礼拝説教 2011年9月11日

「あなたも選ばれている」 〜日本基督教団信仰告白による説教(9)〜
 聖書 エフェソの信徒への手紙1章3〜7  (旧約 イザヤ書43章10〜12)

3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。
4 天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
5 イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。
6 神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。
7 わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。




神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ。

大震災から半年

 本日は9月11日。アメリカで同時多発テロが起きてから10年目であり、また今年3月11日に発生した東日本大震災の発生からちょうど半年にあたる日です。この二つの出来事は、私たちを取り巻くこの世の世界が変わるほどの大きな影響をもたらしました。とくに東日本大震災は、死者・行方不明者合わせて2万人を数え、地震に伴って発生した福島第一原子力発電所の事故により、さらに大きな災害となりました。今なお、多くの人々が困難な状況に置かれています。
 先ほど歌っていただきました、聖歌397番「遠き国や」は、今から88年前に発生した「関東大震災」の時に作られた曲です。あまりにも美しい曲ですので、そのように思われなかった方もおられることでしょう。
1923年(大正12年)9月1日、相模湾北部を震源とする大地震が関東一円を襲いました。大規模な火災が発生し、この震災で10万人以上の方々が亡くなりました。当時、大阪市立高等商業学校の英語講師であった、J.V.マーチンという宣教師がたまたま東京に来ていました。そこでこの震災に遭遇したのです。彼は避難所となっていた明治学院のグランドに向かったそうです。そこには大勢の人たちが避難してきていたそうです。まだ首都圏の火災は鎮火されていなかったことでしょう。また、余震も続いていたことでしょう。そこには絶望と不安の中に憔悴しきった人々の姿があったことでしょう。 グランドで夜を過ごすために蚊帳とロウソクが配られました。その時、マーチンには、その蚊帳の中でともされたローソクの小さな炎が、暗闇の中に浮かぶ十字架のように見えたそうです。そこで彼は、ペンを取ってこの詞を書いたそうです。そして大阪に戻ってから曲を付けたということです。それが聖歌397番です。日本語に訳したのは、伝道者であり音楽家でもあった中田羽後です。
 そのようなことを知って、あらためて聖歌397番をご覧いただくと、作者の思いと信仰が伝わってまいります。とくに折りかえしの所、
「なぐさめもて、な(汝)がために、慰めもて、我がために
  揺れ動く地に立ちて なお十字架は輝けり」
 私がそのことを初めて知ったのは、今から3年前、富山二番町教会のクリスマスイブ礼拝にて、福音歌手の森祐理さんをお招きしてチャペルコンサートをした時でした。森祐理さんは、阪神大震災で弟さんを失っています。その森祐理さんは語っています。どんなに地震で大地が揺れ動き、また私たちの心が揺れ動いても、十字架だけは揺れ動かないと。

神さま、イエスさまがわたしを選んだ

 日本基督教団信仰告白の説教を続けております。本日は、「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ。」というくだりの、とくに「神は恵みをもて我らを選び」という所を学びたいと思います。
 ここではいわゆる「神の選び」ということが語られています。すなわち、神さまが私たちをお選びになった、ということです。このことについて有名な聖書個所は、ヨハネによる福音書15章のイエスさまの言葉でしょう。最後の晩餐のあと、イエスさまが弟子たちにおっしゃいました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)。
 イエスさまの弟子たちは、自分からイエスさまという人を信じて選んだと思っていたことでしょう。しかし実はそうではなく、イエスさまのほうが弟子たちを選んだと言われています。同じように、私たちは、いろいろある宗教や神と呼ばれるものがある中で、自分のほうからイエス・キリストを求めるようになり信じたのであって、自分がイエスさまを選んだと最初は思っていたことでしょう。しかし実はそうではないということです。神さまのほうから、イエスさまのほうから私たちをお選びになった。それで私たちは教会に導かれたということになります。そして私たちは気がつかなかったかもしれないが、目に見えない神様の霊の導きがあった。それで私たちは、教会に来てイエスさまを信じるようになったのだということです。

天地創造の前に

 そして本日の新約聖書であるエフェソの信徒への手紙を読むと、もっと驚くべきことが書かれているのです。4節をご覧下さい。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」
 これを驚かずにいれるでしょうか。神さまは、天地創造の前に私たちを選ばれたというのです。私たちが選ばれたのが、最近のことだというのではありません。洗礼を受けた時、あるいは小学生や幼児の時というのでもありません。私たちが生まれる前から、いや、この世界が始まる前、天地創造の前にすでに選ばれていたというのですから、こんなに驚くべきことがあるでしょうか! 私たちの記憶に無いどころの騒ぎではないのです。
 言い換えれば、私たち一人一人は、宇宙が造られる前から、この世に生まれるように神さまが決めておられたということです。そしてそれは単にこの世に生まれて、そして死んでいくということではない。何かおもちゃを造って、また壊すようにするために生まれさせたというのではありません。「ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと」‥‥とありますように、神さまの前に生きる者として、永遠に神と共に生きる者とするために、私たちを生まれさせることを、宇宙をお造りになる前から、はるか昔々から、宇宙も私たちも影も形もない頃から、定めておかれたというのです。
 なんという壮大な神の御計画でしょうか!そのように神さまがなさる理由は、「神は私たちを愛して」と書かれています。それは神の愛であるというのです。すなわち、私たちは愛されて生まれたのです。そのように思えない方がいるかもしれません。「自分は、何の意味もなく生まれてきた」という方がいるかもしれません。「誰からも愛されていない」と思う方がいるかもしれません。
 しかし聖書はそうは言っていません。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」と言っています。

イエス・キリストによって

 さて、そのように「選ばれた」と言いますと、「では選ばれていない人もいるのか?」という疑問が出て来ます。ある人は選ばれたが、ある人は選ばれなかった。そのようなことはこの人間社会ではふつうのことです。先週は、女子サッカーのオリンピックのアジア予選が行われましたが、オリンピックに出場できるのは上位の2カ国のチームだけということでした。そして日本は行けることになったわけですが、その日本のサッカー代表チームに選ばれた選手というのは、日本の多くのサッカー選手のうちのごく一握りの人だけです。
 そのように、「選ばれる」のは、優秀なごく一握りの人であるというのが、この世の中です。そのような意味でいうならば、私も選ばれたという経験があまりありません。もちろんスポーツで選ばれたことはないし、書き初めや夏休みの自由研究で選ばれたこともありません。もちろんそのようなものは、実力がある人だけが選ばれるのですから、実力がなかったわけです。
 では「運」は良いかというと、これもダメですね。あまりクジで当たったということがない。いつもハズレです。年賀状でさえ、たくさん来てもどういう訳か一番ビリが何とか当たるだけです。商店街の福引きでも当たったためしがない。そのように、何か才能があるわけでもなく、運が強いわけでもない。そうすると「選ばれる」ということからはほど遠いこととなるわけです。
 そのようなことですから、「選ばれた」と言われても、何かピンと来ないものが感じられるわけです。「この私が選ばれた?」と、不思議に思わざるを得ません。何か人の役に立つことをしたわけでもなく、もちろん聖人君主であるはずもない。「いったいなぜ選ばれたのか?」と思わざるを得ないわけです。
 すると聖書は、4節で「キリストにおいてお選びになりました」と書いています。また5節にも、「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」と書いてある。すなわちこれは、御子イエス・キリストによって、その十字架によって、私たちが選ばれたと言っているのです。本来私たちは、選ばれるはずがない者です。神さまに背いているわけですから。神さまに対する罪があるので、選ばれるはずがない者です。神の国に入れていただくことのできない者です。
 ところがその罪を、イエス・キリストが十字架にかかって、償ってくださった。私たちの代わりに、イエスさまが神さまに対する負債を支払ってくださった。そのことを信じる時に、私たちも選ばれた者となったのです。選ばれるなんの資格もないが、イエスさまが十字架にかかって資格を与えて下さったのです。
 したがって、誰でもイエスさまを信じるなら、それは選ばれた者となります。(Uコリント 5:17)「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」とある通りです。

恵みと神の主権

 それを表す言葉が、6節と7節に出てくる「恵み」という言葉です。7節には、「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです」と書かれています。
 「恵み」という言葉は、昔は「恩寵」と言いました。それはなんの資格もないのに、一方的に与えられる良き物です。値無くして与えられるものです。そのように、徹頭徹尾、罪人であり救われるべきなんの資格もない私たちが、ただ神の恵みによって、イエス・キリストを信じることによって救われる。そのように、私たちが救われるということが、神の主権であることを表すのが「選び」という言葉です。
 私たちが偉いからとか立派だからというのではない。何か才能があるからとかいうことでもない。神の国に入れていただく何の資格もないのに、御子イエス・キリストによって私たちを救うことを、天地創造の前からお決めなさっていた。その神の圧倒されるような愛と恵みを感謝し、讃える言葉が「神は恵みをもて我らを選び」という言葉です。
 それは神が、この私たちを愛して命をお与えになったばかりではなく、私たちの人生に対して御計画を持っておられるということです。神がこの私たちの人生に対して、御計画を持っておられる。それゆえ、私たちの毎日には意味があるということです。それが神さまによってすばらしい結果へと導かれることになる。そのことを信じて良いのです。

(2011年9月11日)


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