礼拝説教 2011年12月11日

「賛美するマリア」
 聖書 ルカによる福音書1章39〜56 (旧約 創世記12:1〜3)

39 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。
40 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。
41 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、
42 声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。
43 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。
44 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。
45 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
46 そこで、マリアは言った。
47 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
48 身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、
49 力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、
50 その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。
51 主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、
52 権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、
53 飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。
54 その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、
55 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
56 マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。




アヴェマリア

 クリスマスの出来事の中心は、もちろんイエスさまです。人としてこの世にお生まれになった神の子イエスさまを証しするために、この時があります。しかしもう1人、そのイエスさまの母となったマリアの存在も同じぐらい大きなものがあります。言うまでもなく、マリアがいなければイエスさまはお生まれにならなかったのです。すなわちこれは、神の御子が生まれる時に、マリアという人間を必要とされたということです。
 神さまは一人芝居をしようとはなさいません。もちろん神さまは、人間の手など借りなくても事をなすことがおできになります。しかし神さまは、人と共に働かれます。それはなぜかと言えば、一つには、神を信じることの素晴らしさを私たちに教えるためです。イエスさまの誕生もまた、マリアという一人の若き女性を通してなされました。そして、先週も学んだように、そのためには、マリアが御使いを通して語られた神の言葉を信じると言うことが必要でした。神さまは、この世の富や権力を必要とされません。しかし、人が神を信じるということを必要とされます。
 そしてマリアが信じたことによって、むかしアブラハムに約束された神の救いの預言が、成就することになりました。アブラハムへの約束は、イエスさまによって実現することだったのです。

エリザベトのもとに

 きょうの聖書は、マリアのもとにイエスさまの受胎を告げに来た天使が去ったあとのところです。マリアはすぐに、急いで、親戚のエリサベトの所に行きました。天使が、不妊のまま年をとっていたエリサベトが子を宿していると告げたからです。マリアは急いで行きました。なぜ急いで行ったのか?‥‥いろいろな思いがマリアの胸の中にあったことでしょう。まだ10代も半ばという若さのマリアです。そこに天使が現れ、神の子と呼ばれる子を宿したという。いろいろな思いをいだきながら、ユダヤのエリサベトの所に急いだことでしょう。
 そうしてエリサベトの所に着き、マリアがあいさつをすると、エリサベトの胎内の子が踊ったと書かれています。エリサベトは、洗礼者ヨハネを宿していました。洗礼者ヨハネは、やがてイエスさまがキリストであることを証言した人です。そのヨハネが、お母さんのお腹の中にて、すでにイエスさまを指し示していたということになります。まさに初めから預言者だったと言えます。
 するとエリサベトは聖霊に満たされて語ったと書かれています。聖霊に満たされてというのは、ここでエリサベトがマリアに言った言葉は、ほとんど預言のような、神さまの思いが語られているということです。そしてそれは祝福の言葉でした。しかも「声高らかに言った」とあります。これは大声で言ったということです。神さまの祝福が間違いないと言わんばかりに、大声で語ったのです。45節でエリサベトは言っています。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

マリアの賛歌

 するとそれに答えるかのようにして、マリアが語りました。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」‥‥ここに語られているのは、圧倒的な感謝と喜びです。主なる神さまをあがめ、ほめたたえています。
 しかし、人間の頭で考えると、マリアは決して神さまをほめたたえることのできるような状況には思われないのです。なぜなら、婚約者のヨセフはまだマリアの受胎のことを知らないと思われるからです。それはマタイによる福音書の最初の所を読むと分かります。マリアは、天使の受胎告知があってすぐにエリサベトの所へ行きました。だからヨセフはマリアの受胎を知らない。そうすると、後になってヨセフがマリアの受胎のことを知ったらどう思うか。普通に考えればヨセフは「マリアに裏切られた」と思うでしょう。そしてヨセフがマリアのことを訴え出れば、マリアは姦通罪を犯したとして捕らえられ、石打ちの死刑となるのです。
 そういう不安がなくなったのではありません。人間の普通の常識で言えば、そういうことになるのです。にもかかわらず、マリアはこのように主を賛美し、ほめたたえているのです。
 なぜそのように、この先にたいへんな試練が待ち受けているに違いないと思われるのに、主を賛美することができたのでしょうか?‥‥それは、御使いを通して語られた神さまの言葉を信じたからです。‥‥28節「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」、37節「神にできないことは何一つない」。神さまを信じたから賛美できたのです。神を賛美するとは、神さまに感謝をすることです。聖書では、賛美と感謝は同じことです。そのように、試練に立たされているにもかかわらず、神を賛美し、感謝する。このことは、マリアに際立っています。

讃美の力

 キリスト者の多くの人の愛誦聖句として、Tテサロニケ 5:16〜18の御言葉が挙げられるでしょう。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」 この御言葉を愛誦聖句として挙げる人が多くいます。たしかにすばらしい御言葉です。この御言葉のように、私たちが、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝できたらどんなにすばらしいでしょうか。しかし、一方では、そうではない自分がいます。文句や不平不満ばかり口から出てくる自分があります。また、不安に襲われる自分がいます。また、私たちから喜びや感謝を奪う出来事が、毎日のように起こってきます。問題が起きてきます。それなのに、どうして神を賛美し、感謝することができるのでしょうか。
 私が「賛美」というものに目が開かれたのは、若き日に『讃美の力』という本を読んでからでした。この本は、マーリン・キャロザースというアメリカ人の牧師が書いた本です。その本の最初のところに、次のような証しが載っていました。
 それはジムという人のお父さんが30年間もアルコール依存だったということです。その30年間、ジムの母は夫の癒しを神に祈り続けていました。しかし目に見える成果はありませんでした。そしてジムの父は、キリスト教の話をしようものなら怒り出すという有様でした。
 ある日ジムは、或る集会で、キャロザース牧師の話を聞いたそうです。それは、私たちが自分を苦しめている状況を変えてくださいと神に願うのではなく、私たちの身に起こるあらゆることについて神を賛美し始める時に、妨げが除かれて神の力が働き始めるという話しでした。そしてジムは、自分が、自分の父の今の状態を神に感謝して神を賛美しようとしたことが一度もなかったことに気がつきました。それでジムは妻にそのことを話し、「お父さんのアルコール依存のことを神さまに感謝しよう。今の状態がお父さんの人生に対する神さまのすばらしい御計画のうちにあるのだから、神さまを賛美しようじゃないか」。そして2人はその日、ずっとそのことで、すべてのことを一つ一つ神に感謝し、賛美をし続けたそうです。そして夕方になる頃には、喜びと期待の気持ちがわき上がってきました。
 その翌日、ジムの両親がいつものように日曜日の食事にやってきました。そして父のほうから、イエスさまに関する話を始めたそうです。そしてこのことがきっかけとなって、その日は夜遅くまでキリスト教についての腹を割った話しをしたそうです。それから数週間のうちに、ジムの父は自分の酒癖が問題だとはっきり認めたそうです。そしてイエスさまに助けを求め、アルコール依存から解放されてしまったそうです。ジムは長い間、父を変えてくださいと神に祈ってきましたが、状況は変わりませんでした。しかし、現状をそのまま感謝し、神を信頼して賛美して祈った時に大きな変化が起こったのです。
 この『讃美の力』の本は、見開きのところに、ヘレン・ケラーの次の言葉を載せています。‥‥「私は自分のハンディキャップを神に感謝している。そのことによって私は自分自身を、自分の仕事を、自分の神を見出したからである。」 また、19世紀のイギリスの有名な牧師、チャールズ・スポルジョンの次の言葉を引用しています。‥‥「あらゆる試みの中で神のみ手を見ることができるように神からの恵みを叫び求めよ。また、直ちにみ手にゆだねることのできるように恵みを叫び求めよ。ゆだねることのみならず、それに黙って従うこと、それを喜ぶこと‥‥そこまで来る時、おおむね問題は終りにきていると私は思う。」

正直に賛美

 私たちは、無理に、自分の意思をだまして神を賛美するよう求められているのではありません。感謝もしていないのに、無理に神さまに感謝するのでは意味がありません。それではウソをついていることになってしまいます。一番正直に感謝できることは、こんなに不平不満ばかり言って、不信仰な私でもお見捨てにならないイエスさまに感謝します‥‥ということでしょう。
 また、大きな問題が起こってきたら、このように神さまに祈ることができます。「主よ、この問題が起きてきたことを感謝します。なぜなら、わたしには解決ができないけれど、あなたに頼るしかないからです。あなたに頼るしかないと言うことに感謝します。あなたが大きな力を持っていることを感謝します。全能のあなたを賛美します‥‥」
 このように祈っていくならば、マリアの祈りに心を合わせることになります。どうかみなさんのこの一週間、主が共におられて、賛美と感謝の祈りを助けて下さいますように。


(2011年12月11日)



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