礼拝説教 2011年12月25日(クリスマス礼拝)

「飼い葉桶の神の子」
 聖書 ルカによる福音書2章1〜7 (旧約 イザヤ書9:5)

1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。




主の山に備えあり

 クリスマスおめでとうございます。今日も引き続き、ルカによる福音書を読んで恵みを分かち合いたいと思います。マリアの所に突然現れた御使いが、マリアが男の子を胎内に宿すことを告げました。それは婚約者のヨセフの知らないこと。ヨセフの知らないところでマリアが妊娠したとなれば、婚約者のヨセフは怒り狂い、マリアを姦通罪で訴えるに違いないことが予想されました。しかしマリアは、神さまが全能であることを信じ、この問題を神さまにゆだねて、「お言葉どおりこの身に成りますように」と答えて、神さまの言葉を受け入れました。
 さて、その後マリアはどうなったか。マタイによる福音書の最初のほうを読むと、婚約者のヨセフのところにも天使が訪れて、マリアが身ごもったのは聖霊によることを知らせました。そしてヨセフもその天使の告げた神さまの言葉を信じました。そしてヨセフは、予定通りマリアを妻として迎え入れることにしたのです。
 このようにして、マリアが訴えられてしまうのではないか、という心配は解決されたのです。神さまがちゃんと、ヨセフの所に天使を遣わして、ヨセフが信じることができるようにしてくださったのです。そのように、神さまの言葉を信じると、神さまがちゃんと心配を取り除いて下さるということを教えられます。

マリアとヨセフの旅

 さて、いよいよイエスさまがお生まれになった時のことが書かれている聖書個所です。1節の「皇帝アウグストゥスから」とか、2節に書かれている「キリニウスがシリア州の総督であったときに」という言い方は、この出来事が起こったのがいつの時であったかということを記しているのです。今日で言えば、西暦何年とか、平成何年という言い方になります。つまりそれは、イエスさまが何年にこの世で確かに生まれられた、ということを言っているのです。すなわち、イエスさまの出来事というのは、確かにこの地上で起こった出来事なのである、ということです。それは作り話ではない。また、観念的なことでもない。確かにイエス・キリストは、この時にお生まれになった、ということです。私たちは、確かにこの世に人の子としてお生まれになった神の御子のことを学んでいるのです。
 さて、マリアとヨセフは、イスラエル北部のガリラヤのナザレの村から、南部のベツレヘムへと旅をしなければならなくなりました。なぜかというと、1節に書かれているように、ローマ帝国の皇帝から、人口調査をするという勅令が出たからです。その時の人口調査というのは、今日の日本の国税調査のように調査員が来てくれるのではなく、自分の方から本籍地へ帰って自分から登録に行かなければならなかったのです。そしてヨセフは昔々のダビデ王の子孫であり、ベツレヘムが本籍地となっていたので、そちらへ行かなくてはなりませんでした。
 しかしそれはちょうどマリアが臨月を迎えた時でした。いつ赤ちゃんが生まれてもおかしくはないという状態で、皇帝の出した人口調査の命令のために、旅をしなければならなかった。悪いタイミングです。ナザレからベツレヘムまで何キロあるのか?‥‥地図で、物差しとコンパスを使って調べてみました。直線距離にして約112キロメートルありました。そしてその距離は、逗子からどのあたりまでか。ちょうど、静岡市、群馬県太田市、栃木県小山市、千葉県旭市あたりが、ちょうど逗子から直線距離にして112キロです。ロバを持っていたかどうか。ロバに乗ってだとしても、臨月のお腹でそのような旅をするというのは、たいへんなことに違いありません。
 しかも5節を見ると、「身ごもっていた、いいなずけのマリア」と書かれています。まだ「いいなずけ」であったと。つまりいよいよ赤ちゃんが生まれるというのに、まだ結婚していなかったのです。結婚式を挙げていなかったと言うべきかも知れない。いろいろな事情があったのでしょう。
 さらに、ベツレヘムに着いてからです。宿屋には泊まる場所がなかった。それでおそらく、馬小屋(家畜小屋)に身を休めることとなり、また悪いことにちょうどそこで出産となりました。そのようにしてイエスさまはお生まれになった。そして、生まれた赤ちゃんイエスさまは、飼い葉桶の中に眠らされた。それは、両親が馬小屋の中で用意した、イヤそれしか用意できなかったというベビーベッドでした。

信仰の試練

 このように、全く何から何まで悪いことが重なりました。人間の目で見れば、イエスさまは最悪のタイミングでお生まれになったとしか思えません。踏んだり蹴ったりのように見えます。私たちがマリアだったとしたらどうでしょうか。‥‥「救い主が生まれるのではなかったのか?」「受胎を告げた天使は、『おめでとう』と言ったのに、いったいこれのどこがおめでたいのか?」「なぜこんな試練が続くのか?」‥‥と思わないでしょうか。

神さまから見たら

 また、ご自分の御子イエスさまをマリアに懐胎させた神さまから見たらどうでしょうか。過酷な人口調査、そして村では結婚式まで挙げることができなかった、さらに宿屋まで満員でとめてくれないなんて、「けしからん!」ということにならないのでしょうか?神さまは人間のあまりの仕打ちにお怒りにならないのでしょうか?
 例えば、昔ある時、私は、ある高校の修養会の講師として招かれたことがありました。そこで会場となったホテルに行きました。そして着いてみると、誰も迎えに出ているわけでもない。「?」と思いつつ、修養会の会場となる広間に行ってみると、まだ開始時間ではありませんでしたが、もう学生や教師は到着して座っていました。そして私が入っていっても、誰も何か言うわけでもない。椅子に腰掛けている教師が、チラリと私のほうを見ましたが、何かあいさつをするわけでもない。見ると、私が座る椅子さえない。といって誰か教師が用意するわけでもない。‥‥
 私は、ちょっと腹が立ってしまって、このまま帰ろうかとさえ思いました。しかしそのうちに1人の教師がやってきて、私の座る椅子を用意してくれたのですが。あまりの失礼に、あきれかえったということがありました。
 イエスさまをこのように送られた神さまはどうでしょう。神の御子を送られたのに、村人は結婚式を挙げてくれるわけでもなく、人口調査のためにマリアは臨月のお腹を抱えてつらい旅をしなければならず、ベツレヘムに着いてみると宿屋は満員で、ようやく落ち着いた所が馬小屋という有様‥‥。あまりの人間の失礼ぶりに、神さまはお怒りにならないのだろうかと思ってしまいます。

信じる飼い葉桶

 しかし御子イエスさまはお生まれになりました。馬小屋の中に。そして飼い葉桶の中にお眠りになりました。飼い葉桶。それは両親となったマリアとヨセフがその場所で、精いっぱい用意できたベッドです。それは、あらゆる困難にもかかわらず、神さまを信じ続けたマリアとヨセフの用意した飼い葉桶です。すなわち、このマリアとヨセフの信仰があったからこそ、御子イエスさまはお生まれになったのです。神さまは御子を生まれさせてくださったのです。
 神さまは、ただ信じることを必要とされたのです。そしてマリアとヨセフは信じたのです。その「信じる」ということ以外、神さまは何も必要とされなかったのです。信じることだけを必要とされました。

主は来て下さる

 先週、横須賀学院の主催するヘンデル作曲「メサイア」の演奏会が、横須賀芸術劇場でありました。今回で第49回目となるのだそうです。ご存知の方はご存知のように、メサイアという曲は、イエス・キリストの誕生から十字架、復活までを歌い上げた曲です。そしてその曲は、まさにヘンデルが聖霊にうながされて書いた曲です。
 私は富山におりました時に、毎年おこなわれる富山市民クリスマスの実行委委員として、この「メサイア」の合唱に関わってきました。しかし富山で歌われるのは、全曲ではありませんでした。また、CDではもちろん、全曲を何度も聞いてきました。しかし今回の横須賀学院のメサイアを聴くまで気がつかなかったことがありました。今回初めて気がついたことがありました。それは、圧倒的な神さまの勝利の音楽であるということです。愚かにも、このことに気がつかなかった。神の御子イエスさまは、人間の罪も愚かさも何もかも打ち破って勝利を収められる。そのことがはっきり分かりました。
 私たちは、ともすれば、「おいたわしや、イエスさま」などと思う。「時代の波に翻弄されて、馬小屋のような粗末な所に生まれられて、そして行き着く先は、人々に嘲られた挙げ句に十字架の死刑台。まことにおいたわしいことで‥‥」などと思ってしまうのではないでしょうか。あるいは、「悲劇の主人公」などと読む人もいるかもしれません。
 しかし今回「メサイア」を聴いてはっきりさせられたのは、そのような悲劇や哀愁漂う物語なのではないということです。そうではなく、復活という永遠の勝利に向かって、イエスさまは力強く前進されるということです。人間がどのような仕打ちをしようと、どのようにあつかわれようと、馬小屋しかなかろうがなんだろうが、あざけりを受けようがどうされようが、ただ十字架によってそんな扱いをする罪人の私たちを救うために、復活と永遠の天国に向かって私たちを巻き込んで前進される。それがメシア、イエスさまであると示されたのです。
 ハレルヤ! 私たちが罪人であることは百もご承知、失礼極まりない扱いを神さまとイエスさまに対していたす人間である私たちを、丸ごと引き受けて、十字架へ、復活へと勝利に向かって力強く前進されるイエスさまの歩みがここから始まっているのです。それは私たちが信じることから始まるのです。


(2011年12月25日)



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