礼拝説教 2012年4月1日

「権威ある言葉」
 聖書 ルカによる福音書4章31〜37 (旧約 詩編22:28〜32)

31 イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。
32 人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。
33 ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。
34 「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
35 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。
36 人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」
37 こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった。





棕櫚の主日

 本日は4月1日。新年度の始まりの日です。教会も新しい年度を迎えました。私ども夫婦も逗子に来て1年が経ちました。24年前、日本海側の石川県の輪島教会に赴任した時、川が反対方向に向かって流れているように感じたものですが、それから23年経って北陸からまた太平洋側の逗子に来た昨年、また川が反対方向に流れているような気がしました。しかしそれから1年たった今は違和感はありません。今年度は、さらに多くの主の御業を皆さまと共に見させていただきたいと願っています。
 さて、きょうはまた教会の暦では「棕櫚の主日(しゅろのしゅじつ)」です。イエスさまが、いよいよ最後の時を過ごされるために、ロバの子に乗ってエルサレムに入城された日で、その時群衆がイエスさまを迎えるために棕櫚の枝を道に敷いたことから棕櫚の主日と呼ばれます。そしてこの週のうちに、イエスさまは十字架にかけられることになります。

ガリラヤ湖畔の町カファルナウム

 きょうもいつものようにルカによる福音書の続きの個所から、主の恵みをいただきたいと思います。
 前回、郷里のナザレの町で受け入れられなかったイエスさまは、カファルナウムという町に行かれました。カファルナウムという町は、イスラエルの北部にあるガリラヤ湖のほとりにありました。現在は、その遺跡が保存されています。8年前に、私もここにまいりましたが、町の家々の土台が発掘されて残っています。そして、ユダヤ人の会堂は、土台だけではなく、一部の壁と柱も残っていました。石造りの、頑丈そうな大きな建物でした。一般の民家は小さいけれども、会堂は大きい。当時の人々が、神さまを礼拝することを大事にしていたことが、その遺跡からも良く分かりました。
 そしてその会堂は、今日の聖書でイエスさまが安息日にお話しをしたまさにその会堂であると思うと、「ああ、本当にイエスさまは、この世にお出でになったのだなあ」という思いが強くさせられたものです。そうです。本当にイエスさまは、この世にお出でになり、地上を歩まれたのです。私たちは、なにか夢物語や空想上の物語を読んでいるのではありません。実際にこの地上にお生まれになり、歩まれた方を信じようとしているのです。
 そのカファルナウムの町で、イエスさまは安息日の礼拝の時に会堂で人々を教えておられたと書かれています。これは、1回だけ会堂で人々に教えられたということではありません。安息日ごとに教え続けられたのです。

驚く人々

 32節を見ると「人々はその教えに非常に驚いた」とあります。この「非常に驚いた」という言葉ですが、「仰天する」「驚愕する」というような強い意味の言葉です。つまりイエスさまの教えを聞いた人々は、びっくり仰天したのです。しかも、これも1回だけではありません。びっくり仰天させられ続けていたのです。1回聞いてビックリ仰天するのならまだ分かりますが、毎回のようにびっくり仰天するほど驚いたということになりますと、これはただ事ではありません。
 いったい人々は何にそんなに驚き続けたのでしょうか? そうすると聖書は、「その言葉には権威があったからである」と書いています。イエスさまの語る言葉に、権威があったというのです。

権威とは?

 しかし、イエスさまの言葉に権威があったというのは不思議なことです。なぜなら、当時の宗教家には、もっと権威があると思われる人々がいたからです。例えば律法学者という聖書の先生がいました。あるいは、ファリサイ派の先生方もいました。あるいは、神殿に仕える祭司がいました。そういう人々が、宗教的に権威がある人たちでした。
 それに対してイエスさまは、そういった宗教や聖書の専門家の先生の所に弟子入りして学んだわけではありません。さすらいの人です。ですから、この世の目で見れば、イエスさまには何の権威もないはずです。ところがイエスさまのお話を聞いた人々は、その言葉にびっくり仰天するほどの権威があったというのです。では「権威がある」とはいったいどういうことでしょうか?

神をよく知っている

 第一にそれは、「よく知っている」ということです。ある物事について、とてもよく知っている。他の人は知らないことも、その人は知っているという場合です。
 例えば、私の前任地の教会員に、虫の権威の人がいました。以前、寄生虫学会の会長をしたということでした。とくに、蚊の専門家でした。彼の大学の研究室に行ったことがありますが、たくさんの蚊を飼っていました。そして彼がその蚊を見るときには、まるで愛する人を見るときのような表情になるのです。お子さんにも蚊を名前の中に入れたほどです。彼は蚊を研究するために、世界各地に出かけて行きました。ですから、蚊や虫については、非常に詳しい。夏の教会学校の夏期学校の時の、付近の野山の散歩の時などは人気者でした。子どもたちが、虫を見つけては彼に聞きます。すると彼は即座に、それが何の虫であるかを答えるし、何を食べてどういう所にいるか、なども教えてくれます。それで子どもたちの尊敬を受けるというわけです。虫については誰もが彼に一目置く。もちろん子どもだけではなく、害虫の問題が起きるとマスコミも彼にコメントを求めます。紛れもなく、蚊や虫の権威でした。
 このように、権威があるというのは、他の人はあまり知らないことを非常によく知っているから権威があると言えます。
 そうすると、イエスさまの場合はどういうことになるでしょうか。イエスさまのお話しとは、聖書のお話しであり、神さまのお話しです。そうすると、先ほどの例を考えてみると、イエスさまは他の誰よりも神さまをよく知っているということであろうかと思います。
 ここで注意したいのは、「神さまについて」よく知っている人は、ほかにもいるということです。例えば、律法学者やファリサイ派の人というのは、旧約聖書をよく勉強していました。ですから、「神さまについて」よく知っていました。しかしそれは「神さまについて」知っているのであって、「神さまを」知っているかと言えば、それは別の問題です。
 例えば、野田総理大臣「について」知っているという人はたくさんいることと思います。どこの生まれで、どこの学校を卒業して、いま何歳で、身長は何センチであるか‥‥というようなことです。そのようなことは、インターネットで調べればすぐに分かります。しかし野田総理大臣「を知っている」かと言えば、それは付き合ってみなければ分からないことです。野田総理大臣がどんな人であるかということ。それは、実際にお付き合いしてみて、話しをし、行動を共にしてみて初めて分かることです。
 イエスさまのお話を聞いた人々は、イエスさまの言葉に権威があったので非常に驚きました。それは神さまよく知っていたからであると言えます。律法学者やファリサイ派の人々は、旧約聖書をよく勉強していた。だから、神さまに「ついて」知っていたと言えるでしょう。学問的によく知っていたのです。しかし、では「神さまを」よく知っていたかと言えばそうではない。神さまを知るには、神様とよくお付き合いしなければ分からないことです。神さまと深く交わらなければ知ることができない。
 その点においてイエスさまは群を抜いていたということでしょう。まるで神さまが目の前におられるかのように、イエスさまから神さまのことが生き生きと語られた。そのことで人々は、非常に驚いたのです。びっくり仰天させられたのです。
 私たちも同じではないでしょうか。私たちも神さまに「ついて」知りたいと言うよりも、「神さまを」知りたいのではないですか。「神さまについて」知るのであれば、学校で勉強すれば分かります。しかし「神さまを」知るのは、神さまと交わる必要があります。私たち自身が聖書の言葉に耳を傾け、祈るのです。神さまを信じて従っていくのです。

力がある

 第二に「権威がある」というのは、「力」を伴っているということです。ここで「権威」と訳された言葉は、「権力」という意味もあります。権力というのは、実際に物事を動かしていく力があるのです。
 例えば、私が「衆議院を解散する」と言っても何の物事も起きません。しかし総理大臣が「衆議院を解散する」と言ったら、本当にその通り解散します。それは権力だかです。そのように、ここで言う「権威」は、実際の力を伴っているということです。

悪霊を叱る

 実際にその会堂で、「汚れた悪霊にとりつかれた男」が叫び出しました。「汚れた悪霊にとりつかれた」ということがどういう状態のことなのか、ここには何も書かれていないので分かりません。いずれにしても、それは悪霊の問題なので、人々にはどうすることもできなかったのです。悪霊にとりつかれていた本人も苦しかったでしょうが、まわりもどうすることもできなかった。それは「霊」の問題だからです。
 ところがイエスさまが、この人に向かって「黙れ、この人から出ていけ!」とお叱りになると、悪霊は出ていったというのです。もう少し丁寧に言うと、イエスさまは、この人に向かって叱ったのではありません。この人にとりついている汚れた悪霊に向かって、「出ていけ」とお命じになったのです。するとその悪霊が出ていった。長い間この人を苦しめていた悪霊が出ていったのです。
 すなわち、イエスさまが命じると悪霊が出ていく。言うことを聞くのです。そんなことができるのは、イエスさまだけです。それは、目に見えない霊界における権威です。そういう力がイエスさまには伴っていた。それで人々は、非常に驚いたのです。

十字架の権威

 そのように、カファルナウムの会堂で人々が非常に驚いたイエスさまの権威とは、まず神さまを知っている権威であり、悪霊に対して出ていくよう命令する力を伴った権威です。すなわち、私たちはイエスさまを通して神さまを知ることができる。神さまは、私たちの手の届かないどこか遠い所におられるのではありません。イエスさまを通して、お付き合いすることができる、深く交わることができる方であるということです。私たちはイエスさまを信じることによって、神御自身を知ることができるのです。
 次に、私たちにはどうすることもできない問題に対して、イエスさまはそれを解決する権威を持っておられるということです。「悪霊」と聞かされると、私たちにはどうすることもできません。しかしイエスさまにはそれを追放する権威を持っておられるのです。権威というと、何か威張っているような印象を受けるかもしれません。しかしイエスさまの権威とはそのようなものではありません。私たちを愛し、私たちを救うために、十字架にかかって命を捨ててくださった権威です。これこそ、非常に驚くべき権威であり、私たちがびっくり仰天する権威です。この私を救うために、神の御子イエスさまが十字架で命を捨ててくださった。私たちを救うために十字架に上られた。そういう権威です。ですからそれは十字架の権威です。
 主イエスの十字架を思いつつ過ごす受難週でありますように。


(2012年4月1日)



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