礼拝説教 2012年4月15日

「熱を叱る」
 聖書 ルカによる福音書4章38〜41 (旧約 レビ記25:8〜10)

38 イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。
39 イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。
40 日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。
41 悪霊もわめき立て、「お前は神の子だ」と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。





ペトロの家教会

 安息日にカファルナウムの町の会堂で礼拝を守ったイエスさまは、会堂を出ると、シモン・ペトロの家に行かれました。
 現在カファルナウムの町のあった所に行くと、そこには遺跡が保存されています。前回申し上げたように、その遺跡は、会堂の壁の一部が残っている他は、一般の民家はほとんどが土台だけが残っています。そして会堂の入り口からまっすぐ行ったところに、シモン・ペトロの家があったとされる場所があります。現地に行ってみると、そのペトロの家があったという場所の上には、まるでUFOのような建物が、柱に支えられて宙に浮いたように建てられています。ペトロの家教会というのだそうです。そのUFOの真下に、ペトロの家の土台が残っています。ただし真上にそのUFOのような建物が建っているので、ペトロの家の跡は、その建物に入って、床の真ん中の穴から下をのぞくような形でしか見ることができません。こうやって保存しているのです。
 そのペトロの家は、会堂を出てまっすぐ行ったところにありました。安息日は、仕事をしないで休む日です。どこか旅行にも行かない。家で休む日でした。それでイエスさまは、礼拝を終えて会堂を出て、近くのペトロの家に行って休まれようとなさったのでしょう。

熱を叱る

 すると、シモンの姑がひどい熱を出して寝込んでいました。風邪でしょうか、インフルエンザでしょうか。それとも他の伝染病でしょうか。救急車も病院もない時代、このような高い熱を出すということは、たちまち死の恐怖と直面する時代でした。周りにいた人々は、「彼女のことをイエスに頼んだ」と書かれています。イエスさまにお願いする他はなかったのです。だからイエスさまに頼んだ。
 そうしてイエスさまはどうされたか。イエスさまはまず、シモンの姑が寝ているその所の枕元に近づかれました。そして熱を叱りつけられました。ここで私たちは驚かされます。イエスさまが熱をお叱りになったことです。「熱を叱る」という話しは聞いたことがありません。私たちが叱るときは、誰に向かって叱るでしょうか?‥‥子どもに向かって叱る。あるいは会社の部下に向かって叱る。先生が生徒を叱る。または、ペットの犬に向かって叱る‥‥というように、叱る対象は、人間か動物か、ということでしょう。しかし「熱を叱る」という人はいないでしょう。なぜなら、熱を叱ったとしても、何にもならないからです。熱を叱っても無駄です。
 しかしイエスさまは、熱を叱りつけられました。すると熱は去ったのです。そのようにイエスさまが命じると、熱も言うことを聞く。私たちはものすごい希望をいただくことができます。

 以前、小さな教会にいた時、ある男性信徒が風邪を引いて高い熱を出しました。単に風邪を引いて熱を出したというだけならば、薬を飲んで寝ていればいいのですが、その人は肺の難病があって、熱を出すと致命的な事態に陥る恐れがある人でした。また熱を下げる薬を飲むこともできない。そのために医者から、熱を出さないように日頃言われていたのでした。熱を出さないように、と言われても、引きたくなくても風邪を引くときは引くわけですからどうしようもありません。熱が出てしまったのです。
 夜、奥さんから私の所に電話がかかってきました。うろたえていました。どうすることもできずに私の所に電話をかけてきたのです。もちろん私もどうすることもできません。しかしとにかく、すぐに駆けつけました。彼は布団の上に、半分体を起こしたような姿勢で寝ていました。苦しそうでした。わたしはうろたえる奥さんを尻目に、「祈りましょう」と落ち着いて言いました。しかし心の中は、とても落ち着いてなどいませんでした。「もしかしたらダメかもしれないなあ、どうしよう」と、正直そんな思いだったのです。それでも、わたしは彼の上に手を置いて祈り始めました。すると彼は息苦しそうなまま、わたしの手をぎゅっと握りしめてきました。それは、わたしに助けを求めているように感じられました。
 しかし私にはどうすることもできないのです。全く無力です。しかしただ一つできることがありました。それは、イエスさまに依り頼むことができるということでした。シモン・ペトロのお姑さんの熱を叱られたイエスさまです。それでわたしは、彼がわたしの手を握りしめた分だけ、わたしは主イエスにこの窮状を訴えて祈り、主イエスの手を握りしめるような思いで祈ったのでした。そうして家に帰りました。
 翌朝、彼の熱は下がったのでした。この時のことを、彼の奥さんはあとあとまで時々話題にするのです。「あの時のことを忘れられない」と。しかしそれはもちろん、私の力ではありません。私はただイエスさまに必死にすがって祈っただけです。イエスさまが熱を下げてくださったのです。
 熱を叱るイエスさま。それは私たちにとっても、何と頼もしいことでしょうか。

病を癒すイエスさま

 イエスさまが叱ると、シモンのお姑さんの熱は去っていき、すぐに起き上がって一同をもてなしたと書かれています。つまり熱は一瞬にして去ったのです。そして癒されたのです。そしてイエスさまたちをもてなしたのです。そして日が暮れると、病人を抱えている人々がその病人をイエスさまの所に連れてきました。病院もない、満足な医療もない時代のことです。病気で苦しんでいる人々は、どうすることもできなかったのです。それでイエスさまのうわさを聞きつけて、イエスさまの所に病人を連れて来たのです。「連れて来た」ということは、一人では歩くことができないぐらいひどい病気であったということです。
 ちなみに、なぜ「日が暮れると」なのか。それは、安息日が終わったからです。ユダヤ人の数え方では、日没によってその日が終わる。そして安息日の間は、仕事をしないだけではなく、会堂の礼拝に行くこと以外は、何もしてはならなかったのです。だからイエスさまのおられるシモンの家に連れて行きたくてもできなかった。しかし日没によって安息日が終わったので、いっせいにイエスさまのおられるシモン・ペトロの家に病人を連れて来たのです。
 そしてイエスさまはどうされたか。40節に「イエスはその一人一人に手を置いて癒された」と書かれています。ここで「イエスはみんなに手を置いて癒された」と書かれているのではありません。「一人一人に」と書かれています。
 いかがでしょうか。「みんなに」というのと、「一人一人に」というのとでは、受ける印象が違うのではないでしょうか。「みんな」というと、十把一絡げにしたような印象があります。それに対して「一人一人」というと、病気も違えば、事情も違うし、苦しんでいる内容も違う‥‥そういう一人一人ということになります。
 そしてここでは、イエスさまは「一人一人に手を置いて癒された」と書かれているのです。何かみんなを十把一絡げにして、魔法のようにまとめて癒された、というのではないのです。一人一人の事情をよく見て、その一人一人を大切にして‥‥ということが伝わってきます。そのようにイエスさまは、「一人一人」を見ておられる。私たち一人一人を、です。「あなた」「あなた」「あなた」‥‥ということです。

私たちの祈りと癒し

 さて、イエスさまのみもとに連れて来られた病人が癒されたのですが、それは皆癒されたように書かれています。しかし、それは私たちの経験するところとはちょっと違っています。なぜなら、私たちが自分の病気について、あるいは隣人の病気についても癒してくださるようにイエスさまのお名前によって神さまに祈るのですが、すべて癒されるわけではないからです。
 先ほどの熱が下がった、あるいは私自身、1歳の時に死にかけたのが、祈りによって助けられたということもあります。しかし、私はその後もしばしばぜん息の発作に見舞われ、長い間苦しみました。また、私が牧師となってから、病気の兄弟姉妹をお見舞いして、その時はもちろん病の癒しを祈るのですが、それがかなえられないで亡くなる方も多いのです。そうすると、今日の聖書個所のようにイエスさまの所に来た病人はみな癒されたのに、私たちが祈る病気の癒しは、あまり起きないというのはどういうことでしょうか。それは、イエスさまが私たちのことは、あまり気にかけておられないということでしょうか。
 しかしそういうことではありません。
 まず第一に、聖書のイエスさまの癒しは、天国での完全な癒しを予言しています。私たちがやがて天国に迎え入れられた時、そこにはイエスさまがおられます。それで、そこでは私たちすべての病気が癒されると言うことです。天国に生きるということは、もちろん永遠の命ということですが、それは病気を抱えたまま永遠に生きるということではないのです。すべて癒されて、新しい体を与えられて、主と共に永遠に生きる。福音書に出てくるイエスさまの癒しの奇跡は、そのことを予告しています。
 第二に、この地上を生きている私たちにとって、病が癒されるということが第一の目的ではないということです。
 例えば、使徒パウロの場合はどうでしょう。使徒パウロは、イエスさまの名前によって、多くの病人を癒しました。しかしパウロ自身は病気持ちでした。しかもパウロは、自分の病気を癒してくださるように3度も主に祈ったのに、癒されませんでした。しかし主はパウロにこのように言われました。「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(2コリント12:9)。そしてパウロは自分の病気について、自分が思い上がることがないように、主が与えた「とげ」であると言っています(2コリント12:7)。第三の天まで引き上げられるという素晴らしい経験をしたパウロが、思い上がることがないように、主が病気というトゲをパウロに与えたと。
 これは一例です。いずれにしろ、病気のことをいっしょうけんめい祈っても癒されないのは、イエスさまが私の祈りは聞いて下さらないと言うことではなくて、何かの神さまの御計画があるということです。
 そして、病気が癒されたという証しも素晴らしいものですが、逆に、病気を抱えつつもイエスさまのことを信じ、証ししておられる方に、さらに強い感銘を受けることも多いのです。自分では歩くことも体を動かすこともできないがイエスさまを信じている星野富弘さんの本や詩画集を読んで感銘を受ける人は多いのではないでしょうか。それは祈りが聞かれていないのではなくて、神さまの御用に用いられているのだと言えます。
 いずれにせよ、イエスさまにお願いしたことから始まっていることに注目しなければなりません。人々は、シモンの姑のことをイエスさまにお願いしました。また多くの病人をイエスさまの所に連れて来ました。イエスさまの所に行かなければ始まりません。イエスさまにお願いしなければ始まりません。これは私たちにとっては、祈ってイエスさまにお願いするということです。そうして、イエスさまの働きが分かるようになるのです。

イエスを証しする

 さて、今日の聖書の個所には、悪霊がイエスさまに対して「あなたは神の子です」と言って多くの人々から出ていったことが記されています。悪霊は霊の存在ですから、イエスさまが何者であるかを知っていたのです。しかしその悪霊が「イエスさまは神の子です」と言うのを、イエスさまはおゆるしにならなかった。それはいったいなぜでしょうか? むしろ悪霊が、「イエスさまは神の子」と宣伝してくれるのは良いことなのではないでしょうか?
 しかし、イエスさまは、悪魔や悪霊の証言を必要とされないのです。イエスさまは、私たち自身が、「イエスさまは本当に神の子です」と言うのを待っておられるのです。私たちがイエスさまを証しすることを待っておられるのです。38節をもう一度見てみましょう。「人々は彼女のことをイエスに頼んだ」。イエスさまに頼みましょう。祈りましょう。


(2012年4月15日)



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