礼拝説教 2012年2月19日

「神の愛する子」
 聖書 ルカによる福音書3章15〜22 (旧約 イザヤ書42:1〜5)

15 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。
16 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
17 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
18 ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。
19 ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、
20 ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。
21 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、
22 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。





救いを求める人々

 15節「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた」。
 ここで言う「メシア」というのはキリストのことです。ユダヤ人の言葉であるヘブライ語で「メシア」と言い、ギリシャ語に直すと「キリスト」となります。メシア、キリストとは、救い主と日本語に訳されます。人々がメシアを待ち望んでいたのは、旧約聖書の預言が、メシアの到来を約束しているからです。ただそれが「いつ」メシアが来るかということは明らかにされていない。いつ神さまの約束のメシアが来るかということは、神さまが決めることだからです。だから人々はそれを信じて待っていました。そしてバプテスマのヨハネが現れた時、ユダヤの人々は、「もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた」のです。それで荒れ野の中を流れるヨルダン川のバプテスマのヨハネの所に、悔い改めの洗礼を受けるために出かけて行ったのです。
 わざわざ荒れ野の中のヨハネの所に人々が出かけて行ったのは、前回学びましたように、ヨハネの所に神の言葉が降ったからです。荒れ野の中に行かなくても、エルサレムの都には神殿が建っていて、大祭司や祭司、レビ人などの宗教家がおりました。また町には、ファリサイ派の先生や、聖書学者の先生たちがいました。しかし人々は、そういった人たちの所に神の言葉を聞きにいったのではなく、荒れ野の中のバプテスマのヨハネの所に行った。私はこれはとても考えさせられることだと思います。
 先週、教団の常議員会があり、私も出席してまいりました。その中で、伝道方策検討委員会という部署からの報告がありました。その報告の中で、全国の日本基督教団の教会の教勢を詳細に分析した結果、20年後には、教団の信徒は30%も減ってしまうという見通しが示されました。それを聞いて、皆さん深刻になっておられました。
 しかし私はぜんぜん深刻ではありませんでした。むしろ、現状をしっかり見据えて、悔い改めるよいきっかけになればと思いました。
 先週、テレビのワイドショー番組で、ある女性の芸能人が、占い師によってとりこにされているということが連日報じられていました。そして、あるテレビ局がアンケートをとったところ、実に多くの人々が、とくに若い女性が、占いを気にしており、また、占い師に相談する人も、意外に多いという結果が放映されていました。これは、現代人が神や宗教を信じなくなったのではなく、既成の宗教の所に行かなくなっただけのことであると思われました。そして、もし若い人々が教会よりも占い師のほうに神の言葉を求めて行くとしたら、それは占い師の責任にするのではなく、教会が悔い改めなければならないのだと思います。もちろん占いなどデタラメに決まっています。旧約聖書も占いを禁じています。それは人を惑わすもので、場合によってはその人を破滅させるものです。
 しかし若い人々が、そちらの方に行くとしたら、教会も悔い改めなければなりません。教会は本当に神の言葉を語ってきたのか? 神の言葉である聖書を軽んじ、聖書が何か間違いだらけの古代文書であるかのように扱ってこなかったか?‥‥そういったことを思う時、大いに悔い改めることが教会にはあると思います。
 神の言葉が降ったバプテスマのヨハネの所に、人々が出かけて行ったように、教会が悔い改めて、聖書を真の神の言葉と信じ、従って行くならば、人々は教会へと足を向けると信じるものです。

キリストを証ししたヨハネ

 さてそのバプテスマのヨハネが、真実の預言者であるという証拠は、ヨハネが自分を証しするのではなく、真の救い主であるキリストを証ししたところにあります。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(16節)。
 ヨハネは自分がキリストであることを否定しました。キリストは自分のあとから来られると言いました。そして自分は、その方の履物のひもを解く値打ちもないと言いました。そのようにヨハネは、自分を高くするのではなく、身を低くしてキリストを証ししました。あくまでも自分は、横綱の土俵入りの露払いの役であることを強調したのです。キリストは自分ではなく、自分のあとから来られると。

共に生きるために

 さて、そしていよいよイエスさまが登場いたします。しかしそれは、華々しくデビューしたのではありません。観客の大きな拍手の中を、露払いの力士に先導されて土俵に上がるというようなものではありませんでした。12歳の時から約18年の歳月を経て、いよいよ登場されたイエスさまは、人々の中に混じって、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられたのです。
 さてここで私たちは非常に不思議に思います。なぜなら、バプテスマのヨハネの洗礼とは、3節に書かれているように、罪のゆるしを得させるための悔い改めの洗礼であると言われているからです。しかしイエスさまは、私たちが知っているとおり、神の御子です。ならば、イエスさまは罪を犯していないことになります。いや、すべての人間は例外なく罪人であると聖書は説きますが、ただひとりイエスさまだけは罪人ではないはずです。であるならば、イエスさまは洗礼を受ける必要がないはずです。しかし洗礼を受けられた。人々が洗礼を受けるのと全く同じようにして。これはいったいなぜなのか?
 私たちは罪人ですから、罪を赦していただくために洗礼を受けなければなりません。しかしイエスさまは神の子ですから、洗礼を受ける必要がないはずです。なのになぜ洗礼を受けられたのか?‥‥それはただ、私たち罪人と同じになられるためです。全く私たちと共に生きられるためです。
 共に生きる‥‥なにかこれもよく聞く言葉ですが、本当に共に生きることのできる方はイエスさま以外にはおられないと思います。先週、ある先輩牧師のお嬢さんのことをお話ししました。その中で、その嬢さんが「共に生きる」という言葉が好きだといったら、お父さんから「共に生きるなんていう言葉は美しすぎる」と言って叱られたということをお話ししました。本当にその通りだと思います。
 共に生きるなどということは、実は私たちには不可能なことです。例えば、困っている人、苦しんでいる人と共に生きる、ということが言われる。しかし考えてみたら、本当に苦しんでいる人と共に生きるということなど、できるのだろうか。なるほど、多少のお世話をするということぐらいならできるかもしれません。しかし、例えば、病気で苦しんでいる人と共に生きるというのはどういうことなのか?‥‥その苦しみを本当に分かるということなのか? しかしその人の本当の苦しみは、その人でなければ分かりません。またその人と、365日、24時間共に生きるなどということは不可能なことです。
 また例えば、死の床にある人と共に生きるということなどできるのか?‥‥そばにいて差し上げることぐらいはできるかもしれない。しかしそれができたとして、それが本当に共に生きるというのとなのかと言われれば、そうではないと思います。例えばその人が、「わたしは死にたくない。だからわたしの代わりに死んでくれ」と言われても、どうすることもできません。
 しかし実に、ただお一人、そのことができる方がおられる。それがイエスさまです。そして実際にそのようにされた。それがこの時イエスさまが洗礼を受けられたということです。神のひとり子であられる方が、私たち罪人と全く同じになられた。そして私たちと共に歩まれる。どうしてイエスさまが私たちと共に生きることがおできになるかというと、それは十字架です。私たちの罪によって私たちが滅びる代わりに、イエスさまがこの私たちの罪を引き受けて、代わりに十字架にかかって滅んで下さった。そして、よみがえられた。そのよみがえりは、私たちのよみがえりの先駆けとなりました。
 私たちの代わりに死なれ、私たちを引き連れて復活される。‥‥これは神の御子であるイエスさまだけがなさることのできることです。それゆえ、イエスさまだけが本当に私たちと共に生きられるのです。そして罪人である私たちと同じ姿になられ、私たちと共に歩まれるために、イエスさまは洗礼を受けられたのです。

私たちも神の子

 イエスさまが洗礼を受けられ、祈っておられると、聖霊が鳩のような姿をとり、目に見える形でイエスさまの上にくだったと書かれています。実は聖霊は目には見えません。しかしこの時目に見える形をとられたのは、確かにイエスさまに聖霊が降ったということが、明らかになるために、聖霊があえて形をとられたのです。つまり、わたしたちのために、この時聖霊は目に見える形をとられました。
 そして天から声が聞こえたと書かれています。すなわちそれは、父なる神さまの声です。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。父なる神さまが、罪人の一人のようになって洗礼を受けられ、私たちと共に生きるために十字架へと向かう。そのことを父なる神さまも、良しとされたのです。
 ところで、聖書では私たちも神の子と言われています。例えば、(ガラテヤ 3:26)「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」‥‥とあります。すなわち、私たちは自動的に神の子なのではない。「信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」と言われています。すなわち、イエスさまを信じて、イエスさまにつながることによって、神の子となるということです。そして、バプテスマのヨハネの洗礼は、悔い改めのしるしの洗礼でしたが、イエスさまの洗礼は、「聖霊と火」による洗礼だとヨハネが言っているのはこのことです(16節)。イエスさまの洗礼を受けることによって、聖霊をいただき、本来神の子ではない私たちが、神の子としていただける。
 神さまの子となるのですから、こんなに素晴らしいことはありません。幼い子供を連れたお母さんの姿を、この近所ではよく見ることができます。幼子は、何でも親に頼っています。困ったことがあれば親に助けを求めて泣きます。そして親は無条件で面倒を見てくれる。「いいなあ」などと思います。
 しかし私たちがキリスト・イエスさまによって神の子とされているのならば、私たちも神さまに頼ることができます。そして神さまは、私たちを我が子として助け、導いて下さる。
 戦後活躍したクリスチャンの小説家に椎名麟三という人がいました。私はこの人の書いた、「私の聖書物語」という小さな本がたいへん好きなのですが、この椎名麟三が洗礼を受けた時、遠藤周作にこう言ったそうです。「これでじたばたして、虚空を掴んで、死にたくない、死にたくないと叫んで死ねるようになった。」
 何かちょっと聞くとこれは変なように聞こえます。しかし実にキリスト信仰の本当のところを突いている言葉だと思います。洗礼を受けて神の子とされて、「死にたくない」と叫ぶ相手ができた、ということです。そしてその相手は、その叫びを聞き入れて下さることのできる方です。
 イエスさまが、私たち罪人と同じになられるために洗礼を受けられた。そのことによって、イエスさまは私たちと共に生きられる。そして十字架へ行かれて、私たちの代わりに命を捨てて下さった。そのイエスさまを信じることによって、私たちも神の子とされるのです。神は私たちの父となられるのです。


(2012年2月19日)



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