礼拝説教 2012年3月25日

「偏見の損 〜今!〜」
 聖書 ルカによる福音書4章16〜30 (旧約 列王記上17:15〜16)

16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、
19 主の恵みの年を告げるためである。」
20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
22 皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」
23 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」
24 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。
25 確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、
26 エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。
27 また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」
28 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、
29 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。
30 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。




殺されそうになるイエスさま

 荒れ野で悪魔の誘惑を退けられたイエスさまは、いよいよ世の中に出て働きを始められました。ところが、今日の個所では、いきなりイエスさまが殺されそうになるという事件が起きてしまいます。イエスさまを町の外に追い出し、崖っぷちまで連れて行って、イエスさまを突き落とそうとしたというのですから、穏やかではありません。しかもそれは、イエスさまの郷里であるナザレの町での出来事です。いったいナザレの人々は、何が気に入らなかったのでしょうか?

郷里のナザレ

 実は、荒れ野でのイエスさまの40日間の断食と悪魔の誘惑の出来事と、きょうのナザレの村での出来事の間には、少し時が経っているようです。このルカによる福音書では、14〜15節のたった2節ですが、省略されています。だから、イエスさまが郷里のナザレに来るまでの間に、すでにイエスさまは福音を宣べ伝えたり、病気の人を癒したりされていました。それからナザレに戻られたのです。
 ナザレ、それはイエスさまがお育ちになった町です。私にも郷里があります。静岡県の金谷という町です。お茶の町です。今は隣の島田市に吸収合併されましたが。郷里に戻れば、幼なじみがいます。また、近所のおじちゃん、おばちゃんがいます。私の子どものころを知っている人たちがたくさんいます。同級生がいます。なつかしい場所です。しかし良いことばかりではありません。私にとって、思い出したくないことや覚えていてほしくないことも知っている者たちがいます。そういう特別なところが、郷里であると思います。
 イエスさまは、郷里のナザレに戻られ、安息日を迎えられました。ユダヤ人は、安息日には、町の会堂に集まって聖書の御言葉によって、神さまを礼拝しました。それでイエスさまも会堂に行かれました。そして、会堂長から聖書の巻物を渡されたので、それをお開きになりました。渡された巻物は、イザヤ書の巻物でした。そしてその御言葉を朗読され、お話しをなさいました。
 すると、会衆は皆イエスさまをほめたと書かれています。そして「この人はヨセフの子ではないか」と言ったと書かれています。これはどういう意味で言ったのでしょうか? いろいろ考えられますが、その前の「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った」ということとつなげて考えると‥‥「これは、あのヨセフのせがれのイエスではないか。いやまた、立派になったもんだ。たいしたもんだ。」‥‥というようなことではないかと思います。
 もし仮に私の郷里に教会があったとして、そこで私が礼拝説教をしたとしたらどうだろうかな?などと、不謹慎にもイエスさまと比べるわけではありませんが、想像してみました。おそらく誰も来ないでしょう。あるいは単なる興味本位で野次馬としてくる人が、数人いるかもしれませんが。もう、イエスさまとは全然違うことになるでしょう。
 イエスさまは、世に出られるまでは、全く人の子として歩まれたということを前にも申し上げました。それまでは福音を宣べ伝えたり、奇跡やしるしを行ったりということはなさらなかったのです。そのイエスさまが、聞くところによると、ガリラヤ湖畔の町のカファルナウムやいろいろな所で活躍をしている。そして病気を癒したり、悪霊を追い出したりということをしているそうだ‥‥ということがナザレの町の人たちの耳にも入っていたようです。そして今、この安息日に語られたメッセージは、すばらしい。「あのヨセフのせがれのイエスが、立派になったなあ」と言ってほめたということでしょう。
 そして、当然、カファルナウムの町でしたような病気の癒しや奇跡を、ここでもしてくれるに違いない、と思ったことでしょう。なぜなら、ここはイエスさまの郷里ですから。みな顔見知り、仲間じゃないか、というわけです。

受け入れられない

 ところがイエスさまは、それを否定なさいました。それどころか、旧約聖書の列王記に出てくるシドン地方のサレプタのやもめの例や、シリア人の将軍のナアマンという人の病気が癒されたことを例に持ち出されたのです。その二人は、いずれも、ユダヤ人にとっては異邦人です。異教徒であり、汚れた民です。この場にいたナザレの町の人々は、自分たちは、あの汚れた異邦人よりも劣っているのだと言われたと思って、カンカンに怒ったのだと考えられます。それは誇り高いユダヤ人にとってはそうとうな侮辱でした。そして、小さいころから良く知っているイエスが、そんなことを言う。かわいさ余って憎さ百倍、というわけで、郷里のナザレの人々の怒りは頂点に達し、興奮してイエスさまを崖まで連れて行って突き落とそうとしたのです。
 しかし不思議にも、イエスさまは崖から突き落とされることなく、人々の間を通り抜けて立ち去られました。
 さてこのことですが、なぜイエスさまはそんなことをおっしゃったのでしょうか? なぜイエスさまは、このナザレの町では、人々の病気を癒したり、奇跡をされなかったのでしょうか?
 それには、24節の言葉にヒントがあります。「預言者は自分の故郷では歓迎されないものだ」。これは新共同訳聖書の訳し方が、ちょっと適当ではないと私は思います。なぜなら、当初はイエスさまはナザレの町の人々に歓迎されたように見えるからです。この「歓迎されない」という言葉は、実は「受け入れられない」という意味なんですね。つまり「預言者は自分の故郷では受け入れられないものだ」、とおっしゃっているのです。そう訳した方が分かりやすいです。
 「預言者」というのは、神の言葉を伝える人です。つまりここでイエスさまがおっしゃっていることは、預言者が語る神の言葉を、故郷の人々は神の言葉として受け入れない、ということです。故郷の人々は、なまじ子どもの時からのイエスさまを良く知っていただけに、その語られる言葉を、神の言葉として聞くことができない、ということです。だから、イエスさまは奇跡をなさることができない。
 それに対して、ユダヤ人が軽んじていた異邦人であるシドンのサレプタの貧しいやもめはどうだったか。列王記上17章です。そのやもめは、あまりにも貧しくて、子どもと一緒に最後にわずかに残った小麦粉で、最後のパンを作って食べ、あとは何もお金もなく食べる物もなく、死ぬのを待つばかりという状態でした。預言者エリヤは、そんなに貧しいやもめの所に行って、わたしのためにパンを作って食べさせてくれ、と言ったのです。何というひどいことかと思います。しかしエリヤは、神さまの言葉をやもめに告げました。「イスラエルの神、主はこう言われる。主が地の表に雨を降らせる日まで、壷の粉は尽きることがなく、瓶の油はなくならない」と(列王記上17:14)。するとやもめは、エリヤを通して語られた神の言葉を信じ、その通り従ったのです。すなわち、最後の小麦粉でエリヤのためにパンを作りました。すると、作っても作っても、来る日も来る日も、不思議にも壷の中の小麦粉も、瓶の中の油もなくならなかったのです。そういう奇跡が起きました。
 シリアの将軍ナアマンもそうです。預言者エリシャの言葉を聞いて従って、ヨルダン川で七度体を洗って、病気が癒されたのです。
 そのように、神の言葉を聞いてそれに従うときに、神さまの御業が現れていくのです。ところがナザレの人々は、「あのヨセフのせがれのイエス」というイメージにとらわれてしまって、イエスさまから神の言葉を聞くことができなかったのです。なるほど、「イエスは立派になった、たいしたもんだ」とは思ったけれども、そこに神の言葉を聞くことができなかった。だから何ごとも起こらないということになったのです。
 すなわち、信仰抜きには何も起こらない、ということです。イエスとは幼なじみだから、そのよしみで奇跡やしるしを行ってくれ‥‥ということはあり得ないのです。幼なじみであろうが、昔から良く知っていようが何だろうが、問題は、イエスさまの言葉を神の言葉として聞く、ということです。

今日

 さて、少し戻りますが、イエスさまが朗読された旧約聖書のイザヤ書ですが、18〜19節に言われているとおりです。イエスさまは、イザヤのこの預言について、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にした時、実現した」とおっしゃっています。「今日、あなたがたが耳にした時」というのは、今イエスさまがそれを朗読されたのですから、「今」実現した、成就した、ということです。つまりイエスさまがこれを語られたことによって、預言が成就したというのです。つまりこれは、イエスさまがメシアでありキリストであり救い主であるということを暗示しているのです。「メシア」「キリスト」という言葉は、「油を注がれた人」という意味だからです。
 そういう思いで、もう一度その預言を見てみましょう。
 「主の霊がわたしの上におられる。
  貧しい人に福音を告げ知らせるために、
  主がわたしに油を注がれたからである。
  主がわたしを遣わされたのは、
  捕らわれている人に解放を、
  目の見えない人に視力の回復を告げ、
  圧迫されている人を自由にし、
  主の恵みの年を告げるためである。」
 なんだか、あんまり自分とは関係ないなあ、と思われるでしょうか。これを読んで、何かキリストというのは、経済的に貧しい人や、奴隷や、刑務所に捕らえられている人を解放し、目の見えない障害者の目が見えるようにし、また、独裁者に圧迫されている人を解放する‥‥そういう何か革命家か、政治家であるかのように読めるからです。そうすると、何かあまりピンと来ません。
 しかし実はそういうことではないのです。「貧しい人」というのは、新約聖書では必ずしも経済的に貧しい人、ということだけではありません。むしろ「心が貧しい」ということです。「自分はダメだ、救われるに値しない」と思っているような人です。「捕らわれている人」というのも、なにか刑務所に捕らえられている人、ということではありません。罪によって捕らえられている、悪魔によって捕らえられている、ということになります。また、「目の見えない人に視力の回復を告げ」というのも、直訳すると、「見えない人が見えるようになり」ということです。見えるべきものが見えていない人が、見えるようになるという意味になります。また、「圧迫されている人」というのも、何か独裁者によって虐げられている人、ということではありません。この「圧迫されている」という言葉には、「精神的に押しつぶされている」という意味があります。つまり、さまざまなストレスを受けている人、ということです。
 いかがでしょうか?ずいぶん分かりやすくなりましたか?‥‥そうです。これは私たちのことを言っているのです。神からの救い主キリストは、私たちを救うために来られるのだと。他人事ではありません。このわたしを救うために来られたというのです。そしてその予言が「今」実現した、成就した、というのです。「やがて」ではありません。「いつの日にか」でもありません。「もうすぐ」でもありません。「今」です。
 世の中には、なかなか、「今」素晴らしいことが起きる、ということは少ないと思います。私は小さいころ、ピアノが弾けるようになりたくて、ヤマハ音楽教室に通いました。その後もピアノの先生に倣いました。先生は言いました。「いっしょうけんめい練習すれば、やがて上手になる。難しい曲も弾けるようになる。」‥‥でも、その「やがて」とはいつの日のことか分かりません。つまらない練習曲ばかり弾かせられたし、全然弾けるようにならないので、イヤになって辞めてしまいました。
 努力すればいつの日にかきっと、ということが世の中にはたくさんあります。「もう自分は年だから、遅い。もう少し若ければ‥‥」ということもたくさんあります。しかしここでイエスさまがおっしゃっておられるのは、21節です。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にした時、実現した」と。
 修行をすれば、いつの日にか救われるかもしれない、というのではありません。イエスさまの言葉を聞いた今日です。今、です。御言葉を聞いた今、私たちがイエス・キリストを信じるならば、私たちは予言の言葉の通り救われ、解放され、自由になったのです。イエスさまが共におられ、神の御業が現れているのです。


(2012年3月25日)



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