礼拝説教 2012年4月29日

「喜ばしい知らせ」
 聖書 ルカによる福音書4章42〜44 (旧約 イザヤ書52:7)

42 朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。
43 しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」
44 そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。





祈るイエス

 「朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた」(42節)とあります。イエスさまは何をしに、出かけられたのでしょうか。同じことが、マルコによる福音書1:35にも書かれています。そちらのほうにはこう書かれています。「朝早く、まだ暗いうちに、イエスは起きて人里離れた所へ出ていき、そこで祈っておられた。」‥‥イエスさまは、祈るために朝早く人里離れた所へ行かれたのであると。ですから今日の聖書で、イエスさまが人里離れた所へ出て行かれたのは、散歩をするためでもなく、何かを見物にいったのでもなく、神さまに祈るために行かれたのです。ルカによる福音書は、そのことを当然のこととして書いているから、「祈るために」ということを省略して書いているのです。つまりイエスさまは毎朝そのようにされていたのです。
 そして群衆がそのあと、イエスさまがシモン・ペトロの家にいないことに気がつき、イエスさまを捜しにやってくる。そのようにイエスさまは、朝になって人々が動き出すよりも前に早く起きて、神さまに祈るために出て行かれたのです。そして、なぜ「人里離れた所」へ行って祈られたのか。それは、誰にも邪魔されないで祈るため、すなわち神さまと一対一になって祈るためです。朝早くならば起きている人も少ない。そしてさらに人里離れた所であれば、もうそれは誰もそこにはいないということになります。誰にも邪魔されません。そのように目に見えない神様と、一対一になって祈る。この時間をイエスさまはとても大切にされたということが分かります。
 そしてこのことは、その前の個所である38〜41節から続いています。そこでは、イエスさまがシモンのお姑さんから始まって、いろいろな病気で苦しむ多くの人に手を置いて癒された、ということが書かれています。また悪霊が出ていった、ということが書かれています。私たちはそれらのイエスさまのなさった奇跡の出来事を何気なく読むと、「ああ、イエスさまは神の子だからそういう不思議な力があるんだなあ」‥‥と思って終わり、ということになってしまいます。
 しかし今日の続く聖書個所が暗示しているように、イエスさまが神の子だから自動的にそのような不思議な力があったというのではないということです。イエスさまは人の子として来られたのであって、人の子として来られたイエスさまがその病気の癒しや悪霊を追い出すという力は、自然に備わっていたのではなく、神さまからいただいたのであり、それは神さまへとの祈りによる深い交わりの中でいただいたのである‥‥ということです。
 そのように、イエスさまにとって神との祈りの時間は、非常に大切なものであったのです。それがなければ、イエスさまといえども病気を癒したり、悪霊を追い出すということはできなかったのだと思います。

     密室の祈りと忍耐

 神さまと一対一になって祈る。これを教会では「密室の祈り」と言います。誰もいない部屋や場所で、一人になって祈る。それが密室の祈りです。ただ目に見えない神様に向かって祈るのです。そして、そのように祈ることなしに神さまの力を体験することは難しいのです。
 マザー・テレサはこのように言いました。「私の秘密を教えましょうか。私は祈ります。キリストに祈るということは、キリストを愛することと同じなのです。」(『マザー・テレサ 愛と祈りのことば』、PHP研究所)
 また次のように言いました。祈ることを愛しなさい。日中たびたび祈りの必要を感じるようになさい。多少の面倒を乗り越えて祈りなさい。祈りは心を広くして神ご自身という贈り物を受け入れることができるようにする。願い求めよ。心は大きくなって神を自分のものとして受け取り、離さないでいることができるようになる。(マルコム・マッゲリッジ著『マザーテレサ』、女子パウロ会、P.84)
 祈りというものは地味なものです。とりわけ人前で祈る祈りではなく、密室の祈りは誰にも知られずに、ただ目に見えない神さまに向かって祈るわけです。しかも毎日、そのための時間を取って祈るのです。非常に地味であり、いったいこの祈りが聞かれているのかいないのか、信仰と忍耐を要することです。
 先の冬のオリンピックの女子フィギアスケートの金メダリストは、韓国のキム・ヨナさんでした。コーチのブライアン・オーサーは、「金・ヨナの才能を生まれつきの祝福だと思う人がいたら、キム・ヨナが練習する過程をちょうど3日だけ見てみなさいと言いたい」と話したそうです。彼は自分の書いた本の中で、「キム・ヨナの唯一の欠点は、練習しすぎる完ぺき主義者だという点だ」と書いているそうです。そして、キム・ヨナさんは一つのジャンプテクニックを身に付けるため、少なくても3000回の転倒をするのだそうです。
 わたしはそれを聞いて、祈りというものもそれに似ていると思いました。スポーツの練習というものは地味なものです。黙々と積み重ねていくものです。しかしその練習があって、はじめて結果が出せるものである。祈りも似ています。もちろん、すぐに答えが与えられ、結果が与えられる祈りもあります。しかしひたすら神を信頼して、黙々と隠れたところで毎日一人祈り続けるということを通して、神さまの力が現れてくるということが多いように思います。

カファルナウムを去る

 さて、そのように朝早く起きて、誰もいないところに行って神さまと一対一になって祈っていたイエスさまの所に、イエスさまを捜しに来た群衆がやってきました。そして群衆は、自分たちを離れていかないようにとしきりに願ったと、書かれています。なるほど、イエスさまが多くの病気の人を癒されたのですから、もっといてほしいというのは良く分かります。
 それに対して、イエスさまはどのようにお答えになったのか?‥‥「他の町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。私はそのために遣わされたのだ」(43節)とおっしゃって、カファルナウムの町を去り、他の町へ行って福音を宣べ伝えられたと書かれているのです。これはいったいどうしたことでしょうか?‥‥カファルナウムの町には、まだまだ多くの病気で苦しんでいる人がいたはずです。あるいは悪霊に取りつかれて苦しんでいる人がいたはずです。しかもそこに書かれているように、カファルナウムの町の人々は、イエスさまに自分の町にとどまってくれるようにしきりに引き留めたのです。なのに、なぜ他の町へ行かれるというのか?
 イエスさまの答えをもう一度見てみましょう。43節です。「他の町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。私はそのために遣わされたのだ。」‥‥イエスさまが神さまから遣わされたその使命とは、「神の国の福音を告げ知らせる」ということであるとおっしゃっています。「告げ知らせる」ということは、口で言うということです。言葉を言うのです。そうすると私たちは不思議に思わないでしょうか。何か言葉を告げ知らせることよりも、具体的に何かをしてくれたほうが良いに決まっている、と思わないでしょうか。カファルナウムにいるさらに多くの病気の人を癒したり、悪霊に取りつかれている人から悪霊を追い出したりする方が、もっと大切なことのように思わないでしょうか?
 しかし逆に考えてみたいのです。それは、この時もしイエスさまが、カファルナウムの町の人々の言うことを聞き入れて、この町にずっととどまり続けたらどうなったのだろうか、と。するとカファルナウムの町にはまだまだ多くの病気の人がいたでしょうから、そこで癒しのわざをし続けることとなります。また一度病気を癒しても、また病気になりますから、その癒しには終わりがないことになります。そのことは、私たちの近くの病院が常に満員であることを見ても分かります。そうすると、現代のお医者さんのように薬や手術で治療するか、イエスさまのように神の力で癒すかの違いはあるけれども、結局はイエスさまは優秀な治療者ということで終わるでしょう。そしてイエスさまのいない町、あるいは遠くの外国に住む者にとっては、イエスさまという方は、自分たちとは無関係の方ということになるでしょう。そういうことになるのです。イエスさまとは、単に歴史の中でそういう不思議な医者がいたということに過ぎず、現代の私たちにとっては過去の人、無関係の人‥‥ということに他ならないのです。
 しかしイエスさまのお答えは、そうではなかった。「神の国の福音を告げ知らせる」ことが自分が神さまから与えられた使命であるとおっしゃったのです。

喜ばしい知らせ

 この「福音」とはどういう意味でしょうか?‥‥この言葉はギリシャ語で、「うれしい知らせ」「良いおとずれ」という意味の言葉です。そうです。イエスさまがもたらして下さるのは、「喜ばしい知らせ」です。誰か特別な人だけに対する「喜ばしい知らせ」ではありません。誰にとっても「喜ばしい知らせ」だということです。
 私もだんだん年齢を重ねて参りまして、人間的に見ると、良い知らせよりも、あまり良くない知らせのほうが多くなってきたように思われます。若い時は、もっと良い知らせが多かったように思える。ところが年を重ねるにつれて、この世のことで言うと、あまり良くない知らせが増えてくるように感じます。例えば、友人や知人が病気になったり、亡くなったりという知らせが入ってくるようになりました。家族のことでも、良い知らせばかりではありません。いろいろな仕事に関わるようになって、いろいろと起こってくる難しい問題を抱えるようになりました。また先週は、横須賀学院で受けた健康診断の通知が来ました。その結果も、あまり好ましいものではありませんでした。良い知らせというよりも悪い知らせと言った方がよいでしょう。‥‥そのような有様です。
 しかしにもかかわらず、「神の国」が関わると、事情はガラッと変わります。「神の国」という言葉は、「神の支配」という意味でもあります。一見、神様がいないように見えるこの世の中ですが、イエスさまを信じることによって神の支配が及んでくる。
 先週もいろいろなことがあったと思います。一見、神様がいないように見える。しかしイエスさまによって、その一つ一つの所に神さまがおられたのです。これは良い知らせではありませんか。また、いろいろな失敗や過ちを犯したかもしれません。しかしそれでもイエスさまはそんな弱い私たちをお見捨てにならず、赦し、受け入れて下さる。それは良い知らせではありませんか。
 また私たちは、日一日と年を取っていきます。それは確実に人生の終わりに近づいているということです。それはこの世の目で見れば悪い知らせです。しかし、イエスさまが十字架にかかられて死なれ、復活されたことにより、イエスさまを信じる時に私たちは永遠の神の国に近づいているということになります。それは喜ばしい知らせではありませんか。
 イエスさまは、このような私たちを救うために十字架にかかって下さった。それによってわたしたちを神の国の住人として下さる。こんなわたしたちでも、です。‥‥これは全く「福音」、すなわち「喜ばしい知らせ」ではないでしょうか。それは、カファルナウムの町にとどまることなく、十字架へ向かってイエスさまが出ていって下さったからです。私たちはイエスさまを通して、喜ばしい知らせをいただいている。感謝です。


(2012年4月29日)



[説教の見出しページに戻る]