礼拝説教 2012年3月11日

「世界の持ち主」
 聖書 ルカによる福音書4章5〜8 (旧約 出エジプト記19:5〜8)

5 更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。
6 そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。
7 だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」
8 イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」




大震災から1年

 先ほどは聖歌397番「とおきくにや」をご一緒に歌いました。東日本大震災から半年経った、昨年の9月11日にも礼拝で歌いましたが、この曲は大正12年の関東大震災の時に、マーチンという宣教師が震災の最中で作った曲です。どんな時にも、十字架の主イエスがおられることを信じる者でありたいと思います。
 本日は昨年の東日本大震災からちょうど1年が経ちました。その時、私はまだ富山におり、確定申告のために富山税務署にいました。富山では震度3ほどだったので、そんなに被害が出ているとは思いませんでしたが、ちょうど静岡にいた家内から携帯電話に電話があり、たいへんな地震だったようだというので、携帯でワンセグのテレビを見てみました。すると津波警報が出ており、東北の沿岸を津波が襲いつつある光景が報道されていたのです。この世のものとは思えないその光景に、日本が崩壊していくような印象を持ったものです。非常につらく、また悲しい出来事でした。
 それから1年が経ちました。テレビや新聞では、連日特集が組まれています。そして今なお復興を妨げているものとして、津波の被災地で発生した大量の瓦礫の山、そして原子力発電所の事故が挙げられています。
 先週、鳥居坂教会で教団の宣教方策会議が開かれ、その中で被災地の教区からの報告もなされました。東北教区議長が、瓦礫の処理への協力を訴えていました。
 ただそのような中で、証しも語られました。東北教区では仙台と石巻にボランティアセンターを開設していますが、さらにもう一個所、仙台の津波の被災地にボランティアセンターが開設されることになりました。そこはもともとキリスト教が受け入れられない地域であったそうですが、他の地域でのキリスト教会のボランティアなどの活動を地元の人が見ていて、キリスト教会は良くやっていると評価をされ、「ぜひこちらにも開設してほしい」という要望があり、開設の運びになったというのです。そのような形で、教会が理解されるというのはとてもうれしいことです。まだまだ津波によって泥まみれになった家の泥のかき出しのボランティアの要望が多いそうです。
 被災地の真の復興のために祈りを継続していきたいと思います。

悪魔の第2の誘惑

 さて、イエスさまが荒れ野で受けられた誘惑の続きです。悪魔の第2の誘惑は、世界のすべての国々の権力と栄光を与えようというものでした。悪魔は、一瞬にして世界のすべての国々にを見せた、と書かれています。すごいなあ、と思います。悪魔にはそんなことができるんだなあ、と思います。しかしまさに、そのように悪魔はすごいと思わせるところから、すでに悪魔の術中にはまりつつあるのです。
 そして悪魔はイエスさまに言いました、「この国々の一切の権力と繁栄を与えよう」。ここでひとことこの日本語の翻訳に注文を付けておきますのは、「繁栄」という日本語訳です。この言葉は「繁栄」と訳すよりも「栄光」と訳したほうがよいでしょう。悪魔はそのようにイエスさまに、この世の国々のすべての権力と栄光を与えましょうと言ったのです。
 全世界の権力と栄光!‥‥それは圧倒的な権力者、支配者となるということです。ただ今、アメリカでは大統領候補を選ぶための共和党の選挙戦が続いています。候補者同士が、激しい争いを展開しています。また先頃には、ロシアでも大統領選挙がありました。この日本でも、毎年総理大臣が交代し、いつも権力争いが展開されています。それがこの世の中です。ですから、「この国々の一切の権力と栄光を与えよう」という誘いは、政治家であればのどから手が出るほど欲しいことでしょう。
 注意していただきたいのは、私はこのように言って政治家を何か卑しめているのではありません。政治家の方々は、それぞれ自分が国を良くしようと思って頑張っておられるわけです。だから、最高の権力と栄光を手に入れれば、自分の理想とする政治を行うことができるのですから、だからこれは願ってもない誘いであると言えるのです。

悪魔の出した条件

 ただし、この悪魔の誘いには条件があります。それは、「もしわたしを拝むなら」という条件です。しかしこれはたいしたことのない条件に聞こえないでしょうか?‥‥悪魔を拝む。それはどうってことのないことのように思われます。悪魔の前にひれ伏して、それが何か大きな間違いであるのでしょうか?
 あるいは、いったん悪魔の前にひれ伏して拝んで世界のすべての国々の権力と栄光をいただいてから、世界を良いように改革すれば良いではないか、と思われます。いや、私ももしこの後のイエスさまの言葉を知らなかったとしたら、悪魔を拝んでいたかもしれない、などと考えたりするのです。伝道者としてです。なぜなら、次のように思われるからです。‥‥まず悪魔の前にひれ伏して、悪魔を拝んで、世界をいただいてその権力を手中にしてから伝道すれば、みんなイエスさまを信じるようになるではないか。そうすれば楽に伝道できる‥‥と。いかがですか? そのように考えると、悪魔の誘惑の言葉には、グラッと来るものがあります。
 そしてこの誘惑は、イエスさまにとっては重大なこととなります。それはつまり、十字架への道を歩まなくても良いではないか、という誘惑だからです。すなわち‥‥「十字架という茨の道を歩まなくても、まず私を拝めば、世界の権力と栄光を差し上げましょう。そうして世界をあなたの物にしてから、世界の人々を救えば良いではないですか」‥‥そのように悪魔は言っているのです。
 そのように、イエスさまにとっては、私たちを救うために十字架へ行く道をお取りになるのか、それとも悪魔を拝んで、まず世界を手中に収めてから、世界を救うという道をお取りになるのか‥‥。まさに手に汗を握るような誘惑です。

悪魔のウソ

 さて私たちはここで深刻に悩んでしまいます。しかしちょっと待って下さい。悪魔の言っていることは、果たして本当か?ということです。つまり、悪魔がここで言っているように、悪魔は本当に、この世の国々を支配しているのだろうか、ということです。
 たしかに、この世の有様を見ていると、そのように見えます。‥‥この地上から戦争が絶えたことがありません。あるいは、隣人との争い、家族の不和、憎しみ、ねたみ‥‥そのようなものが私たちの回りでさえも渦巻いています。人間のエゴによって、地球環境さえも危機的状況を迎えつつあります。弱肉強食の世の中です。落ちこぼれた者は、蹴落とされていきます。‥‥そのような現実の世の中を見ていると、まさに悪魔が支配しているように見えます。しかし、本当に悪魔が、この世の中を所有しているのか?
 6節を見ると、悪魔は「それはわたしに任されていて」と言っています。誰から任されたというのでしょうか?‥‥神さま以外にはあり得ません。神さまが悪魔に、この世の国々の支配を悪魔に任せたのでしょうか?
 そんなことはあり得ないのです。聖書のどこを見ても、神さまが悪魔にこの世の権力を任せたなどということは書かれていません。それどころか、ヨブ記の最初の所を読んでも、悪魔は、最後の審判の日まで、神さまの手のひらでようやく動いているにすぎません。しかしたしかに、この世の中は悪で満ちていて、悪魔が支配しているように見える。しかしそれは、人間の罪のゆえです。人間の罪が憎しみを引き起こし、ねたみや恨みを生じ、愛のない世界を形成しているのです。悪魔は、その人間の罪を利用しているにすぎません。
 旧約聖書の出エジプト記19:5を読んでいただきました。そこで神さまは、「世界はすべてわたしのものである」と力強くおっしゃっています。世界は主なる神さまのものです。悪魔のものではありません。良かったですね。
 つまり今日の誘惑の言葉で悪魔が言っていることは、ウソであるということです。悪魔は世界を所有していません。世界は主なる神さまのものです。私たちは、悪魔はウソつきであるということを知らなければなりません。そのウソを信じてしまえば、まるでオレオレ詐欺の犯人を信用するようなもので、破滅へと導かれるのです。

主のみを拝む

 悪魔は「もしわたしを拝むなら」と言いました。ここで使われている「拝む」という言葉は、ひれ伏すという意味で、普通は神さまに対して用いる言葉です。ですからここで悪魔は、自分を神の代わりに拝めと言っているのです。神さまに成り代わって、悪魔が神であるかのように拝みなさい、と。
 この誘惑の言葉に対して、イエスさまはまたも聖書の言葉を引用して答えられます。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある、と。この聖書の言葉は、旧約聖書の申命記6:13、または10:20の言葉であると言われています。しかしそちらを見ると、ちょっと言葉が違っています。しかし、これは旧約聖書のどの個所の通り引用された、というよりも、聖書全体が一貫して述べている真理であると言えます。
 イエスさまは、あれこれと理屈を述べて反論なさる、ということをされませんでした。ここで論争なさらなかったのです。ただ聖書の神の言葉でお答えになったのです。聖書は、ただ主なる神さまだけを拝み、主なる神さまだけを主人として仕えなさい、と書いてあると。ここに私たちも、どなたを拝み、どなたにお仕えするべきかの答えがあるのです。ウソをついて、自分に従わせようとする悪魔にか、それとも私たちを救うために十字架に向かって歩まれ、命を投げ出して愛して下さる方にか、ということです。

誘惑を退ける

 私たちも同じような悪魔の誘惑を受けます。以前、ヤクザの親分から回心してクリスチャンになった吉田芳幸さんという方のお話を聞いたことがあります。吉田芳幸さんは、むかし「大阪戦争」と呼ばれた有名なヤクザの抗争事件がありましたが、その一方の組長だった人です。大物です。覚醒剤と拳銃の取り引きで巨万の富を得るというワルの中のワルでした。ひと晩で何百万も豪遊するような派手な生活をしていました。その彼が、韓国人の女性と結婚しました。その女性が熱心なクリスチャンだったのです。
 以来奥さんは、吉田さんがイエスさまを信じるように熱心に祈り続けました。吉田さんから殴られ、蹴られても、祈り続けました。そうしてついに、吉田さんはヤクザ稼業に行き詰まり、回心して洗礼を受け、クリスチャンになったのです。そして足を洗いました。足を洗って、生活が苦しくて、しばらく八百屋で働いたそうです。月給は10万円だったそうです。ヤクザの親分だった時は、ひと晩で何百万も使っていた人が、月給10万円で苦しい生活をするようになった。その時たまたま、昔のヤクザの仲間で組長をしている人が通りかかって、言ったそうです。「吉田さんじゃありませんか。支度金を5億でも6億でも出しますから、うちの事務所に来てもらえませんか」と誘ったそうです。
 ものすごい誘惑ですね。しかし、ヤクザに戻ることは神様の御心ではありません。吉田さんは、それを断り、月10万円の八百屋で働くことを続けたそうです。
 私たちも経験するところです。つまるところは、私たちを食べさせて下さるのが、神さまなのかどうなのか、ということです。神さまを信じていて、生きていけるのか、食わせてもらえるのか、ということです。そんなもの信じたって、どうにもならないよ、と悪魔はささやいてくるのです。神さまやイエスさまに従って行ったって、ろくなことはないよ、と。
 しかし私たちは信じるのです。このわたしというつまらない人間を救うために、神の子であるイエスさまは人の子となられて、十字架への道を歩まれたのだと。その愛を信じるのです。


(2012年3月11日)



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