさまに神を見たのです。シモンはイエスさまのことを5節では「先生」と呼んでいました。しかし8節では、「主よ」と言っています。イエスさまに対する見方が変わったのです。イエスさまに神を見たのです。
 人間は、神に接した時に恐れを感じます。神の前に立つにふさわしくない者であることを自覚します。自分が罪人であることが分かります。それでシモンは、「主よ、私から離れて下さい。私は罪深い者なのです」と言ったのです。

人間をとる漁師

 するとイエスさまはシモンに言いました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師となる」。するとシモン・ペトロと、ヤコブとヨハネたちは、舟を陸に引き上げると、すべてを捨ててイエスさまに従った、と書かれています。
 イエスさまは「人間をとる漁師になる」とおっしゃいました。「人間をとる」とはどういうことでしょうか。
 先ほど4節でイエスさまはペトロに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし漁をしなさい」とおっしゃったことが書かれていました。実はこの「沖」と日本語に訳されている言葉は、原文では「深み」となっています。海の深みというのは、聖書では、どちらかというと不吉なものとして描かれています。詩篇104編にも書かれていますが、そこはレビヤタンという魔物が住むようなところとして描かれています。暗黒の世界です。サタンが支配しているようなところです。
 そこに網を降ろして魚を捕まえ、網を引き揚げる。11節の「人間をとる」という言葉は、「生け捕りにする」という意味の言葉です。すなわちここは、暗黒の世界に住んでいる人間を生け捕りにして引き揚げる、生きたまま引き揚げるということです。そして神さま、イエスさまの所に引き揚げるのです。神の国に引き揚げるのです。
 それはイエスさまがなさっていることです。そのイエスさまがなさっていることを、あなたもするのだと言われる。神さまのための働きです。それをあなたもするのだという。全く無名の漁師です。庶民です。この世の権力もない。地位もない。力もない。無名です。そのような漁師たちをイエスさまは用いるとおっしゃる。

イエスに従う

 このイエスさまの言葉を聞いて、ペトロたちはすべてを捨ててイエスさまに従って行きました。すべてを捨てたら、生活はどうするの?と思います。しかしたった今、シモン・ペトロたちは、イエスさまの言葉にしたがった結果、あり得ないほど大漁の魚がかかったのを体験しました。ついさきほどまで、一晩中漁をしたのに1匹も捕れなかった。それで憔悴しきって、網を洗っていました。生活の心配がありました。ところがイエスさまの言葉に従って行ったところ、大漁の魚が捕れた。
 このことから、シモンたちは、すべてを捨ててイエスさまに従って行っても、大丈夫だという確信が与えられたのです。神さまがちゃんと備えてくださると信じることができたのです。いざとなれば、あり得ないように養ってくださる神さまが、自分たちを守ってくださることを信じることができたのです。
 すべてを捨てて、ということは、言い換えれば、神さま・イエスさまを第一とするということです。そうしてイエスさまに従って行くということです。神さま・イエスさまを第一としたら、生活していけなくなるではないかと思われた。しかしそれは違った。イエスさまの言葉にしたがって網を降ろした時、大漁の魚が捕れたのです。そうして、同じようにイエスさまの言葉に従って行った時、暗黒の深みにいる人々を神の国に引き揚げるために用いられるものとなる。そのことを教えています。


(2012年5月6日)



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