礼拝説教 2012年3月4日

「人は何によって生きるか」
 聖書 ルカによる福音書4章1〜4 (旧約 申命記8:2〜4)

1 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を"霊"によって引き回され、
2 四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。
3 そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」
4 イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。





荒れ野で誘惑を受けられるイエス

 バプテスマのヨハネから洗礼を受けられたイエスさまは、そのあとすぐに世の中に出ていって福音を宣べ伝えられたのではありませんでした。荒れ野というところに出て行かれました。荒れ野という場所は、この日本には存在しません。雨の降らない、ほとんど砂漠のような場所で、木も草もほとんど生えておらず、岩や石や地面がむき出しになっている場所で、誰も住んでいません。そこにひとり行かれました。
 なぜそんな所に行かれたのかと言えば、聖霊によって連れて行かれたというのです。つまり、神さまがイエスさまを荒れ野へと導かれたのです。そしてそれは何のためであったかというと、悪魔の誘惑を受けられるためであったということが分かります。
 聖書では、悪魔は誘惑するものとして登場します。この場合の誘惑というのは、「試みる」という言葉でもあります。誘惑といい、試みるといい、それは、人間が神を信じなくなるように誘惑するのです。あるいは、神さまから離れさせるために、そそのかすのです。悪魔というと、何か黒い体をして、角が生えしっぽが生えている姿を想像する方もおられるかもしれませんが、それは人間が勝手に想像することで、聖書にはそのようなことは書かれていません。むしろ悪魔は姿を隠して、多くは目に見えない形で、神さまから離れさせようとして働きかけてきます。
 ですから、今日の聖書の個所で、イエスさまが「悪魔から誘惑を受けられた」(2節)と書かれているのを見ると、「イエスさまでも悪魔から誘惑されるのか」などと思いますが、要するに、父なる神に従っていこうとするイエスさまを試みて、神さまに従う道からそらそうとして、働きかけてきたのです。
 このようなことは私たちも経験することです。私たちも日常生活の中で、非常につらいことが起きると、たちまち神さまが信じられなくなる。あるいは、困ったことがあるとたちまち平安を失って、神さまに頼ることを忘れてしまうということがあります。そのような形で、私たちもまた信仰の試練、誘惑を受けているのです。イエスさまは、まさに私たちがそのような信仰の試練や誘惑を受けるのと同じように、悪魔の誘惑を受けられたのです。私たちと共に歩まれるためです。

第一の誘惑

 イエスさまは荒れ野で40日間の断食をなさいました。聖書では、断食というものは、神さまと一対一になって祈るためにするものです。40日間といえば、たいへん長い断食です。断食の限界に近いと言えます。そして40日経って、神さまとの対話が終わって、空腹を覚えられたと書かれています。お腹がすいたのです。それはイエスさまが、まさに人の子として生きられたということです。だからそれはものすごい空腹だったことでしょう。
 するとそこに悪魔が語りかけてきました。「神の子なら、この石がパンになるように命じたらどうか」と。荒れ野だから、商店は愚か、民家もなく人っ子ひとりいない。食べる物も何も生えていない。しかし石はごろごろしています。その石をパンに変えてみよ、と。あなたが神の子ならば、できるでしょ、というわけです。
 なるほど、その通りです。イエスさまが神の子であるならば、神さまは何もないところから宇宙を造られたのですから、石ころをパンに変えるぐらいのことは朝飯前のはずです。しかしよく考えてみたら、私たちが同じ状況に置かれたとしたらどうか。私たちは石ころをパンに変えることはできません。そんな能力はありません。しかしイエスさまは、人の子であると同時に神の御子であるから、石をパンに変えることができる。
 だとすると、もしこの時イエスさまが、悪魔の言うとおり石をパンに変えて、自分の空腹を満たしたとしたら、その瞬間に、イエスさまは私たちとは全く違う人間だということになります。私たちを救うために、私たちと全く同じ姿になられ、私たちの悩み苦しみを担うために人の子としてお生まれになったイエスさまが、実は、いざとなればご自分の空腹を満たすために石をパンに変えてしまう方だとしたら、それは何かイエスさまという方が、やはり私たちとは違う、遠い存在ということになってしまうでしょう。
 この時イエスさまに語り変えてきた悪魔の誘惑とは、そういうことです。実に巧みです。そのようにして、イエスさまと私たちとの間にくさびを打ち込もうというわけです。イエスさまが私たちの罪を担うために来られたのはウソだ、ということにしてしまおうというわけです。

イエスの答え

 さて、イエスさまはこの悪魔の言葉に対して、どのようにお答えになるのか?‥‥まさに息をのむような展開です。するとイエスさまは、旧約聖書の言葉を引用してお答えになりました。「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」と。イエスさまは、ご自分の考えたことをおっしゃったのではなく、聖書の言葉に立ってお答えになったのです。
 さて、「人はパンだけで生きるものではない」という言葉は、世間でも知られている聖書の言葉の一つであると思います。その場合は、どのような意味で受け取られているかといえば、インターネットの中のことわざを解説しているサイトにこのように解説されていました。‥‥「人は物質的な満足だけを目的として生きるものではなく、精神的な満足を得るためにこそ生きるべきであるということ。」世間では、この言葉はそういう意味だと思われているのでしょう。
 しかし実はこの意味はぜんぜん違っているのです。イエスさまが引用したこの言葉は、旧約聖書の申命記8章3節の言葉です。そこでこの言葉がどういう意味で使われているのかを見なければなりません。
 これは旧約聖書の最大の預言者であるモーセが言った言葉です。昔、イスラエルの人々がやはり荒涼とした荒れ野を40年間もさまよいました。食べるものもなく、水もないような荒れ野をさまよったイスラエルの人々に向かって、モーセは、今まで主があなた方を飢え死にしないでもすむようにちゃんと守って下さったではないか、と思い出させるのです。食べるものがない荒野でマナという食べ物を降らせて人々に与え、岩から水を出して下さり、着物はすり切れず、足も腫れなかったではないか、と人々に神の恵みを思い出させているのです。その時モーセはこの言葉を語ったのです。
 『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』‥‥すなわち、神の言葉に従ったとき、神は私たちに必要なものはちゃんと与えて下さる、ということです。
 ですからイエスさまは、ここでは、石をパンに変えて自分の腹を満たすということはなさらないのです。神がここに私を導いたのだから、神がちゃんと私を守って下さる。飢え死にしないでもすむようにして下さる。神の言葉はそれほどに力がある。神が備えて下さる。神への深い信頼の言葉です。
 信仰というものは、何か高尚な思想ということではありません。私たちを本当に生かしてくださるのは誰か、ということです。神さまを信じるというけれども、本当に神さまの言葉を信じていって、生きていけるんでしょうね?ということです。

養ってくださる神

 静岡県の田舎町にいた私は、信仰告白をしてしばらくしてから、伝道者となるように神様の導きを受けました。それで献身して上京し、東京神学大学に入りました。ただし私は、貯金というものをあまりしたことがなく、当時も、友人が信用金庫に務めていて、頼まれて積立貯金をしていた12万円しかありませんでした。さいわいにも親がクリスチャンでしたので入学金は出してくれました。また、毎月の仕送りもしてくれると言いましたが、最低限の生活費だけを送ってもらうことにしました。なぜなら、親にそれ以上迷惑をかけたくなかったし、また、神さまがわたしを伝道者となるように招いたのだから、神さまがちゃんと生きていけるようにしてくださると信じることにしたからです。そういうわけで、蓄えもなく、神学生として続けていける経済的保証もなく献身しました。
 上京して、東神大の学生寮に入りました。そして在学中に通う教会として、以前からFEBCラジオで親しんでいた清水恵三牧師の牧会する三鷹教会に通うことに決めていました。誰からの紹介でもなく、私が勝手に決めたのです。
 そのようにして神学生としての歩みが始まりました。親からの仕送りは、寮費を払って、跡はほとんど食費で消えてしまう額でした。しかし他にも、専門書を買わなくてはなりません。また教会に出かけたりする交通費、またその他いろいろな細々としたお金がいるわけです。そして何よりも、神さまへの献金は、私は信仰告白をした時に、十分の一献金をすることを神さまと約束していましたから、これはどんなことがあっても削るわけにはいきません。
 さてそうすると、すぐに行き詰まってしまうようなことになりました。ところが、通っている三鷹教会が、神学生の奨学金を出してくれると言うのです。私が頼んだわけでもないのにです。私は、「ああ、やはり神さまはちゃんと備えてくださるのだなあ」と思いました。まこと神さまに感謝、教会に感謝でした。
 しかしそれでもまだ不足していました。専門書というのは高いのです。そういう費用を出すことができませんでした。それで何かアルバイトをしなければ、と思いました。しかし祈りをもって送り出されているのですから、学校の授業を休むわけにはいきません。学校の授業、それから教会での奉仕、それと両立するアルバイトはないだろうか、と思いましたが、そのようなアルバイトは見つかりません。困ったなあ、と思いました。
 すると、これもまたこちらが頼んだわけではないのですが、ある先輩から、急に人が必要になったからと、アルバイトを紹介されました。それは、女子大の門衛のアルバイトでした。女子大の正門の所に門衛所があり、夕方にそこに行って一晩泊まって、朝には帰ることができるのです。門衛所で勉強もすることができるし、夜寝ることもできる。それが週2回あるのです。「こんな都合のよいアルバイトがあるのだなあ」と感心するほど好条件のアルバイトでした。あとから聞くと、その手のアルバイトは東神大生の人気のアルバイトで、なかなかみつからないということでした。これもまた神様の助けでした。
 こうして、入学間もなくして、神学生として生活していくために必要なことは、すべて整えられました。神さまのほうが整えてくださったのです。
 そんな中で、これも神様の導きで、結婚することになりました。結婚すれば、東神大の学生寮は出なければなりません。それで武蔵境のアパートに引っ越しました。当時はバブルの全盛期を迎えつつあるときで、6畳一間のアパートなのに、たいへん高い家賃でした。生活は、幼稚園の先生をしていた家内の給料と、三鷹教会からの奨学金と、女子大の門衛のアルバイトでなんとかぎりぎり暮らしていけました。
 しかしそこでまた一つの試練がやってくることとなりました。家内が妊娠したのです。これは喜ばしいことです。しかし、臨月が近くなれば家内は幼稚園の教師を続けていくことができませんから、やめなくてはなりません。ということは、その分の収入が全部なくなるということです。ということは、それ以上学生生活を続けていくことはできなくなるということでした。私は思いました。「神様が伝道者になれと言うから行ったのだ。ということは、神様が守ってくださるはずだ。もし神学校生活ができないようになったら、それは神様がウソを言ったことになる。だからその時は牧師になるのをあきらめよう。」
 何という不信仰なことだったのでしょう。しかしお恥ずかしいながら、それが事実だったのです。私はそう思って、黙って待つことにしました。それは秋のことでした。翌年の3月をもって、家内は幼稚園を辞めることになりました。
 月日のたつのは早いものです。すぐに年を越して、新年となりました。しかし4月からのめどは何もたっていませんでした。そしてこのことは、誰にも言いませんでした。2月となりました。やはり何も起きません。何のめどもたちません。「いよいよ、すべてをあきらめる日が近づいてきたなあ」と思いました。それどころか、2月の末になって、白血病で闘病生活をしていた清水恵三牧師が、天に召されてしまいました。今まで陰になり日向になって、私を守ってきてくださった先生が亡くなってしまった。私は言葉もありませんでした。いよいよ絶望的に思えました。
 寒い2月が過ぎ、3月となり春になりました。しかし私の心は冬のようでした。やはり何も起こらない。家内は今月いっぱいで幼稚園を辞める。そしてやはり何のめどもたっていない。「やはり私があのとき聖書を通して神の言葉を聞いたと思っていたが、それは錯覚だったのだ。神様なんかいないのだ。」
 その3月がしばらく過ぎた頃、教会の書記役員が私に聞きました。「小宮山さん、奥さん妊娠しているけれど、今勤めているところはどうするの?」。私は答えました、「今月でやめることになっています。」すると彼はまた聞きました、「それであなたの生活はどうするの?」「いえ、何も考えていません」。すると、その人はあきれたように私の顔を見て、行ってしまいました。
 4月になりました。とうとう家内は上野の幼稚園を退職しました。やはりコトは起きません。ついに私が神学校をやめるときが来ました。「やはりすべては錯覚だったのだ、自分は実は伝道者として神さまから召されていなかったのだ」と思いました。すると、日曜日になって、あの役員さんがニコニコしながら私の所に来るではありませんか。そして言うのです。「小宮山さん。教会から毎月あなたに奨学金を出すことにしました。」「奨学金ならもうもらってますが。」「いえ、そんなものではありません。」そう言うと、ポンと私に封筒を渡したのです。そして言いました、「もし小宮山さんがこのまま牧師になるのなら、奨学金は返さなくても結構です。しかし、もし牧師にならなかったら、返してもらいます。」
 家に帰って、封筒を開けてみました。私はびっくりしました。そこには、なんと家内が3月まで幼稚園でもらっていた給料と全く同じ額が入っていたのです。 神学生がそのような額の奨学金をもらうなどという話を聞いたことがありませんでした。私が頼んだのでもないのにです。しかし神様は、ちゃんと準備していてくださったのです。しかも、「もし牧師にならないのなら全額返せ」という条件まで付けて、私が逃げられないようにしっかりと捕まえてくださったのです。イエスさまは確かに生きておられました。  「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」‥‥神さまの言葉に従って行こうとした時、神さまはちゃんと助けて下さるということです。そのような神さまを私たちは信じているのです。


(2012年3月4日)



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