礼拝説教 2011年11月6日

「主の晩餐」 〜日本基督教団信仰告白による説教(15)〜
 聖書 マルコによる福音書14章22〜26(旧約 出エジプト記12章1〜14)

22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。
24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
25 はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
26 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。





“バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行ひ”

聖礼典

 信仰告白は、「教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝へ、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行ひ」と続きます。福音を宣べ伝えるということは、第一には礼拝の中の説教ですから、教会とは礼拝をするところであり、 その礼拝の中心は説教と聖礼典であると述べているのです。
 聖礼典は礼典ですから儀式です。しかも無くてはならない儀式であるということです。教会は学校とは違います。何か教えを学ぶ、勉強する場所というのではありません。神の恵みを具体的に受ける場所です。そのことが目に見えて分かるのが聖礼典です。 聖礼典とは「サクラメント」という言葉の訳です。カトリック教会ではサクラメントを「秘跡」という言葉に訳しています。ちょっと神秘的です。人間の思いを越えた神さまの超越的な力が働いているように感じられます。
 聖礼典の数は、カトリックとプロテスタントで違っています。カトリックは、全部で7つあります。しかしプロテスタントでは、イエスさまが直接お命じになったものだけ、すなわち、洗礼と聖餐の2つだけを聖礼典としています。

バプテスマ(洗礼)

 そのうちの1つがバプテスマ、すなわち洗礼です。洗礼の意味は、ローマの信徒への手紙6章に書かれているように、キリストと共に死に、キリストと共に新しい命に生きるということです。すなわち、イエス・キリストの十字架によって罪ゆるされて、キリストに結ばれて、 神の子として新しく歩むということです。
 洗礼の形式にはいろいろあります。例えば、先々週私は福島県の教会を訪ねて回りましたが、その中の福島新町教会には、講壇の後ろに洗礼槽がありました。水道の蛇口がついて、ちょうど風呂桶のようになっていました。福島新町教会は、ディサイプル派の流れを汲んでいるとのことでした。ディサイプル派ではバプテスト派と同じく、洗礼は体全身を水の中に沈めて洗礼を授けます。これを「浸礼」といいます。
 それに対してメソジスト派や長老派は、あたまに水をたらす「滴礼」という方式でおこなっています。どちらが本当なのかという問題ではありません。それぞれ、聖書で記されている洗礼はこちらの方式だと信じておこなっているのです。いずれにしろ、洗礼は、キリストを信じることによって、古い罪の自分に死んで、新しく神の子として生まれ変わることをあらわしています。そのしるしが洗礼です。しかし「しるし」といっても、それは単なる形式ということでは決してありません。
 洗礼の大きな意義は、それによって聖霊を受けるということです。使徒言行録2章ペンテコステの聖霊降臨の出来事をお読みいただければ分かります。ペンテコステの日、弟子たちが集まって祈っている所に聖霊が降臨しました。物音を聞いて、おおぜいの野次馬が集まってきました。その時、聖霊を受けた使徒たちと共にペトロが立ち上がって、群衆に向かって説教しました。すると集まっていた群衆は心を打たれて、言いました。 「兄弟たち、私たちはどうしたらよいのですか?」
 するとペトロが答えました。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いて下さる者なら誰にでも、与えられているものなのです。」(使徒2:37〜39)
 そうしてその日に三千人の人々が新たに洗礼を受けて教会に加わりました。そのように、イエス・キリストを信じて洗礼を受けるならば聖霊を受けるのです。

主の晩餐(聖餐)

 聖礼典のもう一つは聖餐です。私は、物心ついたときには、すでに両親に連れられて教会に通っていました。小さい頃は、おとなの礼拝が終わるまで、礼拝堂の後ろの方で遊びながら終わるのを待っていました。おとなたちが讃美歌を歌い、説教を聴いていましたが、それらに興味はありませんでした。しかし私の興味を引くものがありました。それが聖餐式だったのです。時々礼拝で、おとなたちが前のほうに進み出るのです。島田教会はメソジストの流れを汲む教会でしたから、聖餐を受ける時には、講壇の回りに「恵みの座」と呼ばれる手すりで囲まれた場所があって、そこに進み出て聖餐を受けるのです。本当は恵みの座にひざまずいて聖餐を受けるのですが、島田教会では、その恵みの座のまわりに、幼稚園の子ども用の小さなイスが並べられ、そこにちょこんと腰掛けてなにやら、ありがたそうにおとなたちが食べているのです。
 ある時、聖餐のために進み出るおとなに混じって、私も恵みの座に腰掛けてみました。そしておとなたちが何をありがたそうに食べているのかを見たのです。それはパン切れでした。そして、小さな魅力的な杯に入った赤い飲み物でした。後で親に聞くと、それはぶどう酒であるということでした。それが聖餐式でした。そのパンとぶどう酒を、皆さんがとてもありがたそうに真剣にいただいているのが印象的でした。
 この聖餐が、主の晩餐と呼ばれるものです。そしてその最初の聖餐式が、きょう読んでいただいた聖書の個所です。時は、イエスさまがこの後オリーブ山で捕らえられ、翌朝には十字架に付けられるという緊迫した時です。イエスさまは弟子たちと共に食卓についています。これは何の食卓かというと、ユダヤ教の三大祭と呼ばれる「過越祭」の食卓です。これは、そのむかしエジプトで奴隷にされていたイスラエルの民が、神さまの偉大な力によって解放されると言う時に定められたものです。きょう読んでいただいた旧約聖書に、そのことが書かれています。
 神さまが、エジプトを罰して、災いを下される。その時に、神さまの言葉にしたがって、家の玄関の柱と鴨居に小羊の血を塗った家は、神の災いが過ぎ越していく。それで「過越」と呼ばれます。イエスさまは、あす十字架にかかられる。十字架にかかられて血を流され、死なれます。そのイエスさまの十字架とは何なのか、ということをこの食卓を通して示しておられるのです。

マルコ14:22〜26

 すなわち、イエス・キリストの十字架が、旧約聖書の過越の成就であるということです。すなわち、旧約聖書のイスラエルの出エジプトの過越は、実はイエスさまの十字架の救いの予言であったということです。
 最後の晩餐の席で、イエスさまはまずパンを手にして「弟子たちに与えて」(22節)言われました。「取りなさい。これはわたしの体である」と。‥‥これは、あす十字架にかかるイエスさまが、何のための十字架にかかるのかということを教えておられるのです。十字架という死刑台にかけられて死なれる。そのことを、パンを手にして「弟子たちに与えて」と言われています。イエスさまの十字架は、弟子たちに、そして私たちのためにかかられるのだと。それを取りなさい、と言われる。
 また杯に入ったぶどう酒を弟子たちに回しのみさせなさった。そして言われました。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」‥‥ぶどう酒はイエスさまの血であり、それをいただくのです。そしてそれが契約の血と呼ばれている。血は聖書では命を現します。ですからイエスさまが十字架で流される血は、イエスさまがささげられる命であり、それを私たちがいただくということです。すなわち、イエスさまの十字架とは、私たちを救うために十字架にかかられるということです。私たちを救うために命を捨てられる。そしてその命を私たちに向かって差し出され、「取りなさい」とおっしゃるのです。それが聖餐式です。

神の国の予言

 そしてイエスさまはおっしゃいました。(25節)「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」 「もう決してあるまい」と言う言葉は、すごい強調になっています。「神の国で新たに飲む」その時までは、もう決して飲まない、とおっしゃる。これは裏を返せば、「神の国で、必ず新しくまた飲もう!」ということです。
 やがて天国、神の国で、喜びの盛大な晩餐会がある。その時、また必ず飲もうと。すなわち、私たちに永遠の命が与えられ、神の国において喜びの食卓に共に着こう。そのために私が十字架でささげる命を受け取りなさい‥‥そういうことです。すなわち、聖餐式は、天国の復活の食卓の予告であり、預言となっているのです。その約束のしるしです。

神の約束

 特別伝道礼拝に於ける証しの続きのようになりますが、神さまの奇跡によって教会に戻り、信仰へ導かれた私は、洗礼を受けたいと思いました。それで島田教会の佐藤牧師に、その旨を伝えました。すると先生は、困ったような顔をされて、「君は、幼児洗礼を受けているので、もう洗礼を受けなくて良いんだよ」と言われました。たしかに私は3歳の時に幼児洗礼を受けていますが、その記憶がありません。それは親が勝手に受けさせたもので、自分から受けたのではない。それで先生に、「もう一度洗礼を受けさせて下さい」と言いました。すると先生はまた困ったような顔をされて、「洗礼は一回だけで良いんだよ」と言われました。
 そう言われても納得がいきません。「もう一回受けさせてくれても良いじゃないか」と心の中で不満に思っておりました。幼児洗礼を受けている人は、聖餐式を受けられるようになるためには「信仰告白式」というのをするのであって、洗礼式ではない‥‥そのことがおもしろくなかったのです。
 さて、そうして信仰告白式をするクリスマス礼拝が近づいていきました。私はなおも不満に思っておりました。 ところが、もう1人私といっしょに信仰告白式をする人がいることを知りました。それは、半年ぐらい前から教会に来だした82歳のお婆ちゃんでした。私はその時24歳でしたから、58歳先輩でした。彼女も幼児洗礼を受けただけだったのです。話を聞くと、そのお婆ちゃんは、2歳の時に幼児洗礼を受けたとのことでした。しかしその後ずっと教会につながっていたのではない。小さい頃は教会学校、そしてキリスト教の女学校にも通ったそうですが、その後教会は離れてしまった。そして長い年月が経ったのです。しかし、その時から半年前に教会に再び来るようになった。そして信仰告白式をすることを申し出たのです。つまりそのお婆ちゃんは、幼児洗礼から80年の歳月を経て、信仰告白へと導かれたのです。‥‥
 私は、その話を聞いた時、衝撃を受けました。そのお婆ちゃんは2歳の時に洗礼を受けたわけですから、それこそ記憶にないことでしょう。そしてやがて教会を離れてしまった。神さまのことを忘れてしまったのです。しかし、本人は忘れても、神さまはお忘れにならなかった。幼児洗礼を受けた彼女のことを。そして80年という長い歳月を経て、神さまはずっと導いて下さり、ついに教会へ戻ることが出来たのではないか。
 自分はどうか。自分は、親が勝手に幼児洗礼を受けさせたのであって、自分の意志で受けたのではないから、そんなのは意味がないと思っていた。しかしその考えは間違っていたのです。私は忘れており、記憶のかなたにあったが、神さまは忘れられなかった。そして時を定めて救ってくださったのでした。私は、「自分が、自分が」と思っていた。しかし信仰とは、「神さまは」という世界であることを知ったのです。
 洗礼も聖餐もそうです。神さまがそうされた。イエスさまが十字架におかかりになって、洗礼を受けるようにお命じになっている。そして聖餐のパンと杯を私たちに与えて「取りなさい」と言われる。神の御子が十字架にかかって私たちに差し出してくださった命を、取りなさいと言われる。私たちは感謝をもって、それを受け入れるのです。


(2011年11月6日)



[説教の見出しページに戻る]