礼拝説教 2011年8月28日

「このわたしのために」 〜日本基督教団信仰告白による説教(7)〜
 聖書 フィリピの信徒への手紙2章1〜11  (旧約 イザヤ書53:3〜5)

1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、"霊"による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、
2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。
3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、
4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、
11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。




御子は我ら罪人の救ひのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、我らの贖ひとなりたまへり。

人となられた神の御子

 前回は、私たちの神さまが「三位一体」の神さまであることを学びました。私たちの神さまは、天地宇宙と万物を造られた神さまであり、それはただおひと方の神さまであられるけれども、しかし同時にその神さまは、父と子と聖霊なる、お三方である神さまである。すなわち、父なる神さま、子なる神イエスさま、聖霊なる神さま。その三つにいまして一つなる神さまである。そういう人間の頭の理解を超えた神さまであるということです。それはいわゆる「一神教」とも違う、「多神教」とも違う、神秘です。それが聖書が示す真の神さまであるということです。
 さて、そのように三位一体の神秘を述べた信仰告白の文章は、続けて「御子は我ら罪人の救ひのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、我らの贖ひとなりたまへり」と続きます。
 「御子」とは、子なる神であるイエスさまのことです。たった今、イエスさまが神の御子である神だと述べた信仰告白は、そのイエスさまが「人と成った」と述べるのです。すなわち、神が人と成ったというのです。
 日本では、人が神と成って祭られるということがあります。徳の高い人間、功績のあった人間、尊敬し慕われていた人間が、死んだ後に神と成って祭られるということがあります。しかしここで信仰告白が述べていることは、それとは全く逆です。神が人と成ったというのです。人と成った、というのは、なにか「人間になったふりをした」ということではありません。なにか神さまがお忍びで、人間に姿を変えてこの世に来てみた、というのではないのです。ここで「人と成った」という時、これは神の御子である方、すなわち子なる神さまが、全く人間に成られたということです。
 話はそれますが、私はテレビはあまり見ないほうなのですが、「水戸黄門」だけは見ます。ですから、水戸黄門が今放映されているシリーズで打ち切りと聞いて、ガッカリしているのですが、あの水戸黄門は天下の副将軍という権力を持った方が、越後のちりめん問屋のご隠居に姿を変えて、諸国を漫遊するというストーリーです。水戸黄門は、先の副将軍という立場を全く捨てたわけではありません。それが分かるのは、ドラマが午後8時40分を超えたあたりからです。悪代官や悪家老が繰り出す手下とチャンバラを繰り広げ、最後に「静まれ」との声と共に葵の御紋の印籠が掲げられ、一同はその前にひれ伏さざるを得ないというところで、一件落着いたします。その葵の御紋が高く掲げられた時、それまでのちりめん問屋のご隠居が、実は先の副将軍・水戸光圀公であるという正体を現すわけです。それはまさに、水戸光圀公が権力を捨てたわけではなく隠していて最後に一挙にそれを前面に打ち出すという仕方になっています。
 しかし信仰告白が、神の御子イエスさまが「人と成り」と言う時、それは神の身分を隠したまま隠密行動をとられた、ということではありません。神の御子としての神であるイエスさまが、全く人と成られたということです。その証拠が、十字架です。神さまは死にません。しかし人は死にます。そしてイエスさまは、十字架上でたしかに死なれたからです。すなわち、神が人と成られた。そして十字架上で死なれたのです。

フィリピの信徒への手紙2章

 そのあたりを、フィリピの信徒への手紙2章から見てみましょう。ここでフィリピの信徒への手紙を書いた使徒パウロは、2節で「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして」‥‥と書いています。すなわち、教会の兄弟姉妹が一致することを願っています。キリストを信じて、キリストによって救われて教会につなげられたのがクリスチャンです。しかしクリスチャンになったから完全無欠な人間になったということではありません。それで残念ながら教会の中でも不一致やもめ事が起きてくる。そしてその原因が、3節にあるように、「利己心や虚栄心」であると指摘しています。
 ではそれをどうやって克服したらよいのかということをパウロは続けて述べています。‥‥「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけではなく、他人のことにも注意を向けなさい」(4節)。自らへりくだって、相手を自分よりも優れた者と考えなさい、と。私たちは尊敬している人のことならば、「自分よりも優れた者」であると自然に思うことができます。しかし、自分が嫌いな人のことを「自分よりも優れた者」であると思うことはできません。むしろ見下し、軽蔑し、悪口を言うのがふつうです。
 しかしここで使徒パウロが述べていることは、自分が尊敬する人を自分よりも優れた者であると認めなさいとは言っていません。「互いに」と、すべての兄弟姉妹をそのように思えと言っているのです。自分が嫌いな人、あるいは自分とは意見の違う人、尊敬できない人‥‥そういう人を自分よりも優れた者であると考えよ、と述べているのです。そのような人にも、どこか自分よりも優れた面があり、学ぶべき点があるとも言えるでしょう。そしてさらにその人のことを自分よりも優れた者であると考えなさい、というのです。
 これは驚きです。いったいなぜ、相手を自分よりも優れたものと見なす必要があるのか?たしかにそのようにすれば、教会の中でトラブルも争いもなくなるかもしれない。しかしそもそも、なぜ相手を自分よりも優れた者と見なす必要があるのか?そこまでする必要はないのではないか?‥‥ふつうはそのように思えるのです。「俺は少なくとも、あの人よりはマシだ」と思うものです。しかしパウロは、「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」なさいと言う。なぜそうする必要があるのか? そこでパウロは、イエス・キリストに目を向けさせるのです。

キリストの謙遜

 6〜8節をご覧下さい。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
 ここで神の御子、キリストであるイエスさまが、神の身分でありながら人間と成られたことが記されています。「神と等しい者であることに固執しようとは思わず」と、神であるお方が、神であることを捨てて、人間と成られた。「自分を無にして僕の身分に」なられたのだと述べています。「僕」というのは、別の言葉で言えば「奴隷」の身分になれたということです。そのようにイエス・キリストは、ご自分を低くされたと。
 言っておきますが、聖書で言う「神」とは、あまり人間と変わらないような神さまではありません。天地を作られた神さまです。宇宙を造られた神さまです。私たちを造られた神さまです。その神のかたちであり、神であられたキリストが、自分を無にしてへりくだり、人間となられて私たちに僕としてお仕えになったというのです。そして十字架で死なれた。命を投げ出されたのです。

私たちを救うため

 いったい何のために? 子なる神であられる方が、そこまで自分を低くして、私たちに仕え、そして十字架にかかって死なれたのか? それはクリスチャンであれば誰でも知っていることです。そのことを今一度確認しなければなりません。すなわち、それは私たちを救うためです。ただそれだけのためです。
 神さまは、それを信じることを求めておられます。なぜ信じることを求めておられるのか?‥‥それは、この私という1人の人間が、神とキリストを信じることによって、独り子なる神であるイエス・キリストの愛を受け入れることになるからです。そして、キリストの十字架が、「私たち」のためであり、さらに「この私のため」であることが明らかになるためです。「わたしは誰からも愛されていない」と言う人がいます。それは間違っています。たとえ、この世の誰からも愛されていなかったとしても、イエスさまは愛しておられる。ご自分の命を十字架でわたしの代わりに捨てて下さるほどにです。
 先ほど3節の「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」とパウロが述べている所を読みました。そしてそれはキリスト・イエスにも見られることであるからだと。すなわち、これは実に驚くべきことですが、イエスさまは、この私たちを「相手を自分よりも優れた者と考え」てくださったということになります。実に驚くべきことです!あり得ないことです!全地・万物の造り主である三位一体の神であられる御子イエスさまが、この私たち一人一人を、ご自分よりも優れた者と考えて下さったということです!‥‥だから、イエスさまは人と成られて、十字架にかかられた。神の御子が、この私という実に罪ばかりでなんの価値も値打ちもないような人間である私という人間を、ご自分の命に代えても救う価値があると考えて下さった。だから十字架にかかられたのだと言っているのです。
 そして父なる神は、十字架で死なれたイエス・キリストを、よみがえらせ、引き上げて下さったのです。
 私たちは愛されています。そのしるしが、イエスさまにおいて神が人と成られたということであり、私たちの代わりに十字架にかかって命を投げ出して下さったということです。まことに感謝です。

(2011年8月28日)


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