礼拝説教 2012年1月15日

「有終の美」
 聖書 ルカによる福音書2章21〜35 (旧約 申命記34:1〜4)

21 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。
22 さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。
23 それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。
24 また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。
25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。
26 そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。
27 シメオンが"霊"に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。
28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。
30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
31 これは万民のために整えてくださった救いで、
32 異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」
33 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。
34 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
35 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」




神の言葉の通りに

 本日の聖書には、神さまの言葉通りに従う人々の姿があります。
 まず21節ですが、イエスさまがお生まれになってから八日目、それは日本で言えば「お七夜(ひちや)」に相当する日であり、たいへん似ていますが、ユダヤ人はこの日に男の赤ちゃんならば割礼という儀式を受け、名前がつけられます。そしてヨセフとマリアは、その子を「イエス」と名付けました。それはヘブライ語では「イェシュア」、旧約聖書では「ヨシュア」であり、「主は救い」という意味です。ユダヤ人には珍しい名前ではありませんでした。名前というものは、両親はその名の通り成るように期待して付けるものですが、イエスさまの場合は文字通り「主は救い」となったわけです。
 なぜご両親は「イエス」と名付けたかというと、それは1章31節で、マリアへの受胎告知の場面で、天使ガブリエルが生まれる子を「イエスと名付けなさい」と命じたので、そのようにつけたのです。天使は神の使いですから、要するに神さまがお命じになったとおりに名前をつけたのです。つまり全く神さまに従ったのです。
 そして次の22節を見ますと、「清めの期間が過ぎた時」両親はイエスさまを主に献げるため、エルサレムの神殿に連れて行ったと書かれています。清めの期間というのは旧約聖書のレビ記の12章2〜4節に書かれている律法です。それが男の子が産まれた場合は33日と定められています。日本の「お宮参り」は、生後31〜32日とされていますから、これも日本と似ています。実は、旧約聖書には、日本の風習と似ていることがたくさんあるのですが、それについてはまた別の機会にお話しできたらと思います。
 23節に書かれている、「初めて生まれる男子はみな、主のために聖別される」というのも旧約聖書の律法に書いてあることです。初めての男の子は、主なる神さまに献げる。24節を見ると、イエスさまのご両親は、山鳩か家鳩を献げたようです。このことは、ヨセフとアリアが貧しかったことをあらわしています。なぜなら、貧しい人は、羊の代わりに鳩を献げればよいとレビ記に書かれているからです。
 このように、イエスさまの両親であるヨセフとマリアは、神さまがお命じになったとおりに「イエス」と赤ちゃんに命名し、主の律法に記されているとおりにエルサレムの神殿にお参りに来ました。神さまに従っていったところに、今日の出来事が起きるのです。また、聖霊なる神さまの言葉にしたがったシメオンという人が、イエスさまに会うことができたのです。
 余談ですが、この時もヨセフとマリアはベツレヘムの馬小屋に滞在していたのでしょうか?‥‥おそらくすでに、人間が泊まる宿の方に移っていたか、あるいは親戚の家などに移っていたと思われます。

シメオンという人

 さて、そのようにしてヨセフとマリアが赤ちゃんのイエス様を抱いて、エルサレムの神殿にお参りに来た時のことです。シメオンという男性が近づいて来ました。このシメオンという人には、聖霊がとどまっていたと書かれています。聖霊がとどまっているというのは、旧約聖書で言えば預言者です。そして26節を見ると、彼は、「主が遣わすメシア(キリスト)に会うまでは決して死なない」とのお告げを聖霊から受けていたと書かれています。
 そのシメオンが聖霊に導かれて神殿の境内に入ってきました。聖霊なる神さまが、ちゃんとシメオンに教えて下さったのですね。そしてシメオンは、イエスさまを抱いた両親を見つけると、イエスさを抱いて神を賛美しました。マリアとヨセフはびっくりしたことでしょう。
 このように、シメオンは聖霊に導かれてイエスさまの所に来ることができました。神殿の境内は、神さまを礼拝しに来るおおぜいの人でさぞかし賑やかだったことでしょう。神殿はエルサレムに一つしかなかったのです。その人混みの中で、シメオンは聖霊に導かれて、イエスさまにお会いすることができたのです。そのように、聖霊の働きの目的の一つには、人をイエスさまの所に連れてくるという大きな目的があります。私たちも聖霊を与えられると、イエスさまの所に導かれるのです。

あなたの救いを見た

 29〜30節を読むとシメオンは「あなたの救いを見た」と言っています。だから今こそ世を去ることができる、と。29節「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます」と。すなわち、「これで安らかに死んでいける」ということです。

 昔、私が石川県にいた時に、金沢市にある北陸学院短期大学でキリスト教概論を教えていた時のことを思い出します。学期末には試験をしなければなりません。試験をするのは良いのですが、試験が終われば採点をしなければなりません。多くの答案を採点していました。そのうちの1枚に目が留まりました。ある学生の答案で、あまり勉強していなかったのでしょう。答えはさんざんでしたが、それではまずいと思ったのか、試験の設問とは関係のないことを長々と書いてきました。とにかくたくさん書いて、少しでも下駄を履かせてもらおうとしたのでしょう。その中で、このようなことが書かかれていました。「うちのお婆ちゃんは、いつも『死ぬのが怖い』と言っています。あんまり『死ぬのが怖い』と言うので、わたしが『死ぬことではなく、生きることを考えたら?』と言ったのですが、残酷だったでしょうか?」‥‥
 私はその深刻な言葉に、人間の生の姿を見ました。まだ若かった私は、その時、「ああ、年を取ったら自然に死ぬのが怖くなるのではないのだなあ」ということが分かりました。年を取ったら自然に死への恐れがなくなるのではない。自然に、ということはない。だから救われなくてはならないのだと思いました。
 赤ちゃんのイエス様を抱いたシメオンは、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます」と、主をほめたたえて言いました。‥‥この「安らかに」は、天使たちが羊飼いたちの前で神を賛美して言った14節の「地には平和、御心に適う人にあれ」の「平和」という言葉です。神との平和であり和解であり、神さまのくださる大きな祝福です。すなわちシメオンは、今こそ私は、神さまの平和、平安、祝福のうちに世を去ることができると言って喜んでいるのです。平安と喜びのうちに死ぬことができる、と。何という大きな祝福でしょうか。平安と喜びのうちに人生を終えることができる。まことの有終の美です。
 なぜそのように安らかにこの世を去ることができるというのでしょうか?‥‥それは30節に書かれています。「わたしはこの目であなたの救いを見たからです」。「あなたの救いを見た」と言っています。ここに聖書の福音のポイントとなるメッセージがあります。
 この言葉は、ふつう聞くと「ちょっとおかしいな?」と思うような言葉ではないでしょうか。ふつう、「救い」とは、何かありがたい教えのことを思い浮かべるのではないでしょうか。「この教えによって救われた」という具合にです。しかしシメオンは、赤ちゃんのイエスさまを見て、「あなたの救いを見た」と言っているのです。それはまだ赤ちゃんです。教えを説くことももちろんできません。ありがたい説教をすることもできないのです。
 そうすると、ここでシメオンが言っている「救い」とは、何かありがたい教えのことではなくて、イエスさまそのもの、イエスさま御自身が「救い」であると言っていることが分かります。そうです!聖書の「救い」とは、イエスさまがお語りになる教えの中にあると言うよりも、イエスさま御自身が救いであるのです。だからシメオンは、それはまだ赤ちゃんのイエスさまであるにもかかわらず、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」‥‥と言って、喜びと平安に満たされたのです。イエスさま御自身に会う。これが救いを見た、ということです。
 教団出版局から出ています「信徒の友」の今月号に、千葉県のT教会のY先生の証しが載っていました。それは、中学生になったばかりの先生のお嬢さんについての証しでした。お嬢さんに微熱が数日続き、耳の下が痛み、病院に行ったところ、すぐに大きな病院に行くように指示され、その日のうちに都内の病院に入院したそうです。そして診断の結果は「白血病」でした。発病後1年した頃、病は脳に転移し、回復は難しいと言われたそうです。しかしお嬢さんの信仰は高まっていった。そして次のような言葉を口にするようになったそうです。‥‥「もう怖いものは何もない。私の前に神さまはいてくれるし、後ろからも支えてくれているんだよ」、「死ぬことなんてちっとも怖くないよ。イエスさまの所にダッシュして行ける。どうして怖いの?」、「イエスさまの十字架のことを思ったら私の苦しいのなんか、何でもない。だって私はちゃんと手当をしてもらえるもの」。
 そうして、発病から3年11カ月して天に召されていったそうです。彼女が、聖霊なる神さまに支えられつつ、天のイエスさま目指して進んで行ったのだということを思わされました。そして今、天の国で、顔と顔を合わせてイエスさまにお会いしていることでしょう。救いとは、イエスさまにお会いすることです。

シメオンの預言

 シメオンは、続けて、マリアに向かって預言をしました。34節の「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせるためにと定められ」と言っているのは、何のことを言っているかと言えば、罪を指摘して倒し、また救うために立ち上がらせるのです。また35節でマリアに対して、「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」というのは、それほどの苦しい思いをするとすることになるというのです。すなわち、これはイエスさまがやがてマリアの前で十字架にかけられることを予言しているのです。
 そして「多くの人の心にある思いがあらわにされるため」というのは、多くの人の心の中に潜む罪が明らかにされるため、とも読めますし、多くの人の心の中に潜んでいる「神を求める、救いを求める」という思いがあらわにされるため、とも読めます。
 このように、すでに生まれた時から、イエスさまは十字架への道を歩んでいくことになることが予言されているのです。その十字架への道を歩むイエスさまにお会いして、シメオンは「わたしはこの目であなたの救いを見た」と言って神を讃美しました。‥‥十字架のイエスさまが救いです。十字架を経て復活されるイエスさま。そのイエスさまにお会いした時に、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」と言うことができる。私たちも同じ祝福が与えられています。

イエスに出会うために

 私たちの信仰生活は、まさにイエスさまにお会いするためにあると言って良いでしょう。それが「救いを見る」ということです。何も天国に行くまでイエスさまにお会いするのを待たなくてはならないというのではありません。イエスさまは復活の後、弟子たちに向かって、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と言われました。私たちが地上を歩んでいる時も、目には見えないが、聖霊によって共にいて下さるのです。
 聖霊はギリシャ語では「風」という言葉と同じです。風は目には見えません。しかしなぜ風が吹いたことが分かるかというと、カーテンが揺れたり、木の葉が揺れたりすることで風が吹いたことが分かるのです。聖霊も同じです。聖霊を見ることはできませんが、聖霊が働いた結果を見ることはできます。そのように、私たちは日々、直接にではありませんが、イエスさまの働きを見ることによって、イエスさまにお会いすることができるのです。
 きょうも命が与えられて、このように主の教会の礼拝に集うことができたのも主イエスの働きです。私たちは他にも多くのイエスさまのお守り、お働きにあずかっているはずです。私たちの信仰の目が開かれれば、それらの恵みが見えてくるはずです。そのような主イエスのわざを見させていただく。そのようにして歩みたいと思います。


(2012年1月15日)



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