礼拝説教 2011年11月27日

「神の時」
 聖書 ルカによる福音書1章1〜25 (旧約 マラキ書3章23〜24)

1〜2わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。
3 そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。
4 お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。
5 ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。
6 二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。
7 しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。
8 さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、
9 祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。
10 香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。
11 すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。
12 ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。
13 天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。
14 その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。
15 彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、
16 イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。
17 彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」
18 そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」
19 天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。
20 あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」
21 民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。
22 ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。
23 やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。
24 その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。
25 「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」




ルカ福音書を読む

 本日から、ルカによる福音書をごいっしょに読んでまいります。私はきょうという日を楽しみに待っていました。今、わくわくしています。それはまず、アドベント(待降節)を迎えたということです。アドベントから教会の一年の歩みが始まります。アドベントは、二千年前にこの世に来られた主イエス・キリストを覚える時であると共に、やがて再び来たりたもう再臨のキリストを待ち望む時でもあります。私は、逗子教会に来てから8か月が経とうとしていますが、このアドベントを皆さまとごいっしょに過ごすことを心待ちにしておりました。
 さらにわくわくいたしますのは、本日からルカによる福音書を礼拝において読み始めるということです。逗子教会に赴任してから、福音書を礼拝で読んでいきたいと思っておりました。そしてそれは、アドベントの時からと決めておりました。その日がついに来たのです。そういうわけで、私は非常にきょうという日を楽しみにしておりました。そういうわけで、本日からルカによる福音書を通して、イエスさまの地上での歩みをご一緒にたどってまいりたいと思います。
 さて、新約聖書には、「福音書」と呼ばれる、イエスさまの地上での歩みを記録した文書が4つ収められています。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネです。その中で、ルカによる福音書には特徴があります。それは、まずこの福音書を書いたルカという人です。他の三つの福音書は、イエスさまの直接の弟子であるマタイとヨハネ、そしてやはり地上のイエスさまと間近で接したマルコと、いずれも地上を歩まれたイエスさまを直接接し、見聞きした人たちが記したものです。
 それに対して、ルカは、この地上を歩まれたイエスさまと直接お会いした人ではありません。キリストの弟子たちの伝道によって信仰へと導かれた、第2世代の人です。だから地上を歩まれるイエスさまを直接見聞きしたわけではありません。しかし、直接見聞きしたわけではないから、ルカの書いていることは信頼性がないかと言えば、全然そうではありません。

 例えば、誰かについての伝記本を書くということについて考えてみれば分かります。みなさん、週報などをご覧になって、私がよく富山に行くなあ、と思っておられる方もいると思います。今週も行きますが、何をしに行くかというと、富山二番町教会の関係幼稚園であるアームストロング青葉幼稚園の百周年の記念式典が土曜日にあるのです。富山の教会の牧師は辞任しましたが、幼稚園のほうの役員はなかなか辞めさせてもらえません。
 さて、その富山の青葉幼稚園を始めた人が、カナダメソジスト教会の婦人宣教師、マーガレット・エリザベス・アームストロング先生なのです。きょう聖書に登場する祭司ザカリアの奥さんもエリザベス(エリザベト)ですが。彼女はキリストの福音を伝えるために明治時代の末に、単身日本に渡りました。そして富山に来て、伝道のために幼稚園を開園したのです。富山は仏教の浄土真宗の非常に強いところで、たいへん苦労をしました。「俺の子をヤソにする気か!」と言ってスコップを投げつけられたこともあるそうです。 そのようにたいへん苦労をして、しかしキリストの福音と幼児教育の情熱の冷めることなく、祈りに祈って主に仕えていきました。幼稚園が順調になり始めたと思ったら、日本の国は満州事変〜日中戦争が始まり、さらに昭和16年にはアメリカとの太平洋戦争が始まりました。その太平洋戦争が始まる前、日本とアメリカなどの連合国側との緊張が高まり、日本に来ていたアメリカ、イギリス、カナダなどの外国人は、本国の命令によって続々と日本から引き揚げていきました。
 ところが、アームストロング先生は逆に日本にとどまる決心をし、それどころか、日本国籍を取得し、名前を「亜武巣マーガレット」と改名して、日本人となったのです。女性ひとりで戦争中の日本にとどまり、それは苦労をされました。‥‥そのアーム先生の伝記本『日本人になった婦人宣教師』が、このたび出版されました。著者は、堀江節子さんという方です。彼女はクリスチャンでもなければ、アーム先生に直接接したわけでもない。しかし実によく調べ上げて、私たちの知らなかったアーム先生のことを書いてくれているのです。生前のアーム先生と親しく接した人は、アーム先生がどんな人だったか、どんなことを自分に言ったか、ということは良く知っています。しかし、ではアーム先生はなぜ日本にとどまったのか、戦争中どのような苦労をされたか、また、戦後は日本のためにどこでどのようにして具体的に占領軍と折衝されたか‥‥というようなことになると、断片的にしか知らないのです。
 つまり、自分にどのように接してくれたか、ということは良く知っているのだけれども、アーム先生の働きを客観的に、時間をおって順序正しく記述するということはできない。むしろそのようなことは、後の人がいろいろ取材して調べた方が正確に記録できるということがあるものです。

 たとえが長くなりましたが、そういうことです。ルカも直接イエスさまに接していたわけではない。しかもユダヤ人ではない。異邦人からクリスチャンになった人です。しかし、それであるからこそ、いろいろな人に取材して資料を集め、客観的に記録を綴ることができたと言えるでしょう。ですから、ルカは信仰の第2世代だからこの福音書には信頼性が薄いということは絶対になく、むしろ逆に信仰第1世代の気がつかないようなことがよく補われていて、イエスさまが生き生きと浮かび上がってくると言えるのです。そしてこの記録を、テオフィロという人に献げている。このテオフィロとい人がどういう人か、よく分かっていません。しかし1人の人のために、イエスさまのことを調べて書いた。1人の人をキリストの信仰に導くために、膨大な取材や調査をした。‥‥私たちも、それほどの情熱をもって、1人の人が主イエスを信じるようになるために、祈りたいものです。

ザカリアの登場

 さて、そのルカの書き始めるイエスさまの記録ですが、いきなりイエスさまの登場、あるいはイエスさまのお母様のマリアの受胎から始めるのではありません。最初に登場するのは、ザカリアという人です。このザカリアという人は、イエスさまに洗礼を授け、またイエスさまがキリストであることを預言したバプテスマのヨハネという人の父親になった人です。つまりルカは、イエスさまに洗礼を授けたヨハネのことから書き始めているのです。それはいったいなぜか?
 それは、バプテスマのヨハネという人が、旧約聖書の一番最後に預言されている預言者だからです。それでもう一つの聖書、マラキ書を読んでいただいたのです。そのマラキ書の一番最後の所を読んでいただきました。それはまさに、旧約聖書の一番最後の最後です。その3章23節にこう書かれています。=「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように。」
 「大いなる恐るべき主の日」とは、終わりの日のことです。その時、神の怒りの裁きによって、世界が破滅することのないように、旧約聖書の有名な預言者エリヤを再びこの世に遣わす‥‥と神様が約束なさっている。そのエリヤが、約束通りこの世に遣わされた。それがバプテスマのヨハネであるということを明らかにしているのです。きょうのルカ福音書の1章17節で天使が「彼はエリヤの霊と力で」と語っているとおりです。だからルカは、ヨハネのことから書き始めるのです。神さまが旧約の最後に預言されたことが成就したと。
 イエスさまが来られることによって、世の終わりの時代が始まる。その前に預言者エリヤを再びこの世に神さまが遣わす。それがバプテスマのヨハネであるということです。ルカが3節に「順序正しく書いて」と述べているとおり、ヨハネのことから書くのが正しい順序だと。そのバプテスマのヨハネの父となったザカリアという人は、エルサレムの神殿に奉仕する祭司の1人でした。そして妻エリサベトとの間には子供が生まれないまま、既に年を取っていた。この夫婦は、2人とも熱心に神様に従う人であったと書かれています。熱心に神さまを信じてきたのに、子供が生まれなかった。当時は、子供が生まれないということは屈辱的なことでした。信仰がぐらつくようなことです。しかし私たちも、「イエスさまを信じているのに、どうしてなかなか願いが叶わないのだろう?」と思うことがあるのではないでしょうか。
 しかし、聖書はしばしば、子供が生まれない夫婦から神さまの奇跡が始まります。物語が始まります。アブラハムがそうでした。サムソンの両親がそうでした。神さまの奇跡というものは、満たされているところから始まるのではありません。欠けているところから始まるのです。

天使の預言

 この日、ザカリアはエルサレムの神殿で香を焚く当番に当たりました。それは祭司として一生に一回あるかないかの名誉な務めでした。人々が見守る中、ザカリヤは神殿の奥に入っていき、聖所の中で香を焚きました。そこに突然、神の使いが現れました。実に、ここに、旧約聖書の最後の預言から長い年月が経ったこの時、その神さまの約束が成就する時が突然やって来たのです。神さまのなさることは、そういうことです。
 驚き恐れるザカリア。それはそうでしょう。私も天使という者を見たことがありません。この時代のほとんどの人もそうだったでしょう。ザカリアもそうだったでしょう。だからザカリアは恐怖の念に襲われたのです。しかし天使は驚かすために現れたのではありません。神さまの言葉を告げるために現れたのです。ちなみに、天使が本当かどうか、幻覚かどうかは、その天使が告げた言葉が実際にその通りになるかどうかで分かります。
 天使はザカリアに、「あなたの願いは聞き入れられた」と告げました。そうして妻のエリサベトが子を生むことを告げたのです。そしてその子をヨハネと名付けるように指示し、さらにその子が大きな務めを負っていることを告げました。それを聞いたザカリアは、「わたしは老人ですし、妻も年を取っています」と答え、自分たちの間に子が生まれることを信じられないと言いました。
 これは驚きです。御使いが「あなたの願いは聞き入れられた」と告げたように、ザカリアは、長い間自分たちに子供が生まれるように、神さまに祈り願ってきたはずです。ところがいざ、それがかなえられたと告げられると、信じられないという。おかしなことです。
 しかし、このようなことは私たちにもあるのではないでしょうか。私たちもいろいろなことを神さまにお願いしていることでしょう。例えば、「病気を治して下さい」と祈っていたとします。そしてその病気が治ったとします。すると、神さまのことなど忘れて「あのお医者さんのお陰だ」とか、「この健康法が効いたのだ」と言う。もちろんそういう面もあるのでしょうが、「神さまが治して下さった。神さまがお医者さんを用いて下さった」と言うべきでしょう。それと同じです。
 ザカリアは、自分が長いこと祈り願っていたことがついに聞かれたのに、信じられない。つまり、本当の意味で神さまを信じていないのです。「時が来れば実現するわたしの言葉」と天使は言っています。「時が来れば」と。神さまの定めた時が来れば、キリストが到来する、約束のエリヤが到来する。そういう時が来たのです。そして私たちの祈りが聞かれる時、というものがあるのだと教えています。

罰か恵みか

 ザカリアは、天使が告げた神さまの言葉を信じなかったので、口が利けなくなりました。これは神さまの与えた罰のように感じられます。しかし本当にこれは罰なのでしょうか?
 本当に罰だとしたら、信じなかったのだから、ザカリア夫婦には、やはり子供が生まれなくなるということでしょう。しかしザカリアが信じなかったにもかかわらず、結局子供は生まれました。するとザカリアが、子供が生まれるまで口が利けなくなったというのは、罰ではなかったということになります。
 口が利けなくなって沈黙させられる。黙らせられたのです。口が黙るということは、あとは見ること、聞くことしかできません。「黙って、神さまのなさることを見ておれ!」ということです。「余計なことは言わずに、神さまのなさる奇跡を見ていなさい」ということでしょう。「あなたの無駄口は、神さまのなさることの邪魔だから、黙ってみていろ」と言わんばかりです。ザカリアは黙ってみているしかありませんでした。するとエリサベトは妊娠し、どんどんお腹が大きくなっていき、そしてついに出産を迎えました。ザカリアは、神さまのなさることを黙って、驚いて、見ることができたのです。
 そして、赤ちゃんが生まれて、口が利けるようになって、最初にザカリアの口から出た言葉は、神を賛美することでした。すると口が利けなくなったことは、罰ではなく、それも恵みであったということになります。神さまの偉大なわざを見るという恵みであったのです。人間の目には、罰のように見える。しかし実はそれは恵みであった。
 私たちも、神の恵みを見る者でありたいと思います。時を信じる者でありたいと思います。


(2011年11月27日)



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