礼拝説教 2011年12月4日

「神の宣言」
 聖書 ルカによる福音書1章26〜38 (旧約 イザヤ書40:1〜2)

26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。
33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
37 神にできないことは何一つない。」
38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。




天使

 昨日は夫婦で、富山にあるアームストロング青葉幼稚園の創立百周年の記念式典に出席してきました。今週は12月8日という日があります。神の僕として、日本を愛し、富山を愛して青葉幼稚園を設立し、太平洋戦争直前に日本人となった亜武巣マーガレット先生を覚えつつ、多くの人々が集まってお祝いがなされました。
 式典の中で、在園児によるクリスマスの聖誕劇が上演されました。これは私も富山にいる間は毎年見てきたものですが、多くの来賓のおとなの前で、年長組さんがいっしょうけんめい聖誕劇を演じました。そしてこれも毎年のことですが、聖誕劇はマリア様への天使ガブリエルによる受胎告知から始まりました。園児の女の子が中央にひざまずき、天使のお告げを聞き、そして受け答えをする‥‥。その真剣な演技ですが、幼稚園児はほとんど「演技」という意識がないと思います。ただいっしょうけんめい教えられたとおりセリフを言う。その姿はまことにほほえましいものがありましたが、そのあまりの真剣さに、きょうの聖書の個所が重なって見えて、マリア様も当然このように驚き、真剣そのものだったのだろうなあ、と思い、感動を覚えた次第です。
 26節に「六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた」と書かれています。天使というのは神さまのメッセージを伝える存在です。ですから天使が告げる言葉は、神さまからのメッセージなのです。

神の選び

 神さまからのメッセージを携えて、天使ガブリエルはイスラエルの北部、ガリラヤ地方のナザレという村に住んでいたマリアというおとめのところに遣わされました。このマリアこそが、神さまの選んだ人だったのです。神の御子を生まれさせるために。と言っても、マリアは何か皇族や貴族でもありませんでした。また政治家や、資産家の家に生まれたのでもありません。全く無名の庶民でした。そして年の頃はと言うと、当時の習慣から10代半ばと思われます。天地の造り主なる神さまが、私たちを救うために一人子イエスさまを人の子としてこの世に生まれさせるためにお選びになったのが、このマリアであったのです。
 私たちは全く不思議に思います。もし私たちが神さまの立場であったとしたらどうでしょうか。‥‥自分のたった一人の子を、この地上の誰かに託すとしたら、誰に託すでしょうか?しかも自分の思い通りの人に託すことができるとしたら。おそらく、生活に何の心配もないような人に託すのではないでしょうか。また、よい教育を受けさせることのできる人、あるいは、病気になったらちゃんとした医療を受けさせることのできる人‥‥というように考えるのではないかと思います。
 そのように考えると、神さまがそのひとり子を託すためにお選びになったが、このマリアという若き女性であったということについては、まことに驚かされます。それは全く無名の庶民であったのです。

神の宣言

 マリアのところに遣わされた天使は、マリアのところに来て言いました。「おめでとう!恵まれた方!主があなたと共におられる」(26節)。続けて一気に神さまからのメッセージを伝えます。
 それは驚くべき内容でした。最初の言葉こそ「おめでとう」という祝福の言葉ですが、それに続く言葉は、祝福とはほど遠いように思われる内容でした。まだヨセフとは婚約中の身でありながら、男の子を身ごもるという。しかもその子は「イエス」という名前まで決まっている。そして「いと高き方の子」と言われるという。「いと高き方」とは他ならぬ神さまのことです。つまり「神の子」と呼ばれるという。それを神様が良しとされているのです。そして「ダビデの王座をくださる」と言われています。「ダビデの王座」というのは、むかし栄光を極めた頃のイスラエルの王です。そしてここで言われている「ダビデの王座を下さる」というのは、救い主キリストであるということです。
 すなわちここで天使が告げた神さまのメッセージは、旧約聖書の預言者たちが預言し、神さまが約束してくださっていた、救い主があなたから生まれると言っているのです。
 そもそも天使が現れるということが普通ではありません。聖書を見ても、天使が現れるというのは滅多にないことです。だから前回、同じ天使がザカリアに現れた時もザカリアは驚きを通り越して、恐怖の念に襲われたほどです。マリアも同様だったかもしれません。そればかりか、今申し上げたように、神の子でありイスラエルが待望してきたキリストが自分から生まれるというのです。しかもヨセフとは婚約中であるが、子供が生まれるような関係を持っていない。‥‥考えただけでも、平凡に暮らしていたであろうマリアは突然、激震に見舞われたのです。
 マリアの頭の中をさまざまな思いがよぎったことでしょう。‥‥そんな大それたことが自分に起こるということ。そしてなによりも、婚約者であるヨセフはどう思うだろうか?「裏切られた」と思うに違いない。神さまによって宿ったなどと信じるだろうか?また、ヨセフが自分を姦通罪を犯したと言って訴えるかもしれない。そうすると姦通罪は石打ちの死刑‥‥そのようなさまざまな思いが浮かんできたことでしょう。それは大いなる不安です。
 それなのに自分の所に現れた天使は、最初に「おめでとう」と言いました。とてもおめでたく思えない。いったい何がおめでとうなのか、なぜ「おめでとう」なのか?
 御使いは、マリアに告げました。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」(35〜37節)
 聖霊、神の霊があなたに降り、神の力があなたを包む、と。神さまがあなたと共におられ、あなたを守ってくださるのだ、と。不妊の女と呼ばれていたあなたの親戚エリザベトも、子を宿してもう6カ月になっているではないか。‥‥そして御使いは最後に宣言しました。「神にできないことは何一つない」!

神にできないことは何一つない

 「神にできないことは何一つない」!‥‥この言葉こそ真理です。そしてそれは神さまだけに当てはまる言葉です。私たちにはできないことだらけです。しかし私たちにはできないことも、神さまにはおできになります。この事実があるからこそ、私たちは生きていけるのだと思います。
 私自身、今までにいろいろな困難に直面してきました。大きな問題にぶつかってきました。牧師となってからもそうでした。「神さま、なぜこのような苦しみをお与えになるのですか?」と問うようなことも何度もありました。ピンチに立たされて、信仰を失いかけたことも何度もありました。また大きなトラブルを抱えて苦しみ、「自分は実は伝道者として神さまから召されていなかったのだ」と確信したことすらありました。「もうダメだ」と思ったことも何度もありました。‥‥しかし、今日に至るまで、それらの試練は乗り越えることができました。神さまが、イエスさまが、乗り越えさせてくださったのです。奇跡をなさってくださったのです。
 そのようなことから、私も「神にできないことは何一つない」ということがだんだん分かってきました。そして、できないことの何一つない神さまが、今回も助けて下さったという奇跡を見ることが楽しみになってきました。マリアがこの時感じた不安も、どれほど大きなものだったでしょうか。しかし神の御使いは、マリアに対して「おめでとう」という言葉で現れ、そして「神にできないことは何一つない」という宣言で終えたのです。
 それに対してマリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えたのです。
 「はしため」とは、分かりやすく言えば「女奴隷」という意味です。奴隷というのは主人の所有物でした。ですからここでマリアが言っていることは、「主なる神さま、わたしはあなたのものです。どうぞ御心のままになさって下さい」ということです。「お言葉どおり、この身に成りますように」‥‥主の御心の通り、なさってくださいと。神さまを信じたのです。聖霊によって神の子を身ごもったなどということを、この世の中の誰も信じないようなことを、それゆえに婚約者のヨセフも信じないだろうし、したがって自分は姦通罪で死刑になることが当然予想される。‥‥この一大事に、マリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えたのです。全面的に神さまに信頼し、ゆだねる言葉です。
 わたしたちはここに、何故神さまがマリアをお選びになったのか、ということが分かってきます。神さまが、イエスさまをこの世に遣わされるために、人間に求めておられたものは、宮殿の中のふかふかのベッドでもなく、この世の権力でもなく、金銀財宝でもありません。神さまがただ一つ必要とされていたものは、「信仰」です。信じる、ということです。これこそが神さまが求めていたものです。マリアが信じなかったなら、私たちの救いもなくなるのです。
 この信仰によって、あらゆる困難が予想されるにもかかわらず、御使いは「おめでとう」と最初に言ったのです。そして困難というものは、「神にはできないことは何一つない」、その言葉を受け入れることによって、神さまの御業へと変えられる。祝福へと変えられる。私たちもその信仰の世界へと招かれています。不信仰な私たちですが、どうか聖霊が信じることへと導き、助けて下さいますように。


(2011年12月4日)



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