礼拝説教 2012年2月12日

「根元の斧」
 聖書 ルカによる福音書3章1〜14 (旧約 ミカ書7:1〜2)

1 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、
2 アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。
3 そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
4 これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。
5 谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らになり、
6 人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」
7 そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。
8 悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。
9 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」
10 そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。
11 ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。
12 徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。
13 ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。
14 兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。





洗礼者ヨハネの登場

 今日の聖書個所は、「皇帝ティベリウスの治世の第15年」という言葉から始まって、誰がユダヤの総督で誰が領主であり、誰が大祭司の時に‥‥という記述で始まっています。これは今日で言えば、例えば2012年という言い方になります。そしてこのように書くことによって、「いつ」ということがはっきり分かったのです。だいたい西暦(主の年)で言うと28年〜29年ということになるそうです。
 そうすると、これは洗礼者ヨハネが、だいたい30歳の頃、そしてイエスさまはルカによる福音書1章の記述からすると、ヨハネから6カ月ほどあとにお生まれになったと思われますから、こちらもおおよそ30歳の時と言っていいでしょう。30歳というと、今日ではまだ若いということになりますが、人生50年ほどだった時代から言うと、決して若くはないということになります。どうしてそんなになるまで何もしてこなかったのか? もっと早く世の中に出て、神さまのお働きをなされば良かったではないか?‥‥などと私たちは思います。しかしこの時まで、洗礼者ヨハネも、そしてイエスさまも待ったのです。
 そうすると今度は、なぜこの時、ヨハネは活動を始めたのか?‥‥という疑問が逆に浮かんでまいります。その理由について、聖書は2節で「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」と記しています。神様の言葉が降ったからであると。すなわちヨハネは、人間の都合でこの時まで待ったのでもない。あるいはいろいろな事情が片付いてから、と思ってこの時になったのでもないのです。それは「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」から、ヨハネはその神様の言葉に従って、活動を始めたのであると言っているのです。すなわち、ヨハネの働きを始めたのは、神さまであると。
 このようにして、神さまが聖書の真の主人公となるのです。私たちが神さまを信じた時、私たちの人生の主人公が神さまとなるのです。

まずヨハネ

 そして話しは、洗礼者ヨハネの活動から始まります。イエスさまの働きを書き始める前に、洗礼者ヨハネの働きから始める。実はこれは、新約聖書の4つの福音書すべてに共通していることです。イエスさまの働きを記録した4つの福音書全てが、イエスさまのことから書き始めるのではなくて、洗礼者ヨハネのことから書き始めている。すなわちこれは、どうしても洗礼者ヨハネから書き始めなくてはならない、ということです。省略するわけにはいかないということです。
 そしてヨハネがまず登場したことについて、4〜6節で、旧約聖書の預言者イザヤの預言を引用しています。すなわち、そこに書かれていることをするためにヨハネは洗礼を宣べ伝え始めたのだ、と。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」‥‥主が来られるので、そのための道を整えなさい、という言葉にしたがってヨハネは洗礼を宣べ伝え始めたのだということです。
 大相撲に、横綱の土俵入りの儀式があります。あれを見ておりますと、横綱の前に「露払い」と呼ばれる力士が横綱を先導し、先に土俵に上がります。あの露払いの力士は、横綱の先に立って、横綱の道を開く役割をするのだそうです。そうしてみると、まさに洗礼者ヨハネは、イエスさまという横綱の露払いの役割をしていると言えるでしょう。
 ただヨハネの場合は、イザヤの預言の成就であったのです。そのように、旧約聖書の預言の一つ一つが確実に実行されていく。成就していく。‥‥これはすごいことです。神さまが昔お語りになったことが、一つも漏れることなく果たされていく。まさに聖書は神の言葉です。そして洗礼者ヨハネが現れたのも、まさに神さまの預言の成就であったのです。

悔い改めの洗礼

 そしてヨハネがヨルダン川でおこなっていたのが、「悔い改めの洗礼」でありました。ちなみに今私たちがこの教会で使っている新共同訳聖書では「洗礼」のよこに、[ ]をして「バプテスマ」とふりがながふってあります。これは「洗礼」と読まずに「バプテスマ」と読んでも良いですよ、ということです。なぜこんなことを書いているかというと、プロテスタントの教派の中には、「洗礼」のことを「洗礼」とは言わずに「バプテスマ」と言う教派もあるからです。それで「洗礼者ヨハネ」のことを前の聖書は「バプテスマのヨハネ」と言っておりました。
 ヨルダン川は、砂漠に等しい荒れ野の中を南北に流れています。その川でヨハネは洗礼を宣べ伝えていた。その洗礼は、「罪のゆるしを得させる」ための洗礼であったと書かれています。

まむしの子らよ

 すると多くの人々がヨルダン川のヨハネのところに、洗礼を授けてもらうために行きました。なぜヨハネのところにおおぜいの人が押し寄せていったのか?
 ちなみに、マタイによる福音書のほうを読むと、洗礼者ヨハネはラクダの毛衣を着、腰に革の帯を締め、イナゴと野蜜を食べ物としていたと書かれています(マタイ3:4)。全く修験者のような出で立ちです。都のエルサレムの神殿ではなく、荒れ野の中を流れるヨルダン川に人々は詰めかけました。
 なぜそのように、人々はヨハネのところに行ったのでしょうか? 神殿の祭司のところでもなく、聖書学者のところにでもなく、ファリサイ派の先生のところでもなく、無一物のようなヨハネの所に出かけて行ったのか?‥‥ヨハネに神の言葉が降ったからです。この時人々は、本当の神の言葉を求め始めたのです。
 しかしヨハネは、その人々に対して「まむしの子らよ」(7節)と言いました。ずいぶん厳しい言葉です。神の裁きの言葉です。「まむし」というのは毒蛇です。蛇というと思い出すのは、旧約聖書の創世記第3章で登場した蛇です。あの時蛇は、人間を誘惑して、神さまに背かせて罪を犯させました。あの蛇は悪魔の象徴です。すなわち、洗礼者ヨハネは人々に向かって、「まむしの子らよ」と言いましたが、それは悪魔の子、と言っているのに等しいのです。ずいぶん強烈な断罪です。
 ちなみに、まむしの子からは何が生まれるでしょうか?‥‥まむしから鳩やちょうちょは生まれません。まむしからはまむしが生まれます。ですから、「まむしの子」ということは、そこからはどうしたってまむし以外のものになりようがないのです。
 また9節で「斧は木の根元に置かれている」と言っています。そして良い実を結ばない木は、切り倒されて火に投げ込まれると警告しています。つまり、良い実を結ばない人は、地獄の火に投げ込まれると言っているのです。これはもうたいへんなことです。今のままではダメだということになる。今のままでは、私たちは滅びるしかない。地獄の火に投げ込まれるということになる。いったいどうしたらいいのか?
 ヨハネは、悔い改めにふさわしい実を結べと言いました。しかしどうしたらよいのか?それで人々はヨハネに尋ねました。「では、私たちはどうしたらよいのですか?」と。それに対してヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」、そして徴税人には「規定以上の者は取り立てるな」、兵士たちには「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」‥‥と言いました。
 しかしこれらの答えは、本当の答えにはなっていません。では、下着を一枚も持っていない貧しい人に下着を与えたら、神の裁きにあわずに天国に行けるのか? 徴税人は規定以上の税金を取り立てなければ、滅びを免れて天国に行けるのか? 兵士は誰からも金を脅し取ったりしなければ救われるのか?‥‥そう考えると分かります。それは罪を自覚させることはできても、それによって救われるのではありません。しかしたしかに罪を自覚させることはできます。‥‥下着を一枚も持たない人に自分の下着を与えないことは罪なのだと。徴税人は、税金を、決められた金額よりも多くとるのは罪だと気づかされる。兵士は、人から金をゆすり取ることは罪なのだ、ということを教えられる。‥‥そこまでです。
 だからと言って救われるのではない。なぜなら、人間が「まむしの子」と呼ばれているからです。まむしの子はどうしたってまむしにしかなれません。どうすることもできません。
 しかしまさにこの、どうすることもできない、ということを知ることこそが、洗礼者ヨハネの目的であると言えるのです。人間は自分で自分を救うことができない。まむしの子でしかない。神さまから見てふさわしい実を結ぶことができない。ましてや、神に選ばれた人アブラハムの子孫であるなどと言うことは、救われるためにはぜんぜん役に立たない。‥‥そのことを洗礼者ヨハネを通して教えられる。そこから出てくる問いは、「ではどうしたら救われるのか?」という大いなる問いです。洗礼者ヨハネは、まさにそのような問い、人々の魂の飢え渇きを呼び起こしたことにあります。それが次にお出でになる、イエスさまの準備となったのです。
 人間には自分ではどうすることもできない罪というものがある。ヨハネはそれを気づくようにさせた。そしてそのどうしようもない罪を、イエスさまが解決して下さる。ヨハネはそのイエスさまを証ししたのです。指し示したのです。
 ヨハネの洗礼は、悔い改めのしるしでした。そして次にお出でになったイエスさまの洗礼は、聖霊を与える洗礼でした。イエスさまを信じることによって、このどうしようもない私のところに聖霊が来て下さる。その聖霊が、このどうしようもない私を助け、悔い改めにふさわしい実を結ぶようにして下さる。私がするのではありません。聖霊がして下さるのです。聖霊が与えられていることを感謝しつつ歩みたいと思います。


(2012年2月12日)



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