礼拝説教 2012年1月8日

「羊飼いの夜」
 聖書 ルカによる福音書2章8〜20 (旧約 出エジプト記3:1〜3)

8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」
15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。
16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。




イエスさま降誕の夜

 本日の聖書個所は、私たちが毎年クリスマスに教会で耳にする個所です。天使が、野宿をしていた羊飼いたちにメシア=キリストの誕生を知らせる。そして羊飼いは急いで天使たちの告げたベツレヘムに行って、馬小屋の飼い葉桶の中に寝かせられた赤ちゃんのキリストと出会った‥‥という出来事です。私たちはこの出来事を、毎年のようにクリスマスの時に読んでまいりました。
 天使と天の大軍が神を賛美していった言葉、すなわち14節の、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」という言葉については、毎年読まれるのですけれども、この言葉を中心にして説教されたのを私は聞いたことがありません。かく言う私も、この言葉に焦点を当てて説教したことがありません。と言うわけで、本日は天使たちが神をさんびして言った言葉にスポットを当てて恵みを分かち合いたいと思います。

いと高き所には栄光神にあれ

 さてこの14節の言葉ですが、これは祝祷のような言葉です。そして二つの部分に分けることができます。前半の「いと高きところには栄光、神にあれ」と、後半の「地には平和、御心にかなう人にあれ」です。
 まず前半を見てみましょう。すると天使は、「いと高き所」と言っています。これはどこかと言えば、「いと高き所」というのは最も高い所にある場所という意味ですから、これは神さまの住んでおられる場所です。すなわち、天国です。
 そして「栄光」という言葉です。これがなかなか説明しにくいのですが、まず「広辞苑」では次のように書かれています。‥‥《(1)かがやかしいほまれ。光栄。名誉。「勝利の―」「―に輝く」 (2)さいわいを約束する光。瑞光。》‥‥ではこの「瑞光」とは何かというと、広辞苑では「めでたいことのきざしをあらわす光」と説明されています。
 何となくお分かりになったでしょうか? 何か輝かしいなあ、という感じはつかめたのではないかと思います。実のところ、本当の神の栄光というのは、天国に行ってみないと分からないところがあるので難しいのですが、要するに「誉れと賞賛を受けるにふさわしい、比類なき輝き」であると言って良いでしょう。
 そして聖書では、「栄光」と言った場合、それは常に神が栄光を受けるべき方として描かれます。人間が栄光を受けるのではありません。神が唯一栄光を受けるべき方、誉れを受けるべき方とされています。
 例えば、これは恐ろしい方の例ですが、使徒言行録12:20〜23を見ますと、そこではティルスとシドンの住民が、ヘロデ王と和解をするためにヘロデ王の所を訪ねた時のことが書かれています。念のため申し上げておきますと、そこに出てくるヘロデ王とは、イエスさま誕生の時のヘロデ王ではなく、その孫です。そのヘロデ王が、ティルスとシドンの住民を前に演説をいたします。するとティルスとシドンの住民はヘロデ王を持ち上げ、称賛してこう叫び続けました。「神の声だ。人間の声ではない。」するとたちまち主の御使いが、ヘロデ王を撃ち倒しました。そしてヘロデ王は死んでしまったのです。なぜか?‥‥「神に栄光を帰さなかったからである」(使徒12:23)と聖書は書いています。ヘロデ王は、ヘロデを神であると叫ぶ人々の声にご満悦してしまった。それは神に栄光を帰さなかったということです。それで神の罰を受けて死んだというのです。
 今度は逆の例を申し上げましょう。サッカーのJリーグの鹿島アントラーズの選手に、以前、ビスマルクという選手がいました。彼はクリスチャンでした。そして彼はゴールを決めると、グランドにひざまずいて祈りました。子どもたちがそれを真似るようになったほどです。試合後、テレビのインタビューがあると、必ず「ゴールを決めることができたのはイエスさまのお陰です。神さまは‥‥」と語り始めました。それでテレビが画面を他に切り替えてしまうほどでした。彼は、そのようにゴールを決めることができたのが自分の力であるとは言いませんでした。イエスさまのお陰、神さまのお陰であると言って、栄光を神にお返ししたのです。
 今のはちょっとした例です。ともかく、聖書では、栄光は神さまのものであると言っています。そして今日の聖書個所で、天使たちは「いと高き所には栄光神にあれ!」と言って、神さまの栄光を賛美しているのです。

飼い葉桶の栄光

 さて、では天の御使いたちは、何をもって神の栄光を賛美しているのでしょうか?
 御使いたちは、イエスさまの誕生を、野宿をしていた羊飼いたちに知らせた後にこれらの賛美を口にしました。すなわち、イエスさまの誕生について、神の栄光をほめたたえているのです。
 実に驚くべきことではありませんか。なぜなら、クリスマス礼拝で覚えましたように、イエスさまは馬小屋の中でお生まれになったからです。人口調査のために旅先のベツレヘムにやってきた母マリアとヨセフ。しかし宿には泊まる場所がなかった。それで馬小屋に泊まるしかなかった。そこでマリアは出産に及びました。そしてその場所にあった最も柔らかいベッドである、飼い葉桶に赤ちゃんイエスさまを寝かせました。
 そのように、神の御子が生まれたというのに、場所がなかった。そして最も貧しくみすぼらしい馬小屋でお生まれになった。‥‥それが神の栄光であるというのですから、こんなに驚くことはありません! 豪華な宮殿の中の、黄金のベッドか何かに生まれられたのなら、それは栄光であると普通思われるでしょう。しかし居場所が無くて締め出されたような場所、馬小屋の飼い葉桶にお生まれになったことが、神の栄光であるというのですから!!
 これが神の栄光であると言った時に、私たちは神の栄光とは何であるかを知るのです。それは愛の栄光です。神の御子を、こんな世界の片隅の馬小屋の中に追いやってしまう人間たち。しかしその私たち人間をお見捨てにならず、かえって救うために馬小屋の飼い葉桶に中にすやすやと眠っておられる。そこに来て下さった。こんな所にキリストを追いやってしまう人間を救うために。‥‥それが私たちの神さまです。神の栄光です。愛の栄光です。
 馬小屋の中にお生まれになったキリストは、どんな泥沼の所にも来て下さいます。この私たちがどんなに神から離れた所にいようとも、泥沼の中にいようとも、来て下さいます。それが神の栄光です。神の愛の栄光です。

地には平和が御心に適う人に

 次に後半部分です。「地には平和、御心に適う人にあれ」。これは普通に聞くと「世界平和を願っている言葉だなあ」と思われることでしょう。世界平和を願うのは、万人に共通している心情です。ですから誰でもその通りだと思うでしょう。
 しかしちょっと待って下さい。だとしたら、「御心に適う人にあれ」と言うのはちょっとおかしいのではないか、と思いませんか。戦争というのは、御心に適う人の所にだけ、鉄砲の弾が飛んでこないということはありません。戦争になれば、御心にかなう人であろうがなかろうが、巻き込まれてしまうのです。御心に適う人だけが戦争に巻き込まれずに平和であるということはありえません。
 ではいったいここで言う「平和」とはなんのことなのでしょうか?

聖書における「平和」の意味

 ここで言う「平和」とは、ギリシャ語では「エイレーネー」となっています。エイレーネーとは、まず文字通りの「平和」という意味があります。これは戦争がないと言うことだけではない。人と人との間に争いがないということも含みます。しかしそれだけではありません。何よりも「神との平和」です。
 私たち人間は神さまに背いていますので、神さまとの間が断絶しています。神さまと争っているわけです。神さまの祝福が来ないのです。しかしイエスさまが誕生したことによって、神さまとの間に平和がもたらされることになるということです。和解がもたらされるということです。
 さらにいうならば、この「平和」とは、ヘブライ語でいえば「シャローム」です。シャロームというのは、平和だけではなく、「平安」「繁栄」「健康」といった意味があります。これは素晴らしいものばかりですね。そうです。人間が考えられる最良の状態がシャロームであり、聖書でいう「平和」です。私たちの最も素晴らしい状態が、シャロームという平和です。
 実に、御子イエスさまが馬小屋の飼い葉桶の中にお生まれになったことで、この最良の平和がもたらされる。
 もしかしたら、何か勘違いをしている人はいませんか。キリストを信じるということは、何かとんでもない重荷を背負っていくことであると思っておられる方はいないでしょうか。そんなことではありません。イエスさまが馬小屋の飼い葉桶の中にお生まれになった時に、天使たちは「地には平和、御心に適う人にあれ」と言いました。人間にとって最も良い祝福があるようにと言って、神を賛美したのです。

御心に適うとは

 しかしそれは、「御心に適う人にあれ」と言っています。そうすると、「どうせ私は御心に適っていない。神の御心に背いているからダメだ」と思いたくなってしまいます。「人を愛することもできず、罪ばかり犯しているから、自分には関係ないことだ」と思わないでしょうか。もしそういうことだったとしたら、この地上には一人として罪人ではない人間などいません。みんな神の御心に背いていることになってしまいます。御心に適っていないと言うことになります。しかしここで言っている神の御心とは何でしょうか?
 羊飼いを見てみましょう。天使たちが、唯一キリストの誕生を告げた相手が、この羊飼いたちです。彼らもまた罪人でした。私たちと何ら変わるところがない人間でした。しかしこの羊飼いたちは、天使たちの言葉を聞いて、天使たちが言ったベツレヘムへ急いで出かけて行ったのです。そしてついに、飼い葉桶に寝かせてあるイエスさまを見つけました。出会ったのです。
 そうして羊飼いたちはどうなりましたか?‥‥20節を見てみましょう。「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」と書かれています。神をあがめ、賛美をした。喜びに満たされたのです。祝福を受けたのです。シャロームです。平安です。
 すなわち、罪人であり、本来神の御心に適っていない人間の一人である羊飼いたちは、神の招きに答えてイエスさまの所に行き、そしてイエスさまに出会って平安に満たされたのです。すなわち、「地には平和、御心に適う人にあれ」とここで言う、神の御心とは、神の招きに答えてイエスさまの所に行くことであるということが分かります。それを神さまは、「御心に適う」と言ってくださるのです。イエスさまの所に行けば、それがみこころにかなうことであるのです。

キリストと出会う

 私たちも神さまによって招かれています。キリストのもとに来るように、と。それが神の御心にかなうことだからです。私たちはこの世に生きていますが、神さまの招きに答えて、キリストを求めて行った時に、キリストに出会うことができます。目には見えなくても、たしかにキリストがそこにおられるという出来事に出会うことができます。「地には平和、御心に適う人にあれ」。この祝福が、私たちと共にありますように。


(2012年1月8日)



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