礼拝説教 2012年2月26日

「ルーツ」
 聖書 ルカによる福音書3章23〜38 (旧約 創世記2:7)

23 イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それからさかのぼると、
24 マタト、レビ、メルキ、ヤナイ、ヨセフ、
25 マタティア、アモス、ナウム、エスリ、ナガイ、
26 マハト、マタティア、セメイン、ヨセク、ヨダ、
27 ヨハナン、レサ、ゼルバベル、シャルティエル、ネリ、
28 メルキ、アディ、コサム、エルマダム、エル、
29 ヨシュア、エリエゼル、ヨリム、マタト、レビ、
30 シメオン、ユダ、ヨセフ、ヨナム、エリアキム、
31 メレア、メンナ、マタタ、ナタン、ダビデ、
32 エッサイ、オベド、ボアズ、サラ、ナフション、
33 アミナダブ、アドミン、アルニ、ヘツロン、ペレツ、ユダ、
34 ヤコブ、イサク、アブラハム、テラ、ナホル、
35 セルグ、レウ、ペレグ、エベル、シェラ、
36 カイナム、アルパクシャド、セム、ノア、レメク、
37 メトシェラ、エノク、イエレド、マハラルエル、ケナン、
38 エノシュ、セト、アダム。そして神に至る





系図

 本日の聖書の個所は、イエスさまの系図です。イエスさまの先祖が誰であるかということを先祖にさかのぼって書き記しています。
 およそ系図というものは、他人の系図には全く興味が湧かないものです。他人が、「私の家の系図はこのようになっています」と言われても、どうでもよいことのように感じます。何か電話帳を見せられているような気持ちになります。しかし自分の系図となると、がぜん興味が湧いてくるものです。先日も、新聞の広告欄に「あなたの家の系図を作ります」というような広告が載っていました。何かと思ってみたら、戸籍調査に詳しい行政書士が、詳しく調べて家系を調査して作成してくれるのだそうです。しかもそれがけっこうなお値段らしいのです。そのような商売が成り立つということは、けっこう利用する人がいるということになるかと思います。
 そのように、自分の家系図となると、にわかに興味が湧いてくるものです。それはなぜか?‥‥それは、やはり自分のルーツを知りたいという思いがあるからであると思います。この自分はいったいどこから来たのか?‥‥そのことを知りたいという思いがあるからだと思います。

マタイと異なる

 さて、イエスさまの系図が書かれているわけですが、これも私とは関係のない人の系図だから興味が湧かず、何か電話帳を見せられているような気分になるかもしれませんが、実にここに大きな神さまからのメッセージを見出すことができるのです。
 まず、イエスさまの系図と聞いて思い出すのは、新約聖書の冒頭に記されているマタイによる福音書の系図であろうと思います。旧約聖書が終わって新約聖書に入る。その最初が、イエスさまの系図によって始まっています。ただし、今日のルカ福音書の系図と比べると、いくつかの違いがあります。まず名前の並べられている順序が違います。マタイのほうはアブラハムから始まって、イエスさまへと至る系図。それに対してルカのほうは、イエスさまから順にさかのぼっていく系図です。
 次に、系図に出てくる名前が違っています。とくに、イエスさまの地上における父となったヨセフの父は誰なのか、といったところから違っています。新約聖書の1頁と見比べてみると分かります。マタイのほうでは、ヨセフの父はヤコブになっています。ところが今日のルカのほうは、エリとなっている。さらにヨセフのおじいさん、ひいおじいさん‥‥とさかのぼっていくと、全部違うんですね。途中の、イスラエル王国が繁栄した時の王であるダビデまでの間が。
 これはいったいどういうことか?‥‥これにはいろいろな説があります。それをいちいち全部紹介することは、今日の説教のテーマではありません。しかし一つ説をご紹介しておくとしたら、むかし一般に考えられていたことですが、これはイエスさまの母マリアのほうの系図であるということです。例えばメソジスト教会の祖であるジョン・ウェスレーは、何の疑問もなくこれはマリアのほうの系図であると述べています。その場合は、「ヨセフはエリの子」とあるのは、エリはヨセフの義父であるということになります。そして私はこれは、有力な説明であると思います。というのは、今日の23節を見られると分かるのですが、「イエスはヨセフの子と思われていた」と書かれていることです。つまり世間の人々は、イエスさまの父はヨセフであると思っていた、ということです。本当はヨセフではないことを、マリアとヨセフ、そして私たちは知っています。あのクリスマスの出来事です。マリアは聖霊によって身ごもったということを。
 だから、ルカの系図がこの世の血のつながっているルーツを示そうというものであるならば、ヨセフのほうをたどっても意味がないことになります。それはイエスさまの母であるマリアのほうの系図をたどらないとなりません。したがって、ルカによる福音書のほうはイエスさまの母マリアの系図であると考えることもできるのです。
 さらに、二つの系図の違いは、マタイのほうは最初の人類であるアダムから始めるのではなく、イスラエルの先祖であるアブラハムから始まっている。これは、旧約聖書の創世記12章で、神さまがアブラハムに対して、アブラハムの子孫によって世界の民を救うという約束が、どうなったか、ということを言わんとしているものです。神さまがその昔アブラハムに対して約束されたことは、ずっとお忘れになることなく、ついにイエスさまに至って成就しましたよ、と言っているわけです。
 それに対してルカのほうは、イエスさまから始まって、ずっとさかのぼっていき、最初の人類であるアダムに行き着く。これは先ほど述べたように、イエスさまの人の子としてのルーツを明らかにしているわけです。そしてこれは、イエスさまだけのルーツを示しているのではありません。私たち人間のルーツを示しているのです。

神に発している

 私たちは、毎日の生活の中で一喜一憂しています。いろいろなことで悩み、また心配し、不安に感じたりします。しかし時には、大きくカメラのレンズを引くようにして、私たちの人生の全体像を見ることも大切であると思います。
 私は、強くないのですが、ちょっとだけ囲碁をやります。そうすると囲碁には「大局観」という言葉があります。大局観というのは、囲碁は白石と黒石の戦いなのですが、そのまさに戦っている部分だけに捕らわれると、間違ってしまうのです。戦っている個所だけを見るのではなく、大きく碁盤全体を見渡しつつ石を打たなければ、結局は負けてしまう。それが大局観です。
 そういう意味で言うと、系図は大局観であると言えます。しかしそのように言うと、「私は自分の家の系図が分からない」と言われる方も多いと思います。かく言う私もそうです。おじいさんのおじいさんぐらいまでは分かるのですが、そこから先は分かりません。しかしさらにさかのぼっていくと、必ず行き着く共通の先祖があるのです。それが今日の系図では36節の「ノア」です。ノアの時に大洪水が起き、ノアとその家族以外の人類がいったん滅びました。それでいまの人類は皆ノアの子孫であるというのが、聖書の示しているところです。
 つまり、私たちは、私のように、おじいさんのおじいさんまでしか系図が分からないという人でも、ずっとずっとさかのぼっていくと、皆さんノアに行き着くということです。どんなに「私の先祖は殿様である」という人でも、あるいは「私の先祖は平凡な庶民である」という人も、ずっとさかのぼっていくと、皆必ずノアに行き着く。これは本当に素晴らしいことであると思います。家系図でガッカリする必要もないし、逆に自慢するのも空しいことであるということになります。みな同じ先祖に行き着くのです。まさに「人類みな兄弟」だということがはっきりします。
 そしてさらに素晴らしいことは、36節のノアからさらにさかのぼっていくと、結局どこに行き着くのか、ということです。38節に行って、「エノシュ、セト、アダム。そして神に至る」と記されています。「そして神に至る」!‥‥神さまに行き着くのです。イエスさまのルーツと、私たちのルーツは、同じ所に行き着く。それが神さまであると言っているのです。
 これは今日読んだもう一つの聖書個所、旧約聖書の創世記2章7節がそれを表しています。‥‥「主なる神は、土のチリで人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きるものとなった」。神さまが、人間の鼻から息を吹き入れられて、そうして人間が命を得たと書かれています。まさに神さまが大切にお作りになった人間に、大切にご自分の息を鼻から吹き入れられたということが、ジーンと伝わってくるように感じます。
 このようにして、私たちは皆、神さまに命のルーツを持つと聖書は言っているのです。これは、こんにち、教会が声を大にして世間に向かって言いたいことではありませんか。「あなたは偶然に生まれたのではない」と。「あなたは、偶然生まれて偶然死んでいくのではない。たまたま生まれたのでもない。神さまが、まさに鼻から大切にご自分の命を吹き入れられたように、神さまによって命を与えられたのですよ」と。
 そのように神さまが私たちに命を与えられた、というところに、初めて人生の本当の意義を見出すことができると思います。それゆえ、キリストを信じるということは、なにか自分の先祖の宗教から鞍替えするということではありません。私たち皆が、もともと出た神さまのもとへ帰っていくということです。私たちのルーツに戻るということです。

イエスを遣わす

 そして、なぜイエスさまはその神さまが造られた人間の子孫として、人の子としてお生まれになったのか?
 それは、神さまは私たち人間を造りっぱなしにされない、ということです。神さまが最初に造られた人であるアダム。アダムとエバの夫婦は、神さまに背いて罪を犯し、死が入り込んでしまいました。ですからその子孫である全人類は、みな罪人であり、滅びに向かっています。それは現代の世界を見ても分かります。また私たちひとりひとりを見ても分かります。
 しかし、アダムの末として、イエスさまを人の子としてこの系図の最後に神さまが生まれさせたということは、まさに神さまは私たち人間を造りっぱなしにされないということです。そして、そのイエスさまが私たちを救うために十字架へ向かわれた。救うためにです。それゆえ、神さまは、この私たちひとりひとりに対しても、私たちに命を与えっぱなしであとは知らん、ということではないのです。私たちに命をお与えになった神さまは、この私たちの人生に対して大きな関心をもっておられ、私たちをイエスさまによって救うために導いておられるということです。
 すなわち、私たちは神さまによって愛されています。感謝です。


(2012年2月26日)



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