礼拝説教 2011年12月18日

「神は忘れない」
 聖書 ルカによる福音書1章39〜56 (旧約 創世記12:1〜3)

57 さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。
58 近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。
59 八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。
60 ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。
61 しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、
62 父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。
63 父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。
64 すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。
65 近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。
66 聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。
67 父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。
68 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、
69 我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。
70 昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。
71 それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。
72 主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。
73 これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、
74 敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、
75 生涯、主の御前に清く正しく。
76 幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、
77 主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。
78 これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、
79 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」
80 幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。




ザカリヤの口が利けるようになったのはいつ?

 イエスさまがキリストであることを証しした預言者バプテスマのヨハネ。ルカによる福音書は、そのバプテスマのヨハネの誕生の秘話から書き始めました。ヨハネの父となった祭司ザカリアの所に、天の父なる神さまからのメッセージを携えて天使ガブリエルが現れた。そして、ザカリアとエリサベツの夫婦に子供が生まれることを告げました。この夫婦には、子供が生まれないまま年をとっていました。しかし二人の願いはきかれて、エリサベトが男の子を宿すと告げられました。
 ところがこの喜ばしい知らせを聞いたのに、ザカリヤは「わたしは老人ですし、妻も年をとっています」(1:18)と言って、すぐにはそれを信じませんでした。二人は子供が授かることを願っていたのに、いざその祈り願いがきかれたと言われた時に、それが信じられない。‥‥それは一見不思議に思えますが、私たちにもあることです。神さまに祈り願っているのに、いざそれがかなえられると、それが神さまのお陰であると言わない。真っ先に神さまに感謝するべきところを忘れて、「運が良かった」などと言う。同じことです。
 ザカリヤは喜ばしい知らせを聞いたのに、すぐに信じなかった。それで天使は、「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」(1:20)と、神さまの言葉を告げます。そうして、ザカリヤは口をきくことができなくなってしまいました。さてその時御使いは、「この事の起こる日まで」話すことができなくなると言いましたが、「この事の起こる日」とはいつのことでしょうか?
 きょうの聖書個所を読むと、赤ちゃんが生まれた日ではないことが分かります。妻のエリサベトが男の子を生みました。しかしまだザカリアは口が利けるようになりません。そして「八日目」になりました。ユダヤ人にとって、八日目は名前を付ける日であり、また同時に男の子は割礼を受ける日でした。割礼のセレミニーはともかく、八日目が命名の日であるというのは、日本と同じです。日本では「お七夜」です。ユダヤの「八日目」という数え方は、日本の数え方で言えば七日目です。
 そしてこの日にザカリヤは、もとのように口が利けるようになったのですが、少していねいに見てみましょう、男の子が産まれて八日目のいつ、ザカリアは口が利けるようになったのか、ということです。そもそも最初にザカリアに天使が現れて、ザカリアの口が利けなくなると言った時、「この事の起こる日まで話すことができなくなる」(1:20)と天使は言いましたが、「この事の起こる日」というのは、「この事の起こる時」と訳すことができるのです。
 さて、この生まれて八日目にザカリヤはすぐに口が利けるようになったのではない。そこに書かれているとおり、親戚との間に、この赤ちゃんの名前を何と付けるかということについてやりとりがまずあるのです。妻のエリサベトが「ヨハネ」という名前にしなくてはならないと言う。それに対して、親戚が、そういう名前のついた人は親族にいないと言って反対する。そして次に、ザカリアが書き板に「ヨハネ」と書くと、たちまち口が利けるようになったということが書かれています。すなわち、神さまがまた元通り、口が利けるように戻して下さったのです。
 すなわち、天使を通して神様が「この事の起こる時」まで口が利けなくなるという、「この事の起こる時」というのは、ザカリアに赤ちゃんが生まれた時ではなく、単に八日目経った時でもなく、ザカリアが神さまの命令通り、「ヨハネ」と名前を付けた時である‥‥ということが分かります。

主に従うまで導かれる主

 そのように、主は、私たちが主の御心に従うまで導いて行かれるということが良くあります。例えば旧約聖書の預言者の一人であるヨナです。ヨナは、はじめ主から、外国のアッシリアの国のニネベという首都に行って、主の預言を語るように命じられました。ところがヨナは、それに聞き従わないで、反対の方へ行きました。神さまから逃げようとしたのです。そうして船に乗って、遠くスペインまで行こうとしました。
 ところが神様はヨナを追いかけてきたのです。ヨナの乗った船が嵐に遭遇しました。そうして結局ヨナは、海を静めるために船の乗組員によって海に投げ込まれてしまいました。そのヨナを、神さまは大きな魚によって飲み込ませ、命を救いました。そうして陸まで運ばれた。それでヨナは神様の御心を悟って、今度は神さまの命令を聞いてニネベに行くのです。そのように神さまはヨナを導かれました。ヨナが神さまの御言葉に従うまで、いろいろなことを起こして導かれたのです。
 主は、私たちにもしばしばそのようにされます。私について言えば、私が真剣に祈るようになるまで、主は宿題をくださいます。何か私たちは、なかなか真剣に祈ろうとしないのですね。なるべく祈らないで解決しようとする。しかし万策尽きて、ついに神さまに頼って祈るしかない、というところに追い込まれるのです。そんなことがしばしばあります。

神を賛美するに至る

 しかし神様は、結局私たちが喜んで神さまを賛美するようにして下さいます。ザカリアも、元通り口が利けるようになって、まず最初に口にした言葉は、神さまを賛美することでした。
 主が私たちに出会わせる試練もまた、ついには私たちが神さまを賛美し、ほめたたえるためであることが分かります。

ザカリアの預言

 さて、ザカリアは聖霊に満たされて預言しました。それが67節からの所です。この内容を見てみますと、
・68〜75節‥‥キリストの到来をほめたたえる。
・76〜77節‥‥我が子ヨハネについて述べている。しかしそれは、ヨハネが主役なのではなく、あくまでもキリストの預言者として道を整える役目であることを述べている。
・78〜79節‥‥神のわざについてその意味を述べている。
という内容であることが分かります。
 すなわちザカリアは、赤ちゃんが生まれたことについて、その子が生まれたことで自分たちの老後の心配が無くなったから感謝であるとか、この子がこの世で成功してお金持ちになってくれとか、そういうこの子のことで神さまをほめたたえているのではありません。その昔神さまが約束されたとおり、神の救いであるキリストが来られること、そして我が子がそのキリストを指し示す預言者となることを示しているのです。
 もっと言えば、ザカリアは自分に子供が与えられたことを喜んだのですが、それはその子が神さまを証しする者となることを喜んだと言えます。このことに感銘を受けます。

主の証し人となることを喜ぶ

 私が高校を卒業して、大学に行くために明日は遠く旅立つという時に、厳格だった父が、私に「頼むから教会に行ってくれ」と頭を下げたことが思い出されます。その時はその意味が良く分かっていなかったのですが、神さまを信じてみると、その意味が分かってきました。人生にとってもっともすばらしいことは、神を信じるということであることが。
 以前、あるキリスト教の雑誌に次のようなエピソードが載っていました。
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 信仰深い一人の少年がいました。救いの感激を体験した彼は、あわれみの心をもって父親に伝道し始めました。しかし、彼の父親は福音に対して心を開きませんでした。「きみだけで教会に通ってね。父さんはいつか通うから」と言い、息子の話を真剣に取り扱わなかったのです。
 そんなある日のことです。突然の交通事故で、悲しいことにその息子が亡くなってしまいました。両親の悲哀はことばでは言い尽くせないほどでした。父親は息子の葬式が終わって後、息子の部屋に入ってみました。息子の遺品を一つひとつ手で触っていくと、息子の日記帳が見つかりました。その日記帳を広げた父親は、失神するほど驚いてしまいました。「神様、パパがぜひイエス様を信じるようにしてください。もし僕が死ぬことによってパパがイエス様を信じるようになるなら、僕は死ぬことも恐れません」
 父親はその日記を読んで大変なショックを受けました。イエス様を信じることがこんなにも大切なことだったのか。なぜこんなにまでしてイエス様を信じなければならないのだろうか。悩みに悩んだ末、彼はとうとう神様の御前に悔い改めて、イエス様を自分の救い主として受け入れました。
 その父親がどなたかご存じでしょうか。彼は過去半世紀にわたって世界の至るところで数百万の若者たちをキリストの御前に導くのに大きな役割を果たした人です。キヤンパス・クルセード(C.C.C.)国際本部の副総裁がまさにその父親だったのです。 (『幸いな人』1999年7月号より)
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 この少年の人生はたしかに短いものでした。しかしこの少年の祈りがかなえられたのです。主イエス・キリストを指し示し、証しをしたのです。そのことを思う時、天において大きな喜びがあったと思わざるを得ません。キリストを証しするところに喜びがあることを教えられます。


(2011年12月18日)



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