礼拝説教 2012年3月18日

「上下をわきまえる」
 聖書 ルカによる福音書4章9〜15 (旧約 箴言3:34)

9 そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。
10 というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』
11 また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」
12 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。
13 悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。
14 イエスは"霊"の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。
15 イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。




悪魔の第3の誘惑

 イエスさまは世の中で福音を宣べ伝える前に、荒涼とした荒れ野で40日間の断食をなさいました。そして悪魔の誘惑を受けられました。今日はその3つ目の誘惑です。
 今度は悪魔は、イエスさまをエルサレムの神殿に連れて行き、その屋根の端に立たせたと書かれています。エルサレムの神殿とは、ユダヤ人の信仰の中心です。神殿と呼ばれるものは、この一個所だけで、ユダヤ人はここに動物のいけにえを携えてきて、神さまを礼拝したのです。当時の神殿は、ヘロデ大王の建てた神殿で、それは大きくて見事なものだったそうです。敷地面積はエルサレムの街の6分の1を占めており、神殿は高い石積みの壁で囲まれ、建物本体、つまり本殿は高さ14メートルほどで4階建てのビルに相当し、すべて大理石でできており、太陽の光にさん然と輝いていたそうです。
 悪魔はイエスさまをその本殿の建物の屋根に連れて行き、このように言いました。(4:9-11)「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』 また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」
 それまでの悪魔の2つの誘惑を、イエスさまは聖書の言葉を引用して退けました。すると今度は、悪魔も聖書の言葉を引用して、イエスさまを誘惑しようとしたのです。同じ聖書を使ってきたのです。いよいよ巧妙になり、悪魔の誤りを見出すのが難しくなってきます。悪魔は旧約聖書の詩編91編11〜12節を引用して、イエスさまに対して、「この神殿の屋根から飛び降りてみたらどうですか?地面に打ちつけられないように、天使が来て助けてくれるんでしょ?そう聖書に書いてありますよね」とそそのかしたのです。
 さて、ここで、悪魔はなぜ神殿の屋根に連れて行ったのでしょうか?‥‥単に高い場所から飛び降りるということだけなら、なにも神殿の屋根でなくても良いはずです。もっと高い断崖絶壁のある山に連れて行ってもよかったはずです。しかし悪魔はエルサレムの神殿の屋根の橋に連れて行った。それはなぜか?
 それはおそらくこういうことでしょう。つまり、エルサレムの神殿には、全国から神を礼拝するために多くの人々がやってきています。だから神殿の境内には、多くの人が礼拝をしている。しかも礼拝に来ているユダヤ人の多くは、メシア(キリスト)がいつ現れるかと、待ち望んでいるのです。その人々の前に飛び降りろ、というわけです。そして飛び降りて、神さまが天使を遣わして助けて下さる。天使がイエスさまが地面に打ちつけられないように現れて、サッとイエスさまの体を支えて、ふわりと地面に着地させる‥‥。そうすれば人々は驚嘆し、この方こそ真にメシアに違いないと信じることでしょう。そうすれば、イエスさまが十字架への道を歩むこともなく、人々はイエスさまをメシアであると信じるのです。イエスさまは一気にキリストと呼ばれるでしょう。
 これは私たちの伝道も同じではないかと思います。私たちの伝道も、同じように高い所から飛び降りて、そして天使がサッと現れて助けてくれたとしたらどうだろうか‥‥。おそらくそれは、テレビ、マスコミの話題を一気にさらうこととなり、実況中継されて、教会にはドッと人が駆けつけることになるでしょう。そうすれば、苦労して祈って伝道する必要もなくなるではないか、と。そのように思われます。
 しかし考えてみますと、それで人間が本当に悔い改めたと言えるのでしょうか。そもそも人間が神さまに背いて罪を犯し、滅びに向かっている。その人間を救うために神さまはイエスさまをお遣わしになったわけです。そして私たち人間の罪を贖うために、十字架への道を歩み始められる。それは私たちに、罪の悔い改めを求めるものです。しかし高い所から飛び降りて、天使が救いに現れるような形で人間がイエスさまを信じたとして、それは悔い改めになっていません。人間は何も変わらないのです。罪が残ったままです。

聖書の言葉を引用する悪魔

 さて、そのように、悪魔の言っていることは、やはりおかしいと思われるのですが、問題は悪魔が聖書の言葉を引用していることです。だからその間違いが見えにくくなっているのです。今回は悪魔も聖書を引用して、天使が助けに来るのだから、飛び降りてみなさいと言う。それに対してイエスさまはどうされたか?‥‥イエスさまは、今回もまた聖書を引用してお答えになっています。(12節)「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」。
 悪魔も聖書の言葉をもって語り、イエスさまも聖書の言葉をもって答えておられる。いったいどちらが正しいのか?‥‥ということになりますが、もちろんイエスさまが正しいに決まっています。正しいに決まっていますが、では悪魔の引用した聖書の言葉はウソかと言えば、そういうことではないでしょう。ただ、聖書は自分勝手に引用するものではないということだけは、ここから教えられることです。聖書を自分の都合の良いように用いてはならない。むしろ聖書は、その時その時によってふさわしい言葉があり、また原則があるということでしょう。

神を試みる

 では今回イエスさまが引用なさった聖書の言葉は、いったい何を言わんとしているのでしょうか?
 イエスさまが12節で引用なさった聖書の言葉は、旧約聖書の申命記6:16の引用です。それはモーセの言葉の中にあります。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」
 イスラエルの民が、マサという場所で神さまを試したと言っています。そしてそのように神さまを試してはならないと。そのマサでの出来事というのは、同じく旧約聖書の出エジプト記17章に出てきます。長くエジプトの奴隷となっていたイスラエルの民が、神さまの奇跡によってエジプトを脱出することができました。しかし脱出していった先は、シナイ半島の荒れ野でした。それで飲み水がない。飲み水がないと人間死んでしまいます。それでイスラエルの人々は、あせりました。エジプトから奇跡をもって脱出できた神さまの恩を忘れて、「なぜ我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子どもたちも、家畜までも渇きで殺すためなのか」(出エジプト記17:3)と言ってモーセを石で打ち殺そうとしました。イスラエルの人々は、「果たして主は我々の間におられるのか」と言ってモーセと争い、主なる神さまを試したと書かれています(同17:7)。
 つまり、荒れ野に導き出した方は主なる神さまなのだから、神さまがちゃんと水を与えて下さる、と信じることができずに、神の僕であるモーセを殺そうとした。これが神さまを試みることであったというのです。その時人々は、モーセを殺そうとしたのですが、それはつまり、主なる神さまを抹殺しようとしたということです。人間のほうが神さまよりも偉くなってしまったのです。
 さて、イエスさまが引用された「あなたの神である主を試してはならない」という言葉は、キリスト者の間ではたいへん有名なみことばとなっています。それで、キリスト者の中には、なんでもかんでも神さまに「しるし」を求めてはならないのだ、それは神さまを試みることになるのだ、と考える人がいます。
 しかし、聖書の中で神さまを「試してみなさい」「試みてみなさい」と書かれている個所があるのをご存知ですか?‥‥まさかと思う人もおられるかもしれませんが、ちゃんとそういう個所があるのです。それは旧約聖書の一番最後の書物であるマラキ書の3:10(新共同訳聖書)の言葉です。‥‥「十分の一の献げ物をすべて倉に運び、わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと、万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために、天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう。」 これは預言者であったマラキという人が書き留めた主なる神さまの言葉です。「10分の1の献げ物」とは、その年の全収穫物の10分の1を神さまに献げるという、いわば10分の1献金のもととなったものです。それを献げてみなさい、そして神さまが天の窓を開いて祝福して下さるのを見なさい、そのように「わたしを試してみなさい」と神さまがおっしゃっておられるのです。
 そのように、主が、「わたしを試してみなさい」とおっしゃる個所がある。それに対して、今日の個所でイエスさまが悪魔に対して「主を試してはならない」とおっしゃったみことばは、矛盾するのでしょうか? 一見、反対のことを言っているように見えるけれども、どう違うのでしょうか。

上下をわきまえる

 さて、悪魔の誘惑を丁寧に見てみましょう。すると、悪魔が言うのには、イエスさまに向かって、神殿の屋根から飛び降りてみよ、というのです。そうすれば天使が助けに来てくれる、と。神さまが「飛び降りろ」とおっしゃらないのに、飛び降りてみよ、そうして神さまに助けさせろ、というわけです。‥‥もっと分かりやすく言えば、「オレが飛び降りるから、神さま、よろしく助けなさい」ということです。自分が勝手に飛び降りて、そうして神さまに助けさせるということです。つまりこれは、人間が主人で、神さまが召使いのようです。
 それに対して、マラキ書のほうは、主なる神さま自らが「わたしを試してみよ」と人間に命令しています。つまりこちらは、神さまが主人で、人間がしもべです。
 すなわち、イエスさまが引用された「あなたの神である主を試してはならない」というみことばは、あたかも人間が主人となり、神さまを召使いであるかのようにしてはならない、ということです。神さまが私たちの主人であり、私たちはそのしもべです。この上下関係は、絶対にひっくり返してはならないのです。上下をわきまえなさい、ということです。
 現代は、何でも平等だと言って、それが高じて、何が上か下かも分からなくなってしまったような感があります。もちろん、人間としての権利や尊厳は神さまの前には平等です。しかし聖書を見ると、ちゃんと上下の秩序があることが分かります。たとえば、十戒の中にある「あなたの父母を敬え」(出エジプト記20:12)。これは、良い父母だから敬いなさい、悪い父母ならば敬わなくてよろしい‥‥というようなことではありません。そのような条件抜きで、「あなたの父母を敬え」なのです。それは神さまの定めた秩序だからです。
 神さまが私たちの主人です。私たちはそのしもべです。その絶対の秩序をひっくり返してしまおうとしたのが、今日の悪魔の誘惑でした。それをイエスさまは退けられ、神のしもべとして神に従っていく道を選ばれたのです。そうして聖霊に満ちて、世の中での働きを開始されました。

神の主権

 それゆえ、神を主人、自らをしもべとして、へりくだって神さまにしるしを求めることは、罪ではありません。
 私が若き日に仕事を辞めて献身し、上京して東神大に入学したことは前にもお話ししました。そして上京したら、FEBCラジオで親しんだ清水恵三牧師がいる三鷹教会に通うことに決めておりました。そして上京し、東神大の学生寮に入り、日曜日になったら三鷹教会の礼拝に出席しようとしておりましたら、寮の先輩が、「やめたほうがいい」というのです。なぜかと言えば、「清水牧師は違う神学校の出身だから」というのです。
 私は「そんなものかなあ」と思いましたが、動揺してしまいました。何か不都合なことがあるんだろうか、なにか不利益があるのだろうか‥‥と、いろいろなことで迷ってしまいました。それで、主に祈ったのです。「主よ、今度の日曜日に三鷹教会の礼拝に行きますから、私が通うべき教会かどうか、どうか『しるし』を与えて下さい」と。言っておきますが、真剣に祈りました。
 そして日曜日を迎え、教えられたとおりの道をたどって、三鷹教会に行きました。そして狭い会堂の席に座りました。礼拝が始まり、清水先生の説教が始まりました。先生は、旧約聖書のヨブ記の連続講解説教をなさっていたようで、その日はヨブ記の一番最後の章でした。そして先生が、「神の主権」とおっしゃったのです。「神の主権」。その言葉を聞いた瞬間に、私はどうしようもないほどの衝撃を受け、涙が止めどもなく流れてきたのです。
 神の主権‥‥自分は何を迷っていたのだろうか。人間の考えで、あっちがよい、あれが心配だ、これが心配だと迷っている。それは人間中心の考え方だ。あなたはなぜ、神さまに主権を渡さないのか。あなたのことは神がすでに決めておられる‥‥そのように主に言われたように思われました。そして、神はこの教会に通うように決めておられると確信できました。その神さまに従う決心が与えられたのです。
 神さま、主イエスさまが私たちの主人です。私たちはしもべです。そしてその主は、御子イエスさまを十字架に付けるほどに、私たちを愛して下さる方です。そしてこのことを信じた時に、平安が訪れます。


(2012年3月18日)



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